成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

浅子の実家・東京小石川三井家本邸、三郎助&高修の時代

2016年01月13日 | 歴史・文化
小石川三井家の東京本邸は、小石川区水道町に所在、安藤坂に面しており、洋館や和館、蔵などもある豪壮な邸宅であった。しかし第二次大戦中、惜しくも戦災で焼失した。
 跡地には、現在、文京区立第三中学校があり、左右の門柱は往時のものである。
浅子は、明治30-40年代、上京すると、「愛弟」と称する三郎助(8代当主)の東京本邸に滞在し、また軽井沢の三郎助別荘に行き聖書を読み、信仰を求め苦悶したときにも、ここが拠点となり行き来していた。
 三越呉服店写真部が調製した小石川三井家本邸の絵葉書が残されている。
洋館部分の絵葉書で、左が食堂(42畳相当)、右が客室(21畳相当)などで、食堂の前には、噴水のある洋式の円形池がある。洋館内部の写真も残されているが、壮麗きわまりない。
 一方、和館の部分には、中庭が複数あり、鶴や鹿などが飼われていたという。浅子の甥・高修(9代当主)は動物好きで、爬虫類なども好んだという。また自動車を愛好、自動車整備場や部品倉庫の建物などもあった。当時としては珍しい硬式テニスコートもあり、ニューヨーク時代に知り合った熊谷一弥(五輪テニスで日本人初の銀メダリスト、大牟田出身)を近くに住まわせ、物心両面で支援した。
 写真は、洋館部分の庭のところで、高修の子供たち、多都雄(長女、和服、洋傘)、美佐雄(次女、洋装)、高修(3男)、高達(4男)と思われる子どもたちが写っている。
 洋館、和館、3棟の蔵などから成り、大きい佛間、能舞台、家長室、執事室、巡査詰め所などもあった。


小石川三井家の跡地は、現在、文京区立第三中学校になっている。校門は小石川三井家本邸のものである。ちなみに文京区立の中学校で校庭がもっとも広いのが第三中学校であるという。それだけ三井家の敷地が広かったということになろう。




画才があった小石川三井家当主による東京本邸スケッチ画(和館、西座敷あたりの部分図)


この手帳は、昭和22年8月30日ー31日、万年筆で書いたものである。鎌倉は、当時、人に貸していた鎌倉別邸(材木座
中島)、久世山は文京区江戸川橋交差点からほど近い急坂をあがったところの久世山別邸、水道町は文京区安藤坂の
焼失した小石川三井家本邸のことである。

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