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ブレンデルのベートーヴェン(1)

2008年12月31日 | 音楽
 1995年にサントリーホールで行われたブレンデル氏のベートーヴェン/後期ソナタ(最後の3つのソナタ)の演奏会ですが、実際に聴きに行けなかっただけでなく、その後行われた放送もNHK-FMを含め全て聴き逃してしまい随分悔やんだ記憶があります。その演奏会の模様が先日NHK BS2で放送されたのですが、当初の予定では2008年12月22日(月)00:40~04:00と記載されていてこの通りに録画予約しておいたのですが、直前になって00:40~04:27に変更されていて、前半に組まれていたサントリーホールの演奏会の模様は録画出来たものの、後半のシューベルトのB-durのソナタが途中で切れてしまいまたまた泣いてしまいました。あまりに悔しかったのでDVDを注文してしまいました。この録画はおそらくAlfred Brendel Plays & Introduces Schubert: Late (1977)に収録されているものと同じなのではないでしょうか。届き次第確認してみます。

 さて、件の番組「ブレンデルのベートーベン ~ 最後の3つのソナタ ~」ですが、プログラムは勿論、

1. ピアノ・ソナタ ホ長調 作品109
2. ピアノ・ソナタ 変イ長調 作品110
3. ピアノ・ソナタ ハ短調 作品111

で、アンコールはバッハ=ブゾーニのコラール前奏曲「来たれ、異教徒の救い主よ」でした。[放送: NHK BS2 12月22日(月) 00時40分30秒~02時02分00秒(1時間21分30秒)][ 収録: 1995年9月28日, サントリーホール ]

ここでは現在練習中のc-mollのソナタについて参考になった部分を書いておきます。

まず第1楽章から。
 序奏のテンポが先ず問題となります。Maestosoと記されていますが、シュナーベルはしばしばGraveと混同されるがこれらは本質的に異なるものであるとして区別しており、四分音符=52-54としています。この通りにするとかなり速くなります。シュナーベルの議論はかなり難解と思われますが、約言するとMaestosoは何か超越的な精神を表現しており、Graveは反対に地上的な個人的悲哀を表現するに留まると言いたいようです。
 序奏冒頭の豪快な左手の跳躍を伴う複付点音符ですが、アウフタクトのEsを右手で取ります。これは演奏上は負担が少ないものの、やや豪快さに欠けるようにも思います。第2小節のAs、第4小節のDesも同様です。しかしながら、テンポに関する議論を勘案するとこの左右の配分の方が理に適っているとも言えます。第2小節、第4小節に現れる上昇アルペジオの左右の配分は最初の4音のみ左手。この運指の方が負担が少ないですが、シュナーベル版その他では第2小節では最初の7音を、第4小節では6音を左手で取っており、このように弾くと左手が大きく動くために低音が荘厳に響きます。コメントを見ると自筆譜ではそうなっており、その他の左右の配分は正当化されず劣っているとまで書かれています。自分で自筆譜を確認したところでは、記譜上は確かにそうなっているものの、それが左右の配分まで意図したものなのかどうかまでは確認できませんでした。また、シュナーベルによるとこの部分のダンパーペダルとそのrelease-signはベートーヴェンによるらしいですが、実際どの程度までrelease-signを尊重すべきなのか。文字通りにするとぼわんとふくらんでしまうし。公開されている自筆譜と初稿を見ると確かにそのように書いてあるようです。(これらのrelease-signは丸に見えますが、全音符とまぎらわしいような。)第11小節のスフォルツァンドとピアノの対比ですが、一部を右手で取ります。確かに全部左手で取ると右手が遊んでしまいます。それから第11小節冒頭の和音ですが、シュナーベル版では脚注にあるように自筆譜に基づいてスタッカートを除いていますが、自分で確認したとことではスタッカートが見えるのですが。。
 第19小節冒頭の両手のC音においてもシュナーベル版ではスタッカートが除かれています。この音は序奏の結論でありかつアレグロの開始として非常に重要な意味を持つ音であり、短くするよりは長くするべきだ、という理由もあるようです。しかしあえてテヌートにすることもないような。ブレンデル氏は自然に弾いておられました。提示部の力強い第1主題はCとEsの間が詰まっているように聴こえます(後述するように実はスフォルツァンドを溜めていることによるようですが)。第20小節のフェルマータは4-4_1/2 crotchetsくらい(シュナーベルは5 quarti e mezzo circaと記している)。またpoco ritenenteのAsが長い。ところで第27小節の左手の運指ですが、自筆譜を確認したところでは2番目の16分音符から次の小節の3つの16分音符までの運指が書かれています。しかも指番号をかなり試行錯誤した形跡があります。First copyではシュナーベルの記載通り第27小節の最後まで指番号が書かれています。ということはシュナーベルはFirst copyを主に参照していたのかな。トリルは序奏を除き全て上隣接音から始めています(第35小節、第64-66小節など)。これは議論の余地があるところであろうと思います。(たとえば、高橋氏のベートーヴェンのトリルの研究など参照。)第2主題のテンポはやや遅めに設定。第1主題の小コーダにおける主題も詰まっているように聴こえます。
 展開部ではトリルはやはり上隣接音から。第86小節から第90小節までのスフォルツァンドはかなり溜めています。ここに至って詰まったように聴こえた主題というのは実はスフォルツァンドを溜めていたのだなあということが分かってきます。我が眼を(耳を)疑ったことには、第93小節の3拍目の16分音符が両手全てオクターブになっているのでした。確かに、Immanuel Von Faisst, Sigmund Lebert, Hans von Bülow校訂版では、オクターブで奏するよう示唆されていますが。シューベルトの『さすらい人幻想曲』でも高度なオクターブ奏法を聴かせてくれたブレンデル氏ですが、まったく違和感なく奏しておられます。この版では第92小節のわずかなアラルガンドはこのオクターブのために正当化されうるとの脚注がありますが、シュナーベルはこれは不適切であるとして正反対の脚注を付けているのは興味深いです。
 第109小節の12番目の16分音符はImmanuel Von Faisst, Sigmund Lebert, Hans von Bülow校訂版ではCesになっていますが、自筆譜を確認したところではCです。楽譜上には記されていませんが、再現部第112小節第3拍目のH音には小生もアクセントを入れたくなります。この日のブレンデル氏は極端に強調しておられました。第112小節左手のAのナチュラルについて、シュナーベルは10番目の16分音符にしか付いていないと脚注に記していますが、確認したところでは確かに自筆譜の4番目の16分音符にもナチュラルは付いていました。第133小節最後の2音が次の小節の冒頭の2音と同じになっているのはどこかに異版でもあるのかと思いきや、自筆譜ではAs H G Hとなっているらしい。しかもシュナーベルによると疑いようのない明晰さでこうなっているというのですからやはりこうするべきなのか。確認したところでは、First copyではAsとなっており、自筆譜はかなりぐちゃぐちゃと書き直した跡があり判読できませんでした。ちなみに自筆譜、および初稿はhttp://imslp.org/wiki/Piano_Sonata_No.32,_Op.111_(Beethoven,_Ludwig_van)からPDF filesが入手出来ます。最後の和音はほとんどアタッカで第2楽章へと続きます。(続く)

水道管破裂!

2008年12月30日 | その他
あ''~~~ここ数日の寒気で2階と3階の間の水道管が破裂したらしく、1階と2階が大洪水状態に。。。天井から水が漏ってます(写真)。今年の年末はこの後始末に終始してしまいました(苦笑)。

今朝出張先からの帰りに駅の床屋に寄って髪を切ってきたのですが、その床屋の壁に液晶パネルがあってニュースを中心とした記事が表示されていました。で、髪を切っている間他に見るものも無いのでなんとなく眺めていたら星占いコーナーになって、双子座のみ×で他の星座は○なんですよね。小生双子座なんですが、双子座の今日の運勢は最悪らしいのです。「星占いなんて信じないよー」と思いながら、「何か悪いことでもあるのかな」と思っていたら、、、水道管破裂でした!

ラフマニノフ/前奏曲嬰ト短調Op.32-12

2008年12月17日 | 音楽
 解剖学でgrooveといえば、上矢状洞溝groove for superior sagittal sinus, S状洞溝groove for sigmoid sinus, 横洞溝groove for transverse sinusなど、骨などの表面にある血管など他の構造物の入る溝が思い出されます。語源的にはゲルマン語に由来し、「もともと「地面に水路を掘る」という意味であり、gravity, groundのように、地球と関係している言葉」なのだそうです。『語源から覚える解剖学英単語集-骨単(ホネタン)』(NTS, 2004)によると、演奏などがイカしている、という意味の英語の俗語groovyは、「昔のレコードの溝grooveに、針がずっと乗っていて音飛びしないのは「非常に良い状態」だから」ということに由来するそうです。このgroovyという言葉はジャズ方面の方々が良く使うらしいのですが、もっと微妙な要素を含んでいるようです。雑誌『ユリイカ』の2008年5月号は作曲家ラフマニノフの特集でしたが、この中の声楽家の折田真樹氏が書かれた「ラフマニノフの聖歌」という記事の中に「グルーヴ感」に関する説明がありました。なかなか説明が難しいらしいのですが、「レコードの溝からうまれるうねりのようなもの」という説明がよくなされるそうです。私などはもはやLPを聴く機会は滅多になくなってしまい、この感覚は良く分からないですが、氏によると、ロシア聖歌の魅力は「神秘的でグルーヴィであること」なのだそうです。
 さて、前置きが長くなってしまいましたが、音源アップロード実験その4です。今回はラフマニノフの前奏曲嬰ト短調Op.32-12をご紹介します。全ての調を網羅する24の前奏曲集として有名なものといえば、ショパンの『24の前奏曲Op.28』があり、ラフマニノフと同時代人のスクリャービンも『24の前奏曲Op.11』を残しています。これらと異なり、ラフマニノフの『24の前奏曲』は異なる時期に作曲されたOp.3-2, Op.23, Op.32をまとめたものであり、統一性がないと言われることも多いですが、同じ『ユリイカ』の特集の中の高橋健一郎氏の記事では「明確な構成原理を持つと見ることも可能である」として作品の配列に関する興味深い分析がなされています。因みにこの記事中でもOp.32-12は傑作として名高いと紹介されています。
 今回の音源は某演奏会のリハーサルとして某ホールを借り切って練習した際の録音です。ピアノはスタインウェイD-274、調律はしていません^^;Rachmaninoff / Prelude gis-moll Op.32-12 [2'27''], mp3 2.24MB.

20 Regards sur l'Enfant-Jésus

2008年12月13日 | 音楽
 メシアン生誕100年記念として行われたロジェ・ムラロ氏(Roger Muraro)のピアノ・リサイタルに行ってきました。プログラムはオリヴィエ・メシアン(Olivier Messiaen, 1908-1992)の『幼な子イエスにそそぐ20のまなざし(20 Regards sur l'Enfant-Jésus)』全曲です。ムラロ氏はパリ国立高等音楽院でイヴォンヌ・ロリオ-メシアン(Yvonne Loriod-Messiaen, 1924-)に師事し、1981年フランツ・リスト国際音楽コンクール第1位、86年チャイコフスキーコンクールでグランプリを獲得した実力者であり、「メシアンを弾かせたら右に出るものはいない」と言われています。メシアンのピアノ作品全曲録音があり、早速会場で購入してブックレットの表紙にサインして頂きました(笑)。大変長身な方で、その強靭でありながらやわらかなタッチで生み出される明確で透明感のある音色は、メシアンの賞賛のメッセージそのままです。その賞賛のメッセージは、プログラム・ノートでは、「ロジェ、この難曲を崇高なまでに完璧な演奏をありがとう。華麗な演奏技術、熟練、音色、音楽性を心から神に感謝します。」と紹介されていましたが、CDのブックレットではさらに、"et j'oserai dire sa Foi !... (I make so bold as to say, his Faith!...)"となっており、「あえて言うなら彼の信仰に。。。」といったところでしょうか。これが削除されていたのは少し残念な気もしますが、日本では誤解を招くと思われたのでしょうか。
 プログラムの藤田茂氏の解説はとても素晴らしいもので、メシアンの意に沿って、メシアンを「キリスト教カトリックの作曲家」としている点、今回演奏された『幼な子イエスにそそぐ20のまなざし』を「ピアノによるクリスマス・ミサ」と理解している点で、無宗教・無神論の現代日本にあっては特筆すべきことと思われます。時折「精霊」と誤訳されている第10曲の「喜びの聖霊のまなざし(Regard de l'Esprit de joie)」のl'Espritですが、適切に訳されており安心しました。そういえば、昨年バッハの某演奏会のプログラムで「精霊」という語を見かけぎょっとしたのを思い出します。時折音楽と作曲家の思想とは切り離して考えるべきだと反論されますが、私自身はピアニストは作曲家の思想的背景をもじゅうぶんに理解している必要があると信じています。今回の演奏会は全ての点で傑出していたといえます。

51の練習曲

2008年12月12日 | 音楽
 常日頃ブラームスの51の練習曲(51 Übungen für Klavier WoO. 6)をよく弾いていますが、この51という半端な数字には何か意味があるのだろうかと常々疑問に思っていました。これと関係があるのかないのか全く不明ですが(多分関係ないかと思いますが。因みに全音版の門馬直美氏の解説には「ブラームスがなぜここで51曲という曲数を選んだかは不明である。」と書かれています。)、たまたまグレゴリウス1世の『福音書講和』(熊谷賢二訳、創文社1995年)を読んでいたら、ヨハネによる福音書第21章第1-14節に関連した第39講和「復活-ティベリアスの海辺での出現」に興味深いことが書いてありました。ヨハネによる福音書のこの引用箇所には153匹の魚の数が記されていますが、グレゴリウス1世は「この数は、深い秘義を蔵している」として、旧約の十戒、新約の聖霊の7つの賜物の数から、「わたしたちのすべての力と行いとは、十と七という数で完全に表現される」とし、「この十七を三倍すると、五十一になる。この数は、確かに深い秘義を蔵している。」として旧約のヨベルの年に言及します。この51を3倍すると153になる、というわけです。解説の注によるとアウグスティヌスも十戒の10と聖霊の七つの賜物の7とを足した17を説明の手がかりとしているそうです。もともとこれらの説明は153匹の魚を説明するためのものですが、ついでに51という数にも意味があったことが分かります。なんらかの練習の励みになる(?)かもしれませんね。