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吉村昭著『陸奥爆沈』を読む

2016年09月27日 | 折々の読書
 荒波を蹴立てて進む軍艦は勇ましいが、その反面、悲壮で悲劇的な雰囲気が漂うように思うのは私だけではないだろう。
 その軍艦の中にはたくさんの兵隊が詰め込まれている。それは、ひとつの工場や町に似ている。それぞれが部分に分れて働く。主砲を撃つ者、弾薬を運ぶ者。見張る者、罐を焚く者、食事を作る者。また、彼らは様々な目的で、様々な経歴を経て乗組員となる。軍艦は厳しい規律が保たれ、威令は艦内の隅々まで行き渡っていた、はずである。

 著者の吉村昭は『戦艦武蔵』を執筆後、編集者の紹介で旧海軍の泊地であった柱島に向かう。最初は気が進まなかった著者だが、取材をするうちに陸奥爆沈の謎に向かって筆を進めるようになる。
 戦艦陸奥は、太平洋戦争中頃の昭和18年6月8日正午過ぎ、瀬戸内海の柱島泊地で繋留中に謎の大爆発を起し、1、2分で沈没してしまう。戦艦長門とともに国民的な人気を誇り、大艦巨砲主義の象徴だった陸奥はあっけなく艦体が折れ深さ40メートルの海底に沈んだ。
 ちょうど昼食後の休憩時間であったが、生憎、濃霧であったため、乗組員は船室で過ごしていたことが犠牲者を増やした。艦長をはじめ、たまたま訓練で乗艦していた予科練生を含めた1,474名のうち1,121名が殉職するという大惨事となった。

 肝を冷やした海軍がすぐに調査に乗り出し、M査問委員会を設置(Mは陸奥を指す)、仮説をもとに、極秘裏に潜水調査、爆発実験、さらに、水兵の聞き取り、素行調査までして調べたが、はっきりした理由は分らずじまいだった。
 爆発の原因として挙げられたのは以下のようなものである。

1 敵襲によるもの
 ア 航空機による雷撃
 イ 潜水艦による雷撃
2 物理的原因によるもの
 ア 三式弾(開発間もない新式弾で安定性に疑問が投げかけられた)による自然発火による爆発
 イ 無煙火薬(装薬)の爆発
3 人為的原因によるもの
 ア 兵員による故意の放火
 イ スパイの謀略によるもの

 1については、状況と証言から不可能であるとされ斥けられた。
 2のアがもっとも疑われ、一時は全艦艇から三式弾が撤去されたが、これも実験場に於ける大規模な実験により問題が無いことが判明した。
 イの装薬も通常は火薬缶に収められており、蓋が開いてでもいなければ発火、誘爆させることはできない。軍律厳しい軍艦の中でも特に警戒が厳しい弾薬庫は常に衛兵が立ち、鍵の管理も厳重で、密かに忍び込み火薬を発火させるようなことは不可能であった。

 ところが、日本海軍の歴史において、複数の人為的原因による爆発事故が起こっていることが、取材を進めるうちに分ってきたのだった。日本海海戦で有名な戦艦「三笠」も水兵の過失などが原因で爆発と爆沈などを起こしてる。明治から大正まで6例の事故があり、うち4例は爆沈に至っている。いずれも下士官などによる恨みや失意による放火であった。規律ではコントロールできない感情や、管理の杜撰さがあったのだ。

 M査問委員会が最終的に疑ったのは、陸奥の第三砲塔員であった二等兵曹であった。彼は盗難事件の疑いで爆沈の日に尋問を受ける予定になっていたこと、素行についても不相応な遊蕩をしているなど不審な点が発覚した。しかしながら、査問委員会の報告書は戦後の混乱により所在不明であり、その結論は正確には分らず、陸奥爆沈は今でも大きな謎である。
 しかし、著者が、事故からまだ四半世紀ほどの時点で取材を行ったお蔭で、生存者、関係者、種々の記録から、ある程度まで陸奥爆沈の状況が整理されて残されたことになる。しかし、現在ではもう、戦艦陸奥の名も忘れられ、爆沈の事実も風化に晒されているのかも知れない。

 もし、爆沈が一人の兵隊の仕業だとすれば、黒鉄(くろがね)の軍艦もたった一人の人間の手にによってスクラップと化すのである。そして、戦争遂行に汲々とする軍部は生存者の人命よりも機密を保持を優先した。陸奥生存者は最前線に送られ、ほとんどが戦死させられた(終戦後帰還した者は約60名)のである。武蔵撃沈の場合と同じである。

 吉村昭著『陸奥爆沈』(新潮文庫)、1979年11月刊、2015年10月29刷.(単行書は、1970年5月刊行)