弁護士の企み
屋敷政則はハヤトの家の前にいた。別れた妻に譲ったかつての自分の家。煤けたブロックと錆びた鉄の門。狭い玄関前は殺風景でドアの横のポストからダイレクトメールや差し込み広告が崩れ落ちている。表札は『田町』だけで男も子供の気配はない。
呼び鈴を押そうとしてためらった。
その時、「屋敷さん、それはやめた方がいい。」声をかけられた。
「お前・・・!」
振り向くと立っていたのは何時ぞやの気に触る弁護士だった。
「なんでここに」「さぁ、こっちへ。」
弁護士は呼び鈴を押すために掲げられた屋敷の手を掴んで引く。「ゆっくり話しましょうや。」
「何の用だ!お前とはもうないはずだ。」ハイハイと腹の立つ弁護士はいなす。
「あなたの奥さん、いやもう今は『元奥さん』になりましたことをご報告に。無事に滞りなく、すべての手続きが完了しましたと、ね?そしたら今度はあなたが『前の前の奥さん』と『その内縁の旦那さん』に対して、どう見ても騒ぎを起こそうとしている現場に遭遇したわけですから。」
「うるさい!」ふざけた言い方に血が一気に逆流する。「お前には関係ないだろ!失せろ!」
しかし、掴まれた腕は離れず体は捻られたまま引きずられる。顔に登った血の行き場がない。
「このやろう!俺がおとなしく黙ってれば!」
「ほら、お隣さんが見てますよ。あの人、あなたの顔を知ってるんじゃないですか。」
隣の玄関から見覚えのある主婦の顔が覗いていた。好奇心いっぱいの目で。
「ババァ!何を見ている!」いつもいつもあの女は俺の家を監視していた。俺が窓を割った時に、警察に電話されたこともある。俺がDVだと近所に言いふらしやがって・・・!
「見るんじゃねぇ、ぶっ殺すぞ!」
彼が吠えると主婦は慌てて奥に引っ込んだ。
「物騒ですねぇ。」道の角に黒塗りピカピカの車が停めてあった。弁護士はその車に彼をぐいぐいと押し込む。
「いいから、私の話を聞いといた方がいいですよ。」
「俺に偉そうにするな!」そう叫んだ屋敷だが、中にいた女に目を止めることは忘れなかった。
「どうぞ、屋敷さん。」女がそう言って彼を招き入れたからなおさらだ。冷たい手が触れてくる。「隣へ。」
目があうと微笑む。彼の熱が一気に下がった。
女が彼の好みだったからだ。目があった瞬間、体の別のところが熱くなるような。
もごもごと言いながら屋敷は結局後ろの座席、女の隣に入り込んだ。
弁護士が運転席に滑り込む。
「いったい・・・」屋敷は女の顔から目を放し、むき出しの女の足に目を滑らせる。白い足だ、締まるところは締まったしなやかな長い足。目が離せなくなる。「なんだって言うんだ。」
「まぁ、ビジネスですよ。」「ビジネス?あいつとの仕事はもう終わったんだろ。」
「『前の奥さん』ですか?」「その言い方はやめろ。」
「だから、新しい仕事ですよ。」車が動き出す。「ご自宅までお送りしますよ。その間にお話しましょう。」「新しいビジネス・・・?」彼がかつて暮らした家が隣の主婦とともに遠ざかっていく。「私はですね、受け持った仕事のことで気になることがあると調べるんです。」
「調べる?」「あなたのこともいろいろと調べてみたんですよ。」
彼は再び、怒ろうとしたが隣に座る女が距離を詰めてきたので集中できなかった。
女の手が膝に触れてくる。
「・・・なんだって、そんなことを・・・するんだ?」白い膝が彼のズボンの生地に触れる。「さぁ、趣味、ですかねぇ。人は弁護士に依頼しますが、人はね、いろいろと隠してるもんなんですよ。自分に不利なことをね。それを包み隠さず話してもらわないと、弁護はできないというのにね。」女の手が自分の手を掴んだので、屋敷はビクリとした。
顔を見ると女は彼の目を覗き込むように見ていた。
改めていい女じゃないか、顔立ちが整ってるだけじゃない。露出の過度な服を着ているにもかかわらず、どことなく品がある。それなのにそれを裏切っているのはその目だった。微妙に焦点が合わない眼差し、まるで絶頂に達した時のような。そのちぐはぐな視線が乱れた前髪から覗いている・・・形の良い口元は緩んでいる。誘っているのか、俺を。わかりやすく。
そんなものはAVでしか見たことがない。その上、こんな色っぽい上玉は自分には生涯、縁がないと思っていた。現実で、生でか?。思わずゴクリと喉が動いた。
手が男のジッパーに触れてきた。下半身が硬くなる。
彼の手のひらも短いスカートから生えた女の白い膝に置かれた。無意識に手が動き出した。
「それで色々と探りだすんですよ。彼女の手を借りて。」「あんたの・・?」屋敷の目は女の目から離れない、手の動きは止まらなくなる。「探偵なのか?」
「・・・そのようなものよ。」女の唇が開いて白い歯が覗いた。少し不揃いな前歯を舌がなぞる。声は低く囁きに近い。女の手も動き続けている。
「依頼人を調べて・・・何を?・・・ビジネスって、つまり」屋敷の息が荒くなるのを弁護士は気づかないふりをする。「ダメですよ。素直に話さない人は。だから、私に達に付け込まれるわけです。」「俺は・・・依頼者じゃない・・」「でも、秘密がある。調べてみたら怪しさ満載だ。」「・・・恐喝か。」弁護士はハンドルを動かしながら肩をすくめる。車は高速の入り口にさしかかっている。女の手は確実に仕事を進め、屋敷政則の手は女の下着の中に入っていく。
「あなた、子供、殺しましたね。」
一瞬で屋敷は萎えた。手が止まった。
「違いますか?」
「・・・何を言う・・・」
屋敷は女の中から手を引き出そうとするが女がさせない。
素早く耳を寄せてきた。
「・・・仕方がなかったのよね?不慮の事故だった、違う?」
「・・・そうだ・・・」「子供を山に埋めた。これ、『前の前の奥さん』がカウンセラーで話した内容ですよ。さぁ、そのカウンセラーも半信半疑だったようですが、実際に家まで行ったそうですよ。でも、そうしたら子供がいたんで嘘だとわかってとりあえず安心したと。さっきのあのハヤトくんです。守秘義務?さぁ、カウンセラーと言っても人間ですからね。しかも、患者に手を出してましたからね、薬を飲ませて。そのあたりで取引に応じるってこともあるんじゃないですかね。」
「だけど、死んでなかった、見ただろ?そのカウンセラーだって嘘だとわかったと。」
「さぁ、それはその、あれですけど・・・さっきの子、本当にハヤトくんでした?」
「何、言ってるんだ?」
「あなた本当は子供の顔、ろくに覚えてないでしょ。」
屋敷政則は言葉に詰まった。別れた頃、4歳だった息子は実年齢よりも小さくしなびていて父親の前でいつも顔を伏せていた。最後に見た息子、穴の中に横たえた子供の顔は青黒く膨れ上がっていて・・・父親は目を背けてその顔からまっ先に土をかけたのだ。
黙りこくった屋敷に焦れた女が囁く。「続けて。」
屋敷の手は動かない。
「あの子供、内縁の男が連れてきたんじゃないですかね。」
弁護士がハイウェイを飛ばしながら朗らかに声を発する。
「そうなると、どういうことかわかりますか?あなた慰謝料払いましたよね、あの家だ。養育費も払い続けている。決して安くない金を。」
「・・・俺が騙されてるって言いたいのか?」
「不思議に思わなかったんですか?いつまでも息子の不在がバレないことに。あなた、『前の前の奥さん』がいつまでも隠しきれないことを知っていた。あの精神状態ですからね。保育園や幼稚園は隠し通せても、さすがに小学校に上がる時になればどっちみちダメなはずだと。そうなった時に金を払い続けていたことは、あなたが子供の件を知らなかった証拠になる。その為の養育費だったんじゃないですか。」
「だったらどうなんだ。」顔を埋めようとした女の髪を荒くつかむ。髪が抜ける感触。無防備な白い喉元が露わになり、襟ぐりの広いシャツから谷間が覗く。女はブラジャーをつけていない。屋敷の下半身は再びどうしようもなく熱くなる。
「何が欲しいんだ?金か、こんな売女までつぎ込んで!」男は女の首に手をかけて吠える。
「誤解しないでくださいよ。」窓を流れる光景のように弁護士の声は滑らかだ。
「私たちが金にしようとしてるのはあなたじゃない。あの内縁の男ですよ。あなたに求めているのは協力です。」「協力?」無抵抗の女の細い首、屋敷政則の手は緩む。その隙に女の頭はもう一度、沈んでいく。「私たちに力を貸してください。」
「・・・こんな手で・・俺を買おうっていうのか?」
「もちろん。報酬もたっぷり払いますよ。あなた、これから別口の養育費もかかりますからね。でも今、払ってる額がなくなれば・・・そっちに回せる。」
屋敷政則はうなづくのが精一杯だ。
「ああ、それでその報酬ですが。それは、ほんの手付けですよ、お近づきのしるし。後でもっとたくさんお払いします。あなたが『前の前の奥さん』にこれまでに支払った分が取り戻せるぐらいはたっぷりと。」
我慢の限界が近づき、弁護士は唸り声を漏らす男の姿に目を走らせた。
「だって、あなたは色々と鬱憤もたまっているでしょ。奥さんたちともしばらくお見限りだし。好きにしていいんですよ。乱暴にされると、彼女興奮するんですって。」
ついに獣のように声を上げた屋敷政則は女を後部座席に荒々しく押し倒す。
それを背中で感じ、弁護士は上機嫌だ。
「どうぞ、ご存分に。高速を降りて、また乗ってもいいですし。」
「私より良かったですか?」
満足しきった表情で自宅に向かって歩いていく男を運転席から見送った弁護士が黒い透明フィルムで窓が覆われた後部座席に笑いかける。乱暴にテッシュの箱を戻しながら女は肩をすくめた。
「・・・いいわけないか。」
前を向いたままの弁護士は笑い、女は乱れた衣服をゆっくりと整える。座席の下の冷蔵庫からおしぼりを出し、炭酸を口に含んだ。
「これでいいのか。」
「充分ですよ。屋敷政則はもうあなたの虜です。きっと、協力を惜しまないでしょう。」
「だといいな。」女は体を広い後部座席に横たえた。「しかし・・・しつこい。」
「後で忘れさせてあげますよ。」「言うか。」
弁護士は男が家の中に消えるのを待ってブレーキから足を離す。
「うまくいって、あとはホムンクルスが・・・田町裕子の家から出てくればいいな。」
「あの家は思った以上に呪術的に守られていましたからね。」
「呪術・・・」女は苦笑する。「と、いうよりは『次元』的にって言った方がいい。」
弁護士は横目で女をねめつける。「その方が宇宙的だとしても、私は魔族ですからね。」
「テベレス。」女は笑いをかみ殺し、先ほど眺めた『田町邸』を思い返す。
「・・・少なくとも、あの家は三つの違う次元がかかっているよ。」
そのためにあの家は周りから空間が重くなって、少し沈み込んでいるように見えた。
「おそらく・・・鬼来の村と同じく、どこかへ通じている。」
「はん。次元、次元などというとどこかの霊能者みたいじゃないか、マサミ。」
「そう、まるで基成先生みたいだね。」マサミの表情にかつてあった活力と精気がつかの間宿る。「あのことがあって以来、なんかそういうことに敏感になったみたいで・・・色々と、わかるようになったよ。」
「・・敏感になったのはそこだけですか?」
「馬鹿か。」マサミの足が運転席のヘッドレスを蹴ったが、魔族の運転操作はビクともしなかった。「それより、大丈夫なのか?。」
「・・・大丈夫とは?」
「何か、企んでる。白状しろ。」「さあて。」弁護士は老獪な笑みを浮かべる。
「まさか・・・最初から殺す気か。それに、子供の方は殺せとは言われてない。」
「どっちにしても、ホムンクルスの方は無害化して引き渡しますよ。生きてても、死んでても。あと、依頼者は子供には興味ないようでしたけどね。」「子供は殺すな。」
「相変わらず、マサミは甘い。」だけど私は魔族だ。正直、人の生き死になど興味はない。
「まぁ、善処します。これでいいですか?ホムンクルスの中身の方は・・・相手次第ですかね。」
「まさか、丸腰で出てくるとでも思っているのか?どのような能力や科学技術を持っているかわからないのに?」科学?魔物がせせら笑う。もっとも軽蔑する言葉だ。
「どっちにしろ、あの家の中にいる限りどのような攻撃も、こちらは仕掛けようがない。だけど・・・出てきてしまえば・・・果たしてどのような力があるのかな。楽しみなことだ。」
うっすらと魔族の笑みが肉体から透けて見えるようだ。
「勝てるのかい?」どっちでもいいような言い方だった。
「勝つ気があるなら・・・最初に次元を塞がないと。」
「逃げ道と援軍を断つってことですか?。ふふん、大丈夫。ダメなら深追いはしませんよ。」
(何を企んでいるのかは知らないが・・・)
信用ならないテベレスの笑みをマサミは胡散臭そうに見つめる。
(そう、それでいいんです、マサミ。疑うがいい、だって)
「・・・この星の未来など、私にはあまり興味がない。」