かぺるん日記

とりあえず。。

肩甲骨に住むもの

2011-02-10 17:27:11 | Weblog
昨年の秋、ギックリ背中になった。
台所で洗い物をしながらカウンター上の食器を取ろうと手を伸ばしたところ、左側肩胛骨の内側に電気のような激痛が走り、その後息をするのも苦しいくらいの痛みが続いた。
整体師の希代子先生に泣きついて遠隔治療をしてもらい、激痛はその日でおさまったのだけれど、肩胛骨内側の鈍い痛みというか違和感は、しつこくずっと残っていた。
まるで何かがそこに住み着いてしまったように。
それが、今年に入ってさっぱり消えてしまったのだ。
それと同時に、昨年後半陥っていた仕事のスランプモードを急に脱してしまった。
思い当たる理由は3つ。
①今年は年女だから。
年女・年男というのは吉なのか凶なのかよくわからないが、なにかしら変化があるということなんですよね。
②昨年末10年ぶりに行ったパリですごくリフレッシュできたから。
違う空気、違う時間軸に乗って過ごし、何かがそこで落ちて軽くなった気がする。
③仕事の環境(人間関係)が変わったから。
まあ普通に考えれば③がメインの理由でしょう。
優秀でそつのない部下の存在にプレッシャーを感じ、自分はダメだー、これ以上バカは見せられないと小さく固まってしまっていた。
上司の私がこんなことではいかんと思い、こちらが苦手意識を持っていることをさとられないように気を遣うため、微妙に緊張感の漂う人間関係にもなってしまっていたと思う。
申し訳ないけど、部下が別の人に変わったら、構えずに自分を出せるようになり、そうすると意外にいいアイディアも出てきて、ああ私大丈夫と元気になったのだった。
我ながら人間の器が小さいよなぁ。
でも、①も②も関係ある気がする。あまりにもはっきり年が明けて元気になったから。
人間の心って、意思でコントロールできない部分の方が多く、うまくいかないときは辛抱してやり過ごすしかないのだろう。
最近読んだ資料によると、国民の4人に1人が最低一生に一度は鬱などの精神疾患を体験するそうだ。
ところで、私が元気になったのはいいけれど、今度は当の新しい部下の元気のなさが気になっている。
この人もプレッシャーで小さく固まっちゃってるんじゃないだろうか。平静を装っているけれど実は苦しんでるんじゃないだろうか。
私にできることは限られてはいるし、私の好調さもプレッシャーのひとつになっているかもしれないので、関わり方は難しいのだが、
先に同じような苦しさを体験している者として、機会をみつけてエールを送りたいと思っている。
ときどき肩胛骨を回して確かめる。違和感はない。またちょっとしたきっかけでここに何かが住み着くこともあるんだろうけど、なるべくこのままでいたいな。

「悪と戦う」

2010-05-20 19:22:53 | Weblog
出版直前に高橋源一郎さんのツイッターで連夜展開されていたメイキングがとても面白くて、新刊の「悪と戦う」を買って読みました。

「悪と戦う」って、ちょっとギョッと立ち止まらせるタイトルですね。
「悪」って何なのか。
このお話の中では、とりあえず、世界=平和な日常、悪=その平和な日常を脅かす不幸の種、というような設定をもとに事態が進行していきます。
異様な容貌、障害、暴力など様々なパターンで「悪」の挑戦を受ける子どもたち、「ミアちゃん」「らんちゃん」「きいちゃん」が登場します。

「悪」の挑戦を受ける子ども、そしてその子どもに寄り添う親にとって、鈍感で安穏としたこの「世界」の方こそ悪なのかもしれない。
そして、「悪」は、自分の中に眠っていた生命力や愛情を目覚めさせるきっかけなのかもしれない。

切ないほどの子どもへの愛情、いろいろな形で「悪」の挑戦を受けている人へのエール、「世界」で安穏と過ごしている人への「想像してみて」という呼びかけ、などなどがあふれているお話でした。
子どもたちにも薦めてみようと思います。

この本を読んでいて、私が村上春樹の「1Q84」を受け入れられなかった理由を思い返した。
「1Q84」には、少女への性的虐待を行う新興宗教の教祖が登場する。
その教祖の言い分として、少女たちに対する性行為は、自分が望んだわけではなく、「声」とそれを聞きたがっている者達とに利用されているに過ぎないということが語られる。
彼自身は非常な苦痛を味わっており、制裁として与えられるはずの死が、彼にとっては苦しみからの解放になるのだと。
そこにはなにがしかの真実がないわけではないだろう。が、「悪いのは私じゃない」なんてことは、堂々と語られるべきことではないと思うのだ。
たとえ「悪」の挑戦を受けて苦しんでいても、それを増幅して他人に被せるような行為をした者は、
「悪に戦う」の中の超美形女子高生としてのミアちゃんー暴力をまき散らした末に超不細工になる整形手術を受け、飛び降り自殺していくミアちゃんのように、
「悪」と心中して落とし前をつけるしかないんじゃないか。
その生き方を見て周囲が「あの人もつらかったんだろうね」とそっと理解することはあったとしても、
本人が「悪いのは私じゃない」というメッセージを残して威厳を保ったまま安らかに去っていくなんて、気持悪すぎる。
そして、そのような彼の在り方も含めて、すべて青豆と天吾とが結ばれるための運命だったのだとでもいうように大団円に落とし込んでいくような物語の流れには、
強い抵抗を感じてしまうのでありました。

基地問題について

2010-05-18 21:06:08 | Weblog
今から20年以上前、学生時代にひとりで三宅島を訪ねたことがあった。
政府が米軍の夜間着陸訓練場の代替地を三宅島に求め、村議会もその誘致に向けて動いたが、村民の激しい反対行動に会い計画がストップしているという新聞記事に目が釘付けになったのだ。
私が驚いたのは、当時の三宅島は政治的には極めて保守すなわち自民党の強い地盤であるにもかかわらず、住民の大半が反対運動に参加している、という点だった。
基地問題を日米安保問題としか認識していなかった当時の私にとって、それは本当に不思議なことだった。そして、三宅島にお住まいの方たちに「どうしてあなたたちは基地誘致に反対なのですか。」と直接きいてみたい、どんな島なのか知りたいという気持が高まり、なんのあてもなく訪ねていったのだった。
泊まった民宿で宿のおばさんに私の目的を話し、「共産党や社会党の支持者ではないけれど反対運動をしているという方で、お話をしてくれる方はいないでしょうか。」とお願いして、何人かの方を紹介していただいた。島内をウロウロ歩き回って話をしてくれそうな方をつかまえたりもした。
見ず知らずの私にみなさん親切に対応してくださり、その人にしかできない重みのある話をしてくださった。とりわけ印象深かったのが、浅沼さんという農家のおじいさんだった。浅沼さんは島のことをたくさんたくさん話してくださったけれど、私が一番覚えていなければいけないと思ったのは、次のようなお話だった。
「こんな火山だらけの狭い島で、それでも私たちが噴火でひとりの死者も出さずに生き延びてきたのはなぜだと思いますかー。それはねえ、自然が教えてくれるんですよ。
噴火の少し前になると、まず鳥が騒ぎます、そして、なんとはなしにおかしい気配がします。それで、警報なんかが出るよりだいぶ前からみんな安全なところに避難できていたんですよ。
それがね、タッチアンドゴーの訓練なんかで毎日ゴーッとやられてごらんなさい、鳥は逃げてしまう、私たちも自然と体が鈍ってしまう、そんな中で噴火があったら今度は死者が出ますよ。それはね、天災ではなく人災なんですよ。」
人間も、ほかの動植物と同様に、周囲の環境に依存した繊細な生き物であり、乱暴な扱いをされて感覚が麻痺してしまうとそれだけで生き延びるのにリスクが生じてしまうものなんだ。この島の人たちは、それを実感していて、生き延びるために必要だからこそ基地の反対運動をしているんだ。
では、日米安保に基づく米軍基地の存在それ自体に反対することは、生き延びるということと切り離されたイデオロギッシュな問題でしかないんだろうか。
いや、そうともいえない。浅沼さんのおっしゃっていた「こんな火山だらけの狭い島」って三宅島だけのことではない。日本全体がそうではないか。狭くて平地が少なく人口密度の高い国。このような環境で私たちが感受性をこれ以上破壊されずに生き延びていくには、何が必要で何が害か。米軍基地を、そして日米安保をどうすべきかも、そのような観点から考えたとき初めて私の中に根っこを見いだすことができる、そう思ったのだった。
今あらためて考えてみると、基地の建設による感受性の破壊とは、騒音等による感覚の麻痺というようなことだけでなく、さらに大きな意味を持つのではないか。一部の地域の人たちにだけ基地の騒音や危険を押しつけ、大半の国民は自分たちの生活をそのような受難から切り離して生きていけるようにすること自体が、感受性の破壊といえるだろう。それをいえば、原発なども同じことだ。
一部の人々に犠牲を強いるような社会を作らないこと、それは私たち自身が生きていく上で必要な感受性を守ることでもある…そんな思想は、憲法にもないし、共産党や社民党の要綱にもないし、民主党のマニフェストでも謳っていない。しかし、基地問題や原発問題をなんとかすべきだという主張の一番根っこのところには、そのような思想があるはずだ、なければウソだと思うのだ。
普天間問題が行き詰まりを見せ、鳩山首相の発言の軽さ、見通しのなさが批判されている。それは批判されても仕方ないと思う。ただ、おそらく鳩山政権、というよりも政権交代により普天間問題を白紙に戻そうとしたエネルギーや流れの核には、そのようなナイーブな思想も含まれていたはずである。
鳩山政権の外交はあまりにも「ナイーブ」だという批判がある。そこで言われる「ナイーブ」とは、もちろん、未熟、稚拙といった否定的な意味だろう。でも、繊細、純粋という意味の「ナイーブ」さは、この問題を考える上で欠かせないものなのではないか。問題は、それを実現するためには高度の戦略や時間を要するが、残念ながら、そのようなものを現政権は欠いているということだろう。
戦略の稚拙さのために現政権が支持を失うのはやむを得ないとしても、やっと日の目を見かけたナイーブな思想が再び闇に消えていくことは、あきらめきれない気がする。
三宅島には、その後2度ほど友人や妹を誘って訪れた。最後にお会いしたとき、浅沼さんはだいぶ弱っていらして、私のことも忘れかけていらした。数年後、浅沼さんが亡くなったことをご家族からのお便りで知った。そのさらに数年後、三宅島で雄山の大噴火が発生し、全島民が避難を余儀なくされ、基地の計画も中止に至った。

一期一会

2009-12-18 18:37:35 | Weblog
映画「ジュリー&ジュリア」を見た。
フランス料理を作ること、食べることに情熱を傾け、その楽しさを人々に伝えた実在の料理研究家ジュリア・チャイルドの物語。
見ていてうれしくてニコニコしてしまった。
「私もよ、ジュリア。私も、食べこと作ることが大好きで、いつも料理のことばかり考えてるの!」
ここのところ胃の調子が悪くてシクシクと痛んでいたので、ヨガと整体で体調を万全に整えて、いざコート・ドールへ。
生牡蠣、サワラの燻製、白子のガレット、スジアラの蒸し上げ、青首鴨のロースト、洋梨のカラメルソース、利平栗のモンブラン。
どれも口いっぱいにほおばって、目をつむって味わってしまう。
ぎゅーっと凝縮してる、渾然一体となってしみ込んでる、そんな素材のエキスをどこまでも追いかけていきたくなるようなおいしさ。
神様、仏様、一年の終わりに幸せなひとときをありがとうございました!

息子と勉強

2009-11-20 19:19:47 | Weblog
公民の勉強をしている息子から、「なぜ日本国憲法の制定は、大日本国憲法の廃止ではなく改正という形をとったのか」という質問を受けた。
まず廃止と改正の違い(連続性の有無)の説明をしたところ、それは分かる、でも天皇主権から国民主権へという大きな変更をするなら連続性をぶった切って廃止・制定でよかったじゃないかという。
それはそのとおりで、憲法の学説でも憲法制定権力の変更は憲法改正の限界を超えるというのが通説のはずだ。
本来廃止・制定とすべきだったのに改正という形をとったことについては、ポツダム宣言受諾により天皇主権から国民主権へという「革命」があり、実質的にはすでに旧憲法の考え方が変更されていた、だから旧憲法の文言をそれに沿った形に変更することは憲法改正の限界を超えないのだ、というような説明が学者によって考え出され、わりと広く受け入れられてきた。
しかし、これはあくまで後付けの説明である。
息子の疑問は、新憲法を作る時点で、廃止・制定という選択肢もあったはずなのになぜあえて改正という手法を選んだのか、ということなのだ。
なんだっけか。芦部の憲法を見てみる。
「七十三条による改正という手続をとることによって明治憲法との間に形式的な継続性をもたせることは、実際上は便宜で適当であった。」とある。
さらりと「便宜で適当」と。
つまりこういうことかな。
もし旧憲法を廃止するとなると、その下で制定されていた法律も廃止となるのが筋だ(法律を廃止するとその下位法令もすべて廃止となるのと同じ理屈)。
そうなるとすべての法律を一から制定し直さなければならない。それは大変な作業だ。
天皇主権や軍国主義とはまったく関係ない内容で、新憲法の下でも使っても問題ないような内容の法律は、なるべくそのまま生かしたい。
そこで、そのような法律を面倒な手続なしに生き延びさせるためには、旧憲法との連続性があるという建前をとる「改正」という形式が便利だった。
こういう理解でいいのかわからないがとりあえず説明してみよう。
その時点の現実的な事情と後付けの説明には距離がある。それは、後付けの場合だけでなく同時にされる説明でも同じだ。ある行為を正当化する説明は、常に現実とは微妙に距離がある。
現実がどんどん進行し、説明もどんどん上書きされていくような場合は、その距離を正解に把握し続けるのはなかなか難しい。
憲法9条の解釈論とPKOや多国籍軍への自衛隊の海外派遣についての議論の経緯をたどっていて、特にそれを感じているところです。

丹田で座る

2009-11-09 18:42:38 | Weblog
整体ヨガの「かんのん」に通い始めた頃、整体師の希代子先生から、
足を組むと骨盤がゆがむからなるべく組まないように、と言われていた。
職場で長時間座っているとしんどくなって、ついつい足を組みたくなる。
努力して組まないように組まないようにと意識するけれど、ときどきがまんできずに組んでしまっていた。
最近になって気がついた。丹田に意識を向け、丹田で上半身を支えて座るようにすれば、足を組みたくならないのだ。
レッスンで「丹田で座って」と言われていたのはこのことだったのか。
半年以上たってやっと分かった。ようやく少し腹筋がついてきたので、体がそれを実感できたのだ。
頭と体の両方で理解できることがあると、とてもうれしい。

「裁判員制度とは何か」(岡島実著)を読んで

2009-10-19 20:48:18 | Weblog
数年前、裁判員の参加する刑事裁判に関する法律、通称裁判員法が審議にかけられたとき、第1条の目的規定を読んでおやっと思った。「国民の中から選任された裁判員が裁判官と共に刑事訴訟手続に関与することが司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資することにかんがみ、云々」あれれ?裁判員制度って、国民が裁判のことをよく理解したり「裁判官ってきちんと仕事をしているなぁ」と感じ入ったりするためのものなの?てっきり、刑事裁判の過程に一般市民を関わらせることによって判決の内容をよりよくするためのものだとばかり思っていたんだけど・・・。
違和感をひきずりつつも、自分の仕事と直接の関係はなかったので、それ以上深く考えることなくきてしまった。今この本を読んで、あらためて自分の不明を恥じるばかりだ。著者の岡島さんは弁護士さんだが、お忙しい弁護士業務の合間によくこれだけ充実した内容の本を書き上げられたものだと感じ入ってしまう。それだけの思いをこめられているということなのだろう。
裁判員制度を制度設計した者たちのねらいは何か。端的に言えば、集中審理による刑事裁判の迅速化、そして複雑な事件の単純化だという。一般国民に参加してもらう以上、審理にだらだら時間をかけるわけにはいかず、事前に争点を絞った上で連日的開廷によって集中審理を行う必要があるし、また、法律の専門家でない人にもわかるように法廷で見て聞いているだけでわかるような審理(パワーポイントを用いた図解のような)に変えていく必要も出てくる、したがって、従来から裁判所が頭を痛めていた審理の長期化や緻密化の問題が、裁判員制度の導入を口実にして一気に解決できることになる、というのだ。このことは、うがった見方などではなく、現職の裁判官の著した「解説裁判員法」という解説書の中にも正直に記されているという。
そこで、問題は、なぜそのような刑事裁判の迅速化、単純化が必要なのかという点だ。岡島さんの分析では、まず、社会不安の早期沈静化がねらいだという。世間に衝撃を与えるような刑事事件の解決が長引くと、社会不安が誘発される。そして、それは容易に時の政府への非難に転化しうるからだ。このような観点から、刑事裁判においては、真相解明よりも事件の迅速処理を重視するのが行政の発想となる。そして、行政官である検察官がこのような発想に立つのはやむを得ないとしても、事件の迅速処理を優先すればするほどえん罪の危険が増すのは事実であり、それをチェックすることこそが裁判官の役目であるはずなのに、裁判官までが同じ発想に立ってしまっていることを岡島さんは非常に問題視している。
裁判員制度は、このような事件の迅速処理のための集中審理や論点の単純化のためのよい口実となってしまったわけだ。それだけでなく、裁判員制度は、国民に対し裁判官の視点、さらにいえば権力側の視点をすり込むことによって、国民を社会不安の沈静化に利用する仕組みとなっているということを岡島さんは指摘する。裁判員は裁判官と並んで被告を見下ろす位置に席を占め、かつ、裁判員は裁判員だけでは結論を出さず、裁判官と密室で評議を行う(アメリカの陪審制の場合とはいずれも異なる。)。その結果、裁判員の目線は裁判官のそれに近くなり、たとえ違う視点をもっていても容易にプロの法律家である裁判官が適当と考える方向に誘導されることになる。つまり、裁判員は、えん罪の可能性をチェックするなどの第三者としての役割ははなから期待されておらず、裁判官の視点を共有し、対外的にこれを補強することで、社会不安の早期沈静化に一役買う存在となることこそが求められているのだという。出頭しなければ過料を課すということまでしてこのような役割を国民に強いることを岡島さんは批判し、これでは「参加」などではなく「徴用」だという(その「徴用」から逃れるための有効かつ本質的な方法も岡島さんはこの本の中で指南している)。
ところで、近年社会不安の早期沈静化の必要性が特に認識されてきたのはなぜなのか。これは、裁判員制度の導入の経緯をたどることによっておのずと明らかになるという。裁判員制度の導入は司法制度改革の柱のひとつであるが、司法制度改革は、橋本政権に始まり小泉政権で仕上げをされた構造改革と軌を一にしている。構造改革は、もとをたどれば、市場原理主義を貫徹しようとするアメリカが日米構造協議を通して日本に対して示してくる要求に応えるための処方箋である。市場原理主義を貫徹したときに、格差社会などの非人間的なひずみが生ずることは、まさに現在私たちの社会で実感されているところである。つまり、一連の構造改革のつけとして生ずる社会不安に対応するために権力側が用意したひとつの道具建てが裁判員制度であったというのである。
裁判員制度のもつ意味を説明する際に、よく「司法の民主化」という言葉が用いられる。「民主化」といえば、悪いイメージを持つ人はいない。加えて今回の政権交代でも示されたように、「脱官僚主義」というのが最近の政治を語る合い言葉でもある。「司法の民主化、結構じゃないか。何を反対することがあるんだ。反対するとしたら拘束されるのがいやだという自分勝手な人だけだろう。社会の構成員として当然果たすべき役割を果たそうじゃないか。」というのが善良な市民の意識だろう。このように、誰もが反対できない正義につながる言葉を時の権力者が自分や自分の政策の上にかぶせることで、その権力者や政策それ自体に誰も反対できないような空気を作っていってしまう、そのような言葉を鶴見俊輔さんは「言葉のお守り的使用法」と呼んで警戒していたそうだ。「司法の民主化」は裁判員制度に冠せられたお守り言葉であり、これによって法曹を含む多くの人々が思考停止に陥ってしまっているという岡島さんの指摘は、私に突き刺さった。仕事柄、多くのお守り言葉に接し、また、自らその発明・改良に関わることもある私としては、ある程度はお守り言葉の効用と裏腹の危険性について自覚的なつもりだった。しかし、裁判員制度について、ものの見事に「思考停止」に陥っていた。ほかの多くの事柄についても、知らないうちに同じような失敗をしているだろう。無自覚なままお守り言葉の発明・改良に関与して、望ましくない世の中の流れを作ることに力を貸してしまっていたこともあったかもしれない。
岡島さんは、思考停止を解除した上で、あらためて司法の民主化、刑事裁判の民主化とはそもそもどのようなことであるべきなのか、ということをあらためてこの本の後半で検討している。その上で、そのような本当の意味での民主化のために有効と思われるひとつの方法として、国民による刑事裁判の監視制度を提唱されている。批判にとどまらず、建設的で現実的な提言にまで踏み込んでおられる点についても、敬意を表したい。
そのほか、この本では、裁判員制度と似て非なるアメリカの陪審員制度についても、その特殊な沿革と思想(独立前の本国イギリス政府による横暴(裁判官の専断)の歴史を踏まえ、職業裁判官への基本的な不信感に立って、たとえ間違っていても市民の判断の方に従うという覚悟に基づくものであること)を踏まえた上で、歴史も精神土壌も異なる我が国への導入の適否をよく検討しなければならないということなども、とてもわかりやすく、説得力をもって記されている。全般に、制度の由来や歴史などについての説明が丁寧で、単なる裁判員制度批判本ではなく、そもそも刑事訴訟制度は、三権分立は、ということを考えさせる力作となっていると思う。あらためて、立憲主義国家の背骨となる基本的な統治原理や訴訟ルールについては、長い歴史の中でそれが生き延びてきたことの重みを踏まえなければならず、格差社会における不安の早期沈静化といったようないっときの政府の思惑によって決してゆるがせにしてはならないという思いを持った。
この本は、私のように法律に関わる仕事をしながら裁判員制度に問題意識を持たないできた人間の目を覚ましてくれるだけでなく、そもそも刑事裁判において守られなければならないルールとは何か、それはなぜかというところから法律の門外漢にもわかるように丁寧に説き起こしており、誠実に裁判員制度のことを考えてみようとする人すべてに開かれた本だと思う。徐々に裁判員の関わる刑事裁判の事例も出てきているが、今後報道の内容などより注意深く見ていきたい。ある程度事例が積み重なった時点で、政府は、それまで裁判員として参加した人々から評議の仕方などについての意見聴取を行い(その場合には例外的に守秘義務を解除する必要がある)、それを踏まえてあらためて制度の存続について検討するべきだ。裁判員法附則第9条の検討条項で定めるこの法律の見直し時期は施行後3年後、すなわち平成24年。ただし、制度設計者は用意周到で、見直しの仕方について「裁判員の参加する刑事裁判の制度が我が国の司法制度の基盤としての役割を十全に果たすことができるよう、」とある。つまり、裁判員制度を廃止する方向ははなから考えてないよ、ということが読めるようになっているのだ。しかし、せっかく政権交代したのだから、構造改革の流れの中で生まれたこの制度については思い切った見直しをしてほしい。その際には岡島さんの提唱される刑事裁判監視制度のようなものが代案として俎上に上がるように、心ある弁護士の方々のがんばりを期待したい。


ブリアサヴァランで

2009-06-26 12:32:29 | Weblog
近くのスーパーで、珍しくフレッシュチーズのブリアサヴァランを発見!
いつかこれでレアチーズケーキを作ろうと思っていたことを思い出し、先週末の「父の日ケーキ」に登場させた。

台の生地は、全粒粉でグラハムクラッカーを作るところから。
ちょっと一手間だけど、市販のよりずっとおいしい。
それを砕いて溶かしバターを加えてから型に詰めて、から焼き。

フィリングのレシピは20年以上前に出版された「秘密のケーキづくり」のもの。
「マドモアゼルいくこ」というちょっと気恥ずかしくなるようなペンネームの方の著作です。
いろいろなレシピを試しましたが、この方のレシピはシンプルかつ絶妙なバランスでほんとに感心します。

レモンのさわやかさとブリアサヴァランのまろやかさがマッチして、じーんとするくらい美味しかったです。

レアチーズケーキ好きの方にはぜひ一度ブリアサヴァランで作ってみることをお勧めします!

「クレンズの魔法」と「ゆる体操」

2009-06-25 19:24:06 | Weblog
去年ぐらいから田口ランディさんの書いたものを結構読んでいる。
エッセイには励まされたり気づかされたりすることがたくさんある一方で、小説の方は人間の弱さ愚かさ残酷さにどんどん踏み込んでいくので少々きついんだけれども、そのどん詰まりにかすかな救いが奇跡のようにあらわれるので、人間をそこまで見届けようとする姿勢に打たれる。

少し前に出たランディさんの「クレンズの魔法」を娘に読んでほしくて手渡した。
ランディさんのブログで、若い娘さんたちに対して母の気持ちで書いてみましたというようなコメントがあったからだ。
娘は、ふだん私が薦める本にはほとんど食いついてこないのに、
この本は常に身近に置いており、ちょこちょこと読んでいる様子だ。

思春期の娘に対して伝えておきたい大切なことがある、という思いが、最近の私の中にはある。
それは、ひとつには、私自身が、自分は若い頃は欲や焦りに駆られて大切なことが何もわかっていなかったという思いがあるから。
それと、私の修行が足りないために、日々「こんなこともできないなんてあんたダメね」というメッセージを娘に送ってしまい、
その結果娘に自信や希望を失わせてしまっているのではないかという不安があるからだ。

大人になるというのは、一生続く修行のようなものであり、私もまだその途中であること、
修行は大変だけれども目からウロコが落ちたり思いがけない出会いがあったりして楽しいものであること、
あなたが生まれてきてくれたことが私にとっては最大のエポックメイキングな出来事であり、
あなたのもたらしたいろいろな「問題」が私を少しずつでも成長させてきてくれたので感謝していること、
これからあなたが修行していくのを私は心から喜び、それがどんな道を辿ることになっても応援したいと思っていること。

ランディさんの本は、そういう私の切実だけどぶきっちょな思いを代弁してくれていると思う。
ありがとう、ランディさん。

もうひとつ今娘に伝えようとしているのが、女性としての自分のからだとのつきあい方。
実は、数年前に出版された三砂ちづるさんの「オニババ化する女たち」を最近初めて読んだのだ。
題名に引いてしまって食わず嫌いをしていてバカでした。とてもよい本だった。
この本で「月経血コントロール」というものを知り、本当にびっくりしたのだが、
その後月経血コントロールを可能にするための「ゆる体操」を解説した「女は毎月生まれ変わる」も読んで、なるほどと思った。
子宮をゆるめ、骨盤底筋を鍛えることで、経血の排出をコントロールし、月経を快適にするとともに、
からだにセンターが作られて余分な力が抜け、からだ全体が調整されるという効果もあるという。
私が今習っている整体ヨガにも共通する部分がある。

思春期にある娘にとっては、「月経はいやなもの、妊娠・出産はこわいもの」なのだが、
「そんなことないんだよ」と言葉で説明しても限界があるので、とりあえず毎日ゆる体操をやらせてみている。
彼女の月経に、そしてからだと心に、どんな影響が出てくるだろうか。

備忘録

2009-06-10 19:40:07 | Weblog
斉須さんの本の中に書かれていたことで、特に印象に残ったことがいくつかあったので、書き留めておこうと思います。

―取引先の業者さんでもチームメイトでも、どこかにもっといい人はいるかもしれない、いや、きっといるだろう、でも、今関わっている人を最良と思って付き合いたいのだ―ということ。
本気でそうするということは、なあなあの関係にしない、ということでもある。
相手に要望を率直に伝え、納得できないときには衝突も辞さず、いい仕事にはこちらもいい仕事で、そして感謝の気持で、報いる。
そうして信頼関係を育て、相手を「この人にはいいものを使わせてあげたい!」「この人と最高の仕事をしたい!」というように意気に感じさせることで、
「最良」の存在にしてしまうということなのだ。

―やっとなりたい自分になれたことがすごくうれしい、だから、おごりや慢心などでそれを汚すことはできない、という気持で日々やっている―ということ。
斉須さんは、子どもの頃から「ぼんくら」で大好きなお母さんを悩ませてきた、そんな自分が歯がゆくて、
なりたい自分になるという目標をもってフランスに修行に行ったのだそうだ。
そして、その「なりたい自分になる」というのは、世間的な成功というようなことではなく、自分なりの「正義」を実現できる店を持つことなのだという。
「正義」という言葉で斉須さんが言いたいのは、まずはチームメイトへの誠実な姿勢(ボスも若手と一緒に汗をかき、また、自分の弱点も含めて手の内をさらけ出しながら、みんなと並走すること)であり、
さらに、材料への誠実な姿勢(ごくふつうの日常にころがっているような材料を素晴らしい料理に引き上げてやること)であったりもする。
つまり、彼のいう「正義」とは、働くことの喜び、醍醐味を味わうということと同義なのだろう。

―不器用だから、うまくできないから、飽きずに長いこと続けられる―ということ。
能力を開花させるには、能力それ自体よりも、それを練っていくための時間と生活こそが大切なのだということも書かれていたが、それを楽しみとしてとらえれば、こういう言い方にもなるんだな。