おぼろ男=おぼろ夜のおぼろ男は朧なり 三佐夫 

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出羽三山信仰と房総

2008-06-29 18:40:32 | Weblog

房総に根づいた出羽三山信仰ー古き昔の地域共同体賛美!
 古代の山岳信仰の修験道は、奈良時代の役行者(役小角・エンノオヅヌ)を始祖として日本各地に根づいた。神道・仏教・道教・陰陽道などと山岳信仰が習合し、わが国独自の宗教として平安時代に発展した。とくに熊野三山(本宮大社・速玉大社・那智大社)と出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)が修験道の霊山として名高いが、各地の山々も信仰の対象であったから山頂には祠や社が建てられている。
 房総半島では、主に市原・長生・夷隅郡、長狭(鴨川)・館山地方、千葉郡(千葉市北部・習志野・八千代)、船橋・鎌ケ谷・柏・沼南・印西方面、佐原・小見川地方などに三山信仰の分布があった。なお、各地共に時代による変遷があり(天和年間~現在)、現在は市原市地域などが行事と参詣を継続しているが、古い形の戎律の厳しい修行は消滅している。
 ※出羽三山への初めての参詣のためには、「行屋(修行をするための小屋)」で5日から7日間の精進潔斎の禊を行い、帰宅は厳禁。数度の参詣をしている「里先達(火の親)」の指導で水垢離をとり、経文や祝詞と行人言葉を覚え、梵天や袈裟の作り方を習う。食事は1日1~2食のお粥で、飲酒・魚肉は禁止され、その空腹には耐えられないほどであったと言う。また、真夜中に起こされて抹香の灰を飲まされたりもする。
 この信仰の基底には、通過儀礼がある。一人前の男性になるためには、厳しい修行に耐えることが重視される。出羽三山に参詣すれば「行人」となり、「行屋」での行事に参加できるし、死亡すれば「行人塚」に祀られる。
また、三山へ白衣の死装束で向い、宿坊で成仏を待ち、三山に参詣する。そして、死より再生して特別な霊力を得ることが出来る。出発にあたっては、梵天を依り代と見立てて米を供え、水を注ぎ、野辺送りをし、留守宅では陰膳を据える。
コースは、いろいろとあるが、1833(天保4)年の市原市栢橋の関根家道中記には、次のように記されている。
6月4日出立―木更津船で江戸―秩父順礼・三峰山・榛名山・善光寺―日本海沿い北上―27日羽黒山(長伝坊泊)―月山・湯殿山参詣―山形―会津高田―(会津西街道)―日光中禅寺―7月11日帰着。37日間、約320里(1日平均34km)とある。また、成田・香取・鹿島から太平洋岸を北上し、出羽三山登拝、奥州街道を南下し、日光・鹿沼を経由して帰着した記録もある。
そして、無事に帰宅すると「精進おとし」を盛大にして俗界にもどるわけである。※交通機関が整備されると、徐々に簡便化して、現在では観光旅行を兼ねたものになっている。
 


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