「2083―ー欧州独立宣言」日本語版

グローバル極右界の「共産党宣言」、現代世界最大の奇書

2.104 欧州からのムスリム放逐計画(p753~)

2013-01-30 23:14:25 | 理想の西洋世界
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 イスラムの議論さえ許されない世上でムスリムの放逐を語るのは更に難しい。ユーラビア化への懸念を明晰に語ってくれるフョードマン同志もロバート・スペンサー隊長もバット・イェオル女史も自分の評判墻が崩れることを恐れてか放逐までは説かない。しかし、40年間無行動で議論ばかりしている内に、イスラムの侵蝕が進行してしまった。フョードマン同志らが保守革命と武装抵抗に躊躇するのなら、他の誰かがこれを語らねばならない。

 ギリシアからのムスリム放逐
 ギリシアでは枢軸国軍の占領時、ムスリムのチャム人が積極的に協力した。彼らは大アルバニアの大義を掲げてギリシア人に数多の討滅作戦を展開し、2000人余りのユダヤ人を強制収容所に移送した。そのため、大戦後2万5000人のチャム人(オスマン時代の地主階級の末裔)がギリシアから放逐された。

 イスラエルからのムスリム放逐
 軍史が専門のヘブライ大学教授マルティン・ヴァン・クレヴェルはかつてこう言った。

 パレスチナ人を全て放逐すべきだ。政府もその日を伺っている。民心も嘗ては7%程度しかこの案を支持していなかったが、今では44%が支持している。「入植戦車」アリエル・シャロン総理も放逐案を支持している節がある。
 そんなことしたらイスラエルがならず者国家になるって?そんなの関係ねえ。モシェ・ダヤン国防相はかつて「イスラエルよ、鬼気天翼の狂犬たれ」と言ったものだ。ならず者なる烙刻は気にしない。我が陸軍は世界13位でなく2位か3位の強国だ。我らはセカイを服属させられる。

 放逐以外に途はない
 コソボとイスラエルを例にとろう。1987年までイスラエルはヨルダン川西岸とガザを統轄できていたものだが、インティファーダが始まり、西洋諸国が救援の手を緩めると、イスラエル政府は存続上の危機に立たされた。
 コソボではどうか。1990年代セルビア人はコソボのムスリムに対して懐柔策を採って大失敗したので、1998年全面討滅に切り替えた。NATOの空爆が無ければセルビア人の作戦は大成功しただろう。その後コソボは独立したが、「海に押し流される」脅威に晒されるイスラエルとは異なり、セルビアは存続の危機にはない。だが、イスラエル状態の国家はコソボの近年の歴史にこそ学ぶべきだろう。
 欧州イスラムにとって、コソボ戦争は1669年のクレタ島占拠以来の大捷だった。クレタ島での相手は欧州連合軍だったとはいえ。

 放逐の歴史的事例
 ソ連では反ソや「プロレタリアの敵」等の烙刻の下、民族単位の強制移住がカフカスやウクライナ等を中心に広く展開されていた。ソ連内の不毛の土地へ民族を強制移住させたのだ。

 以下、1920~52年までの強制移住事例が列挙されているが省略

 ツァーリによる東欧からのムスリム放逐を妨害した英国
 露土戦争の後、帝政ロシアはムスリムのアルバニア人(自称トルコ人)をイスタンブールに放逐しようとしたが、ベルリン会議で英国のディズレーリに阻止された。英国はオスマン帝国を庇護する代わりにキプロスを手に入れた訳だが。

 ベネシュ政令
 夷教徒の勢力が強いなら、ジハード監視隊のヒュー・フィッツジェラルド副隊長が進言するように、チェコスロバキアのベネシュ政令に倣うのも良いだろう。同政令ではズデーテン地方にいた350万のドイツ人が放逐された。

 バラガン遷界
 バラガン遷界とは1950年代ルーマニアの共産党政府が採った懲罰的強制移住政策である。ユーゴ国境25km以内にいた住民をバラガン平野へ強制移住させる政策だった。富農やナチ鐵衛団、ティトーの徒らの放逐を名目として遂行された同政策には、「バナート浄化」つまりドイツ人、セルビア人、アロマニア人の民族浄化も含まれていた。

 スペインからのモリスコ放逐
 スペインは1609年から5年の内に31万5000人のモリスコ(ムスリム)を北アフリカに放逐した。この事例の中には多くの教訓が含まれている。

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