徒然なるままに修羅の旅路

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Vampire Killers 1

2014年10月05日 23時43分07秒 | Nosferatu Blood
 
   1
 
 有料駐車場から車を運転してアパートの駐車場に戻ると、マスタングのアルミホイールのスポークにつないでおいた仔犬たちがこちらの姿を認めて尻尾を振り始めた――トヨタ・ライトエースバンを前向き駐車で駐車場に入れ、前輪が車止めに当たる少し手前でエンジンを切る。運転席から降りて車の前方に廻り込み、ジャッキを入れるのに十分な間隔があることだけ確認してから、アルカードはライトエースのドアを閉めた。
 マスタングのアルミホイールのスポークの一本に綱を通す様にしてつながれた仔犬たちが、きゅうきゅうと鳴き声をあげる――アルカードは仔犬たちのそばに歩み寄ってかがみこみ、一匹ずつ順に頭を撫でてやった。作業を始めれば手が汚れてしまうので、しばらくはかまってやれなくなる。
 目の前にあるライトエースに関して、アルカードは何年式なのかよく知らなかった――正直言って、自分の好きなジャンルの車以外にはあまり興味が無い。整備工場を営む池上の伝手で手に入れた展示車で、お蔭でちょっと安く買えた。
 どんな車を買おうかというのはアルカードも相談されたのだが、店の経理から費用が出るので特に主張すべきところは無かったので彼としては別段意見はなにも言わなかった――老人たちのほうからすれば主に使うのがアルカードだから彼に意見を聞いたのだろうが、車種が商用のバンである時点でほかに言うべきことも無かったのだ。
 自分の私用車であれば高輝度放電式ディスチャージヘッドランプとフォグランプだけは夜間の視界確保の観点から是が非でも組むところだが、店の車なので別に関係無い――というか、そもそも夜間に使う可能性がほぼ零なので不要なのだ。
 店の建物や資材、車輌のメンテナンスはだいたいがアルカードの担当なので、基本的にここらへんでの発言力は強い――というか老夫婦が基本的に金に無頓着な人なので、経理発注その他の雑務はだいたい彼の担当だった。裕福な老人の老後の道楽だというならともかく生活のために店をやっているのだから、金銭にはそれなりに頓着すべきだと思うが。
 仔犬たちの頭や耳の裏や顎の下を思う様撫でたりくすぐったりしてやってから、アルカードは作業に取り掛かった。
 五台が駐車可能な駐車場は四台ぶんが埋まっており、今ライトエースを止めてある残る一台ぶんは空きになっている――以前は従業員の学生が乗っていたオープンカーが駐車されていたのだが、事故を起こして駄目になってしまったのだ。
 とりあえず、今度はビートを探しているというあたり懲りてない。
 正面から向かって左端にはDucatiのオートバイが二台、その隣にフォード・マスタング、ジープ・ラングラーと続き、一台ぶんの空きスペースの隣、右端のスペースにはコンテナの様なシャッターつきのバイクガレージが設置してある。
 アルカードはバイクシェルターに歩み寄り、左腕の中・・・・から取り出した鍵束を調べて目的のものを選び出した。
 アルカードの持ち歩いている鍵のたぐいは自動車用のものを除いて、すべてイスラエルのマルティロック製のものだ――自室の鍵、自室も含めたアパートのすべての部屋の玄関の施錠を開けられるマスターキー、オートバイを止めているスペースに無造作に転がされたコンクリート塊とオートバイ二台のフレームを接続したチェーンロックの南京錠にディスクロック、地面に埋め込まれた水道の蛇口の蓋を施錠する南京錠、荷台の自動車のステアリングに取りつけられたハンドルロック、それに眼前のバイクガレージの南京錠、それらすべてを一本で開錠出来るマスターキー、それに老夫婦の自宅の鍵。キータブの形状がみんな異なっているからいい様なものの、そうでなければ区別がつかない。
 バイクガレージは床が高いので、実際に車両を出し入れするにはスロープが必要になる――ガレージはシャッターが下ろされたその手前に、跳ね上げたスロープを南京錠でロックする構造になっている。この駐車場はアルカードの私用のものだがもともとの土地の関係上幅はともかく奥行きがかなり深い。スロープは下ろしたままでもいいのだが、跳ね上げてロックしておけば簡易的な二重のシャッターとしての役割を果たしてくれる。
 頑丈な南京錠の施錠を解除してスロープを下ろし、ガレージのシャッターを上げる――バイクガレージの中にはオートバイは格納されておらず、代わりに工具や部品のストックなどが所狭しと収められている。
 手動工具ハンドツールばかりで空圧工具エアツールのたぐいが無いのは、エアコンプレッサーの性能があまり高くないからだ――せいぜいタイヤの空気圧調整エアチェックと、圧縮空気で埃を飛ばすエアブローくらいしか使い道が無い。
 アルカードがその中から最初に手に取ったのは、壁際に縦にして立てかけてあった長さ二・五メートル、幅一メートルの長方形の鉄板だった。一方の端だけがわずかに角度をつけて、起き上がる様に折り曲げられている。
 整備工場のたぐいであれば、使わないものだ――水捌けを良くするために吸水性と排水性を高めた代償として反面やや軟らかくなったアスファルトの舗装を傷めないことと、それにアスファルトの細かい凹凸でガレージジャッキのキャスターの動きに支障が出ることを防ぐためのものだ。
 適当なものがホームセンターに置いていなかったので、鋼材業者に出向いて直接購入してきたものだが――なにしろ厚さ五ミリの鉄板なので実に重い。無論アルカードにとっては同じサイズの段ボールを持ち歩いているのとさして変わらないが、ものがものだけに扱いは面倒臭い――どこかにぶつけたりしたらことだ。他人の持ち物を傷つけたり体に怪我をさせてもまずいし、もちろん自分の物だって壊したくない。自分が怪我をする危険だけは無いが。
 そんなことを考えながら、アルカードは鉄板の角度をつけて折り曲げられた側を奥にして、差し込む様にして車体の下に敷いた――奥側になるほうの端を橇の先の様に折り曲げてあるのは、アスファルトに鋼材が引っかからない様にするためだ。
 四輪全部をいっぺんにジャッキアップするつもりは最初から無いので、これでいい。鉄板が車体の中心線に沿って真っすぐに入ったことだけ確認して、アルカードは立ち上がった。
 再びバイクガレージに取って返し、今度は圧縮空気で駆動するガレージジャッキとリジッドラック――ジャッキアップしたあとの車体を安定して支持するための高さ可変式の三脚、いわゆる『ウマ』のことだが――を二個引っ張り出し、それらをライトエースの前まで運んでいった。
 次いでいろいろな工具メーカーのステッカーがべたべた貼りつけられた持ち運び用の大型の工具箱を手に取り、これもライトエースの左後輪のそばまで運んでいく――チェストと呼ばれる抽斗式の工具箱だ。本体だけでも十一キロ、中身も含めたら何十キロかある代物だが、百キロの錘を羽も同然に扱えるロイヤルクラシックの膂力を以てすれば問題にもならない。
 アルカードの知人は両開き式の手提げ工具箱を愛用しているのだが、アルカードはあまり好きになれない――あれはリベットがすぐ駄目になる。本当はSnapOnなどから発売されている大型のツールロールがほしいのだが、さすがに大きすぎて邪魔になるのであきらめていた。
 アルカードは抽斗式の工具箱を開けると、中からヘッド部分がL字状に曲げられるタイプの駆動工具――スピナハンドルとホイールナット用のソケットを選び出した。
 長い棒状の取っ手の先にL字状に曲がるピボットがついていて、その先の四角い駆動角にソケットと呼ばれる部品を取りつけることが出来る。実際にボルトの頭を駆動するのはソケットなので、ソケットを替えることでひとつの工具で様々なサイズのボルトやナットを廻すことが出来る様にしてあるわけだ。
 アルカードが取り出したのは二十一ミリのソケットだった――二面幅が二十一ミリのボルトやナットに対応したもので、国産車のホイールナット用としてはもっともポピュラーなサイズのひとつだ。
 ロッキングボールで固定するソケットをスピナハンドルに差し込み、アルミホイールのセンターキャップをはずしてホイールナットを剥き出しにする。
 それが終わると、アルカードはホイールナットにレンチをかけて、ナットを緩めにかかった――インパクトレンチが使えるのなら事前にいちいちナットを緩めておく必要は無いのだが、朝の六時という時間帯はエアコンプレッサーを使うにはちょっと迷惑すぎる。
 リア側のホイール二本のセンターキャップをはずしホイールナットを緩め終えてから、アルカードはスピナハンドルを工具箱に戻した。センターキャップも工具箱の中に放り込む。
 どうせあとでもう一度使うので、スピナハンドルのケットはつけたまま――駆動部のサイズは二分の一インチ、十二・七ミリと呼ばれる自動車用としては大型の工具だが、正直に言うとお世辞にも使いやすいとは言い難い。固く締められたナットを緩めるぶんにはいいのだが、それ以外の用途では大きすぎて邪魔になる。
 作業の手順はリア側のブレーキの摩擦材ライニングを交換し、それからリア周りの配管内のブレーキの作動液フルードを入れ替えてタイヤを取りつけ車体を降ろす。
 それから今は前向きで駐車したライトエースの前後の向きを入れ替え、今度はフロント側をジャッキアップしてタイヤをはずし、同じくブレーキの摩擦材ライニングを交換し作動液フルードを交換する。その作業が終わったら、エンジンオイルを交換する――今日の作業はそれで終わり。
 簡単に頭の中でだけ確認して、アルカードはジャッキの受け皿をリアバンパーの下側から車体の下に差し込んだ。
 車体の下を覗き込んで、ジャッキアップポイントを確認する――とはいえ、ライトエースであればディファレンシャルで十分だ。鉄板の上でジャッキの受け皿をディファレンシャルにあてがい、受け皿の角度が気に入らなかったのでアルカードは少しジャッキを振った。
 ジャッキの受け皿には四ヶ所の切り欠きがあるが、この切り欠きをディファレンシャルのドレンボルトに合わせてボルトが損傷しない様に配慮する必要がある。
 ジャッキ全体を前後させたり左右に振ったりしてちょうどいい位置を出し、アルカードはハンドルを何度も倒してジャッキのヘッドを徐々に持ち上げた。
 圧縮空気で作動するジャッキだが、少し時間が早すぎるのでコンプレッサーは使えない――どのみちアルカードの手持ちのコンプレッサーには、一トンの車体を持ち上げるほどのパワーは無い。買いに行ったとき工具屋の在庫にあったのが、空圧/手動兼用のこの製品しか無かったのだ。取っ手の部分自体を動かすことでもジャッキアップは出来るので作業自体に問題は無いが、筺体が大きく扱いづらいのが難点だった――ただ握りの部分が大きなバルブは細かな調整がしやすくて扱いやすいので、アルカードは気に入っていたが。
 アルカードは地面に膝を突いて車体の下を覗き込んだまま、ジャッキのハンドルを何度か動かしてヘッドを十五センチほど上げた――きちんとジャッキアップポイントになるディファレンシャルの下にヘッドが来ていることを確認してから、再びジャッキを上げ始める。
 受け皿がディファレンシャルにかかったところでジャッキを軽く揺すって確実にかかっていることだけ確認してから、アルカードは立ち上がってジャッキのハンドルを大きく動かし始めた。
 リアタイヤが地面から離れると、車体が斜めになりながら徐々に後方に向かって動き始めた。
 ライトエースはフロントエンジン・リアドライブ――車体前部にエンジンを置き、後輪を駆動する形式になっている。四輪駆動仕様ではないので、負荷がかかっていなければ前輪は自由に空回りする――そのため、フロントタイヤに輪止めをかけていなければ、リア側をジャッキアップしていくと車体は徐々に後ろに寄ってくる。
 ジャッキアップするとジャッキが奥へと入り込んでいく――この駐車場の地面はコンクリートの上からアスファルトで舗装されているが、コンクリートの部分は手前に向かって勾配になる様に若干斜めに均されている。
 吸水性の高いアスファルトに吸収された水はコンクリートの上を流れて道路側に溜まり、排水溝に面した境目の部分のブロックの隙間から排水溝に流れ出す様になっているのだ。
 そのため水捌けのよさは確保しつつ駐車場自体は平坦なので、タイヤがフリーになっていても心配する必要は無い――これがもっと勾配が強いと、ロックされていたリアタイヤが浮くと同時に車体が動き始めて非常に危険だが。
 ジャッキのヘッドがディファレンシャルに当たって荷重がかかると、ジャッキのレバーが一気に重くなった――が、気にせずにさらにレバーを動かしていく。
 作業をするのに十分な高さまでジャッキアップしたところで、アルカードはリジッドラックを引き寄せた。リジッドラックの高さを調整して、ジャッキのヘッドの両脇、アクスルシャフトの通るチューブの下へと差し込む――もともと商用のリアドライブ車は、リジッドラックをかけるなら車体後部のほうが都合がいいことが多い。アクスルシャフトの通るチューブと、ディファレンシャル周りが非常に頑丈だからだ。
 ライトエースのリアクスル周りはトレーリング・リンクと呼ばれる、車軸懸架方式になっている。
 自動車カタログによくあるリジッドアクスルとかリーフ・リジッド、コイル・リジッドといわれるものもその一種で、ディファレンシャルからブレーキの内側までアクスルシャフト・チューブが伸びた構造になっておリアクスルシャフト先端のハブにタイヤを取りつけることで、車軸でタイヤを保持する。車軸はディファレンシャルごと前後方向はトレーリング・アーム、左右方向はラテラルリンクで保持しており、リーフ・リジッドの場合はリーフスプリングも位置決めを行う。
 リーフ・リジッドは懸架構造に板ばね、コイル・リジッドは巻きばねを使う構造になっており、ディファレンシャルから車軸がまっすぐタイヤまで通っているので頑丈にしやすく、上下方向のストロークがトレーリング・アームによって決定される関係上設計次第で非常に大きなストロークを得ることが出来る。またストロークの度合いにかかわらずタイヤの位置関係が決まっているためにキャンバもトーも変化せず、直進安定性が高く、ダブルウィッシュボーン等の独立懸架式に比べて構造が簡単でコストも安い。
 要するに後輪のサスペンションとタイヤは独立しておらず、左右が連結された構造になっているのだ。
 その一方でディファレンシャルとタイヤが一本の棒の様になって連結されていること、バネ下重量が重くなりがちなことから乗り心地が悪く、路面追従性も劣る。
 しかしやっぱり安いということで、トラックや商用バンなどで広く採用されている(※)。
 リジッドアクスルの場合は後部のジャッキアップ自体はディファレンシャルにかけて上げることが出来るし、アクスルシャフトのチューブは頑丈に出来ているので、そこにリジッドラックをかけることも出来なくはない。ブレーキフルードの配管の配置によってかける位置が左右されがちなのが難点だが。
 本当は、リジッドラックは後部にかけるほうがやりやすい。これが四輪いっぺんにジャッキアップするのなら、エンジンオイル交換の作業性を考慮するとフロント側をリジッドラックで固定するべきだ。が、今回は、というかアルカードは基本的に四輪一度にジャッキアップはしない。
 全高の高い商用車の屋外作業なので、三点支持で不安定になると風にあおられてひっくり返る危険があることがまずひとつ。ふたつめの理由は、下に鉄板を入れているのでリジッドラックの脚が鉄板を踏んづけてしまい、鉄板だけ抜けなくなるからだ。
 鉄板は奥に入れる側が橇の先端の様に折り曲げられ、アスファルトの凹凸に引っかからない様になっている。だがその反面、反対側からジャッキを含めてなにかを差し入れることは出来ない。
 明らかな不利点ではあるものの、アルカードは気にしていなかった。前後一方ずつジャッキアップする様にすればそれだけで問題は解決するし、先述したとおりアルカードは前後を一度にジャッキアップするつもりが最初から無いからだ。
 リジッドラックの正三角形の頂点位置に配置された脚は、そのうち一本だけが鉄板の上に乗っている――三本全部を鉄板の上に乗せるのは無理なので、代わりに鉄板に乗らなかった脚の下には別の鉄板を入れてリジッドラックの水平を維持する。
 アルカードはアクスルチューブの下に入れたリジッドラックに手を伸ばして鉄板に乗らなかった二本の脚を持ち上げて地面との間に隙間を作り、そこに短冊状の鉄板を差し込んだ。鉄板の上に乗った脚と乗らなかった脚の高さを揃えて水平を維持すると同時に、足裏の小さな面積に荷重が集中してアスファルトが傷まない様に荷重を分散させるためのものだ。
 アルカードはジャッキのハンドルのてっぺんについたノブを回してバルブを緩め、ジャッキのヘッドを徐々に下げ始めた。アクスルシャフトのチューブがリジッドラックの受け金具の上に乗ったところで、アルカードは再度バルブを閉めてジャッキのハンドルを固定した。支持点数は多ければ多いほどいい――下へもぐる作業は無いから、ジャッキもかけたままにしていても邪魔にならない(※2)。
 工具箱から取り出したスピナハンドルを手に左後方のタイヤの前に移動して、あらかじめ緩めておいたホイールナットに再びレンチをかけてホイールナットを完全に緩める――面倒な二度手間だが、やらなければならないことだ。
 事前にある程度ホイールナットの締めつけを緩め、タイヤを手で押さえた程度でもナットを回せる状態にしておかないと、どんなに頑張ってナットを回そうとしてもホイールがナットと一緒に回るだけで、もう一度車体を降ろす羽目になる。
 ユンボと腕相撲して勝てるアルカードなら、手でタイヤを押さえるだけでホイールナットを緩めることも出来なくもないだろうが――たぶんホイールナットが緩む前に力を入れすぎてタイヤが破裂するか、もしくはホイールがゆがむのが落ちだろう。あとは車体自体が、安定を失ってひっくり返るか。いずれにせよ、実現を見届けたくなる未来予想図ではない。
 膝でタイヤを押さえて、ホイールナットを手で緩めていく――ホイールナットを完全に取りはずして膝を離すと、ホイールの下側が傾いてせり出してきた。
 気にせずにいったん押し戻し、アルミホイールを垂直に保ってボルトから引き抜く。
 今回の作業の内容は、前後のブレーキの摩擦材とブレーキフルードの交換だ――周りの家の住人がだいたい起き出したら、そのあとでエンジンオイルも交換する。エンジンオイルの交換作業は十分に暖気をして、エンジンオイルを温めて粘りを無くしたほうが作業上都合がいい。午前六時過ぎというのは、それをするには正直近所迷惑すぎる。
 アルカードはホイールを脇に寝かせてから一度立ち上がり、運転席のドアを開けてパーキングブレーキを解除した――左後輪の前にかがみこみ、ドラムブレーキのドラムをはずしにかかる。
 まずはリアブレーキから作業しなければならない。ブレーキの摩擦材を交換したあとでブレーキ液のエア抜きを行わなければならないのだが、それをブレーキペダルに直結した油圧シリンダー――マスターシリンダー――からもっとも遠い個所、助手席側のリアホイールから作業するのが基本だからだ。
 問題はそのブレーキのエア抜きに、ブレーキペダルを踏んでくれる人がひとり必要なことだった――まあ、店の車なのだから雇い主に手伝いを頼めばいい。それくらい頼んでも罰は当たらないだろう。
 このライトバンのリアブレーキはドラム式なので、摩擦材の交換作業が結構面倒臭い。購入時にリアブレーキもディスク式にするオプションがあったら迷わずそうしていたところだが、たぶん無理だったろう――すでに完成済みの展示用車輌では、仮にカタログにそのオプションがあったとしても引き受けてもらえまい。
 一般的な乗用車用のドラムブレーキは、リーディング・アンド・トレーリング式と呼ばれるものだ。自動車のカタログを見ると後部ブレーキにLTドラムと書かれているものがあるが、LTドラムというのはこの形式を指している。
 リーディングは主動、トレーリングは従動を意味する名称だ。
 簡単に仕組みを述べておくと、LTドラムは半月型の金属のフレームの外側に摩擦材を貼りつけたブレーキシューの下端側をバックプレートに固定されたアンカーに引っ掛け、スプリングで互いに引っ張り合う様にテンションをかけている。
 シューの上端側にはマスターシリンダーからの油圧を受けてシューを左右に押し広げる様にして動作する油圧シリンダーが取りつけられており、シリンダーの周りにはやはり左右のシューを連結するスプリングがあって、左右のシューを引っ張り合っていることが多い。
 左右のシューの間には車種によって様々な形状と機構を持つ自動調整機構が取りつけられており、このブレーキ機構全体にドラムがかぶさる構造になっている。
 ブレーキドラムはリアクスルに固定されており、ここにホイールを取りつけることでブレーキドラムとホイールはリアクスルのトルクを受けて、一緒に回転することになる。
 ブレーキドラムの形状はアクスルに取りつけたホイールボルトにホイールと一緒に共締めにしてあるものと、ドラム自体をリアアクスルに嵌合させてドラムにホイールを取りつけるものと二種類あって、トヨタ系は――残念なことに――前者だ。
 後者はスズキやダイハツの軽乗用車によくみられる構造で、作業性の面からはメリットが大きい。そう、作業性の面からメリットが大きい――逆にいえば、トヨタ系のドラムブレーキは作業性がとても悪い。ただ、多分前者のほうが剛性は高いのだろうが。
 ブレーキが動作するとブレーキシューは下端側を支点として左右に押し拡げられ、ブレーキドラムと接触する――ホイールが前進方向に回転している場合、このときにフロント側のブレーキシューはドラムの回転に巻き込まれて強力にドラムに接触する。これを自己倍力作用、セルフサーボと呼ぶのだが、これにより回転方向側のブレーキシューは強力に利く半面、リア側のブレーキシューは逆に弾き返されてあまり制動力を発揮しない。
 この場合にフロント側を主動リーディングシュー、リア側を従動トレーリングシューと呼び、これがLTドラムの形式名の由来である――逆にバックしている場合は、リア側がリーディングシュー、フロント側がトレーリングシューになる。
 なお、リア側の支点を上部に設け、作動用の油圧シリンダーを二ヶ所設置することで両方のシューをリーディングシューとして動作させるツーリーディング式、シューの上部および下部にそれぞれ支点を設けてその都度支点を変えることで前進時後退時ともに両方のシューがリーディングシューとして動作するデュアルツーリーディング式と呼ばれるものも存在するが、一般的な乗用車で用いられることはまず無い――デュアルツーリーディング式は、トラック用としては一般的なのだが(※3)。
 シューの摩擦材が磨滅してくると、ブレーキ装置は意味を為さなくなる――摩擦材が磨り減ってくると、摩擦材を貼りつけられた金属部品がドラムに直接接触する様になるからだ。
 金属部分は当然ながら摩擦効果など持たないので、この状態になってしまえば、もはやブレーキとしてはなんの意味も為さない。ブレーキドラムを傷つけて使い物にならなくするだけでなく、最悪シュー側とドラムの金属が熔けてくっつき、致命的な損傷をもたらす恐れもある。
 もっとも、車の場合はよほどのことが無い限りそんな事態になる前に解決するものだ――というのは、車検のときに整備士なり誰なりが気づく。まあ、気づいたところで解決するかどうかは別問題だが――自分と他人の命にかかわるものであっても費用がかかるとなると渋い顔をするドライバーはいくらでもいると、よく池上父子が愚痴をこぼしている。
 手軽に乗れるはずの原付が、アルカードに言わせれば一番危険な乗り物だった――お手軽すぎて誰もその状態に頓着しない。
 先日池上の整備工場に、近所の主婦が単独事故を起こしたスクーターを持ち込んできたのを見たことがある。その原付はフロントブレーキの摩擦材が完全に無くなってバックプレートがじかにブレーキディスクに接触し、バックプレートとブレーキディスクの両方が熱で熔けただれていた。
 はっきり言って自分でその程度の点検も出来ない様なら原付にも車にも乗るべきではないのだが、さすがにそうもいくまい。
 店の所有車輌をそうなる前に整備するのが、アルカードの(本来は業務外の)仕事だった。
 まったく――少しは手当てがほしいところだな。
 ぼやきながらドラムを抜き取ると、真っ黒な粉がパラパラと落ちてきた――ブレーキの摩擦材やドラム内部の金属が削れた粉だ。ドラムの内側を上に向けて地面に置き、摩擦材の厚みを点検する――フロント側は三・五ミリ弱、リア側は五ミリ。
 前後の摩擦材の厚みに差があるのは、珍しいことではない――車は後退している時間より前進している時間のほうが圧倒的に長いので、ブレーキシューの摩耗の具合はリーディング側とトレーリング側で極端に違ってくるのが普通だからだ。車種によってはブレーキシューに前後の形状の区別が無いものもあるのだが、だからと言ってフロントとリアのシューを入れ替えて済ませるのは危険を伴う。摩耗しているのは間違い無いし、その磨耗の仕方はトレーリング側の減り方だ。リーディング側とトレーリング側ではシューの磨耗の仕方が異なるので、最悪ブレーキシューのごく一部しかドラムに接触しない可能性があるからだ。
 もしもそうなったら、ブレーキがほとんど効かなくなる――そのうち摩耗が進んで適切な形状になるかもしれないが、そうなる前に急ブレーキを踏む様な事態になることを想像すると、到底試す気にはならない。
 CelldwellerのOwn Little Worldを上機嫌で口ずさみつつ、アルカードは脇に置いてあったハンディタイプの掃除機を手に取った。ドラムの内側やシューの裏側などに溜まった黒い粉を吸えるだけ吸い取ってから、古いブレーキシューを取りはずしてバックプレートを洗浄し摩耗の具合を確認する――実際のところあまりライトバンの使用頻度は高くないので、ブレーキシューはさほど極端には摩耗していなかった。交換するのは、経年劣化が心配だったからだ。
 パーツクリーナーと襤褸切れでバックプレートに附着した摩擦材の粉と粘土の様になったグリスを綺麗に拭き取り、アルカードはそれで満足して今度は前後のブレーキシューの間に設けられたアジャスターを手に取った。
 ドラムブレーキは摩擦材が摩耗してくると、ドラムと摩擦材の間隔が離れて圧着力が弱まり効きが弱くなる。
 そのため、ドラムブレーキには徐々に広がっていく隙間を詰めるための自動調整機構がついている。トヨタ車の場合ねじ式のアジャスターとラチェット機構を組み合わせたものであることが多く、このライトエースもそれだった。
 スクリュー式のアジャスターは、簡単に三点のパーツからなっている。ラチェット機構用のラチェットの歯と牡ねじを備えたアジャスターボルトと、牡ねじの回転によって伸縮することで実際の調整を行う雌ねじを切られたシューストラット、それにアジャスターボルトを自由に回転させるためのアジャスターピースのみっつの部品で、このピースとシューストラットは先端が二又になっており、その二又の部分がブレーキシューを跨ぐことでアジャストボルトの回転に巻き込まれて動くのを規制している。
 ドラムシリンダーやパーキングブレーキの動作によってブレーキシューが拡張されると、その動きによってブレーキシューに取りつけられたアジャスターレバーが動き、アジャスターボルトを緩め方向に回転させる。するとアジャスターボルトの緩んだぶんだけアジャスター全体の全長が長くなり、結果ブレーキシューの上端側が押し広げられることでドラムとライニングのクリアランスを調整するのだ。
 アジャスターボルトをシューストラットから完全に抜き取って、ねじ山に附着した粉を丁寧に取り除いていく。ブレーキのライニングが磨滅した粉だ。
 全体に附着した埃も拭い去ってから、アルカードはアジャスターのねじ山にスプレーグリスを吹きつけてからアジャスターの一番奥まで捩じ込んだ。
 残りの部品もひとしきり汚れを落としてからバックプレートやアンカーとブレーキシューが接触する個所に極圧性グリスを塗り、続けて昨日池上から譲り受けたポリ袋の中から黄色い箱を取り出す。
 中には新品のブレーキシューが左右二対、四枚納められている――アルカードはそのうち二枚を取り出して、古いブレーキシューから取りはずしたサイドブレーキのリンクを取りつけにかかった。
 ブレーキシューの金属部分にはいくつも穴が開いていて、スプリングの端のフックを引っ掛けたりサイドブレーキなどのリンクの支点になる部分を固定したり出来る様になっている。
 サイドブレーキのケーブルと接続するリンク等は、特に問題無ければそのまま使い回しだ――触ってみた限り特に問題は無かったので、そのままシューだけを交換して元通りに組み立てる。
 正確に取りつけ出来たのを確認して、アルカードは手にしたシューを足元に置いた。
 シューをバックプレートに取りつける前に、ドラムシリンダーが問題無く動くかどうかの確認にかかる――といってもドラムシリンダーの両端を押し込んで、すんなり動くか確認するだけだ。
 作りのいい箪笥でひとつ抽斗を押し込めば別の抽斗が飛び出てくる様に、片方を押し込めばもう一方が飛び出す――それが軽い力で出来ればいい。引っ掛かりがあったり、動かない様ならもう駄目だ。 
 千枚通しの様な形状のシールピックを使ってダストブーツをめくり返し、中を覗き込む――めくり返したときに中からブレーキ液が出てくる様なら、気密を維持するオイルシールがもう駄目になっている。
 ダストブーツをめくり返しても、内部は濡れていなかった――なら問題無い。ダストブーツを元に戻し、バックプレートの各所をグリスアップしてから、アルカードはシューを取りつけにかかった。
 ドラムブレーキは作動原理が単純な割に、構造は複雑だ――理由の半分はサイドブレーキの動作機構を兼ねていること、残り半分は位置決めと動作の正確性を確保するためにスプリングが多いからだ。
 結果、スプリングの組みつけがなかなか面倒臭い。ブレーキシューをバックプレートに組みつける作業自体も、スプリングの反力によって維持されているためにスプリングを組む必要があるので、固定金具の上からスプリングを圧縮する専用の工具が無いと時間がかかる。
 T字型の取っ手の先に先端がフック状に湾曲した専用の工具なのだが、実はあってもやっぱりやりにくい。というか、穴の形状にもよるのだが、千枚通しの様な形状のオイルシールピックのほうが便利なこともある。
 まあ、それさえ終わってしまえば作業は早い――スプリングの取りつけは面倒だが、アルカードの腕力であれば簡単だ。むしろ引っ張りすぎて伸びたりしないかのほうが問題ではある。
 前後のブレーキシューを交換し、ライニングとドラムの表面をサンドペーパーで磨いておく――ドラムを取りつけてあとはタイヤを取りつけるだけの状態になったところで、アルカードは立ち上がった。
 ドラムブレーキはクリアランス調整をきちんと行わなければ性能をうまく発揮しない。隙間が開き過ぎれば効きが悪くなり、隙間を詰め過ぎれば引きずりの原因になる。まあいずれにせよ、ろくな事態を招かないことだけは確かだ。
 クリアランス調整は左右同時に行わなければあまり意味が無いので、アルカードは続いて逆側のブレーキシューの交換に取り掛かった。

※……
 最近(二〇一四年四月現在)ではスズキの傑作K6A型軽自動車用エンジンがケーターハム・スーパー・セヴン160に採用され、それに伴ってキャリィのリアクスル周りが流用されており、新型スーパー・セヴンはリジッドアクスルになっています。また、ホイールもスズキの商用車用のシルバー塗装のスティールホイールです。アルミもオプションであるだろうとは思いますが。正直値段に見合う価値のある車かどうかは疑問です。三百万円ェ……

※2……
 ガレージジャッキをかけたままでリジッドラックをかける場合は、本当は一番いいのはジャッキアップポイントです。リジッドラック自体には荷重をかけず、ジャッキアップポイントに軽く当たるくらいにとどめ、風に煽られて車体が傾いたりしたときにひっくり返るのを防止するために使います。
 ただし、ジャッキを下ろしてリジッドラックに荷重がかかるとジャッキアップポイントが変形することがあるので、一部車種を除いてジャッキアップポイントにリジッドラックをかけて車体を下ろすのはお勧めしません。

※3……
 シングルツーリーディング式は二輪車の一部に用いられているのを見たことがありますが、四輪車用として用いられている実例は知りません。おそらく一車種も無いのではないかと思います。
 シングルツーリーディング式は前進方向に対しては両方のシューがリーディング式として作用する反面、後退方向に対しては両方がトレーリングシューになるため、バック時や急勾配などのなんらかの理由で後方にずり落ち始め際のブレーキングに問題が出てくるからです。あとドラムブレーキは駐車ブレーキも兼ねているため、回転方向によって効きに格段の差が出てくるシングルツーリーディングは使い物にならないのですね。
 また、デュアルツーリーディング式はひとつのドラムにつき二個のシリンダーと、それぞれのためのブレーキ配管が必要になるため、普通乗用車ではあまり使われないです(そこまでの制動力が必要無いこともあると思いますが)。

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