偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏476入山辺・中入城跡(長野)

2013年10月18日 | 登山

入山辺・中入城跡(なかいりじょうあと) 石燈籠(いしどうろ)

4760_2【データ】中入城跡 1510メートル▼国土地理院25000地図 山辺▼最寄駅 JR中央本線・松本駅▼登山口 長野県松本市入山辺の上手町集落▼石仏 中入城跡の秋葉神社。地図の赤丸印 

47614762【案内】中入城は山家(やまべ)城とも呼ばれた鎌倉時代から戦国期にかけて山家氏が支配した山城。入山辺の上手町の集落から細いながら手入れされた道が続く。中腹の曲輪(くるわ)には野面積みされた石垣が残り、「小笠原氏」の石碑が立つ=写真上=。この碑は戦国の一時期、この山城が小笠原氏の支配になったことの証として後世に立てたものか。城の役目は戦国時代まで4763 4764 で、江戸時代には山頂の廃城になった曲輪跡に秋葉神社が建立されている。その境内に残る石燈籠=写真中=の竿には「宝暦十一年(1761)」に山麓の「中入村 北入村」の二村で立てたと刻んである。中入城という名はこの中入村から出たのであろう。廃城になってから200年後の石燈籠造立である。竿には「庄屋戸右衛門 組頭十三良 同断久左衛門」の銘もあり、庄屋と組頭が中心になって秋葉神社を整備したに違いない。石燈籠は笠から火袋・中台・竿・基礎まですべて四角形のシンプルな造りである。境内に入4765 る石段にも同じ庄屋の名前がある。こちらは「宝暦十年」。石燈籠も石段もたいした規模でないが、庄屋と組頭たちの勢いが感じられる。
 しかし数年後、庄屋戸右衛門の秋葉神社再建などの不正をめぐって、組頭十三良や久左衛門をはじめとした村人たちと騒動になる。これについては信州大学の『人文科学論集
26』の高木俊輔氏の論文「松本藩領中入村明和騒動について」に詳細されている。

【独り言】高木俊輔氏の論文「松本藩領中入村明和騒動について」によると、騒動のきっかけの一つは秋葉神社建て替え時の、庄屋戸右衛門による不正が挙げられています。同書によると、その建て替えは石燈籠や石段が造られた10年後の明和7年。「庄屋戸右衛門が村方や組頭一同に相談もなく一存で行い、しかも息子に手伝わせて大工と同じ作料を支払った」ことが問題の一つになっていました。庄屋戸右衛門のワンマンぶりが嫌われたようです。
 それから秋葉神社は何度建て替えが行われたのでしょう。その土台を見ると、なん4766 4767 と礎石に石臼が使われていました。石臼は礎石ばかりでなく、神社正面にも沢山敷かれていました。建て替えにあたって、使わなくなった石臼を上げたのでしょうか。使わなくなった石臼を寺社に奉納する地方があるらしいことは聞いていますが、ここは山の上ですから、どうなんでしょう。昭和の家には木の臼と石臼と日の丸はどの家にもあったものですが、いまはどうなんでしょう。私の家には一つもありません。

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