偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏525金ヶ岳(山梨)

2014年07月04日 | 登山

金ヶ岳(かねがだけ) 菩薩立像(ぼさつりゅうぞう)

 5250 【データ】金ヶ岳 1764メートル▼国土地理院25000地図・茅ヶ岳▼最寄駅 JR中央本線・甲府駅▼登山口 山梨県甲斐市上芦沢の観音峠▼石仏 観音峠の西の鞍部(旧大峠)。地図の赤丸印

5251 5252 【案内】金ヶ岳は南の茅ヶ岳を越えて行く道と、東の観音峠からの道の二つがあり、今回は観音峠から登った。登り始めてすぐ、電波中継塔先の鞍部に頭部のない石仏が立つ。両手で何かを抱きかかえる姿の石仏。それは花のようなものにも見えるが、正体不明である。全体の像容からして菩薩としておく。
 この石仏は、春日俊吉氏の『奥秩父の山の旅』(昭和
17年、登山とスキー社)から紹介する。観音峠については「この峠は少し位置が變わった(昔はもっと西側)ようであるが、例の『國志』に見える大峠を改名したもので、信玄公時代から甲府北鎮の一つの要道として知られていた」とある。また「文化、文政時代、御嶽の神社参拝がこの地方一圓の大流行であった頃、南信濃、西甲斐の人々が絡繹と、ここを往復したいはゆる参詣路でもあったのだ」とあり、観音峠は北山麓の江草から甲斐の国御嶽である金峰山の金桜神社への参詣道だったと紹介している。そして石仏については、江草の岩の下(岩下)集落にある石仏を「文政三年(1820)庚午五月と刻した立派な、大きな観音石像」と紹介し、「その頃江草村きっての御大盡(略)造酒業、萬屋文左衛門なる篤信者が、なんと、岩の下から大峠の頂上まで、一丁置きに石の観世音を建立し、まず己が先祖の菩提をとむらい、併せて一般衆生の為に御嶽多籠の道標にも代えた」とある。鞍部にある石仏には「藤太」の銘がある。石仏が置かれた道、いまは消滅している。
5253  石仏が立つ鞍部から金ヶ岳までは、尾根を忠実にたどる道があり、途中二ヶ所に鎖場がある岩尾根の部分もある。

 【独り言】江草の岩本から観音峠の道に石仏を建立した江草村の萬屋文左衛門を最初に紹介したのは、原全教氏の『奥秩父』のようです。『奥秩父』は2巻からなる名著で、残念ながら私の本棚にはありません。昭和8年に出版されたこの本、原氏は「昭和七年、朋文堂主新島章男氏から、奥秩父をまとめるようにすすめられ、八年出刊の運びとなった。原稿にして七百枚、自分勝手に押し広げた区分の半分も収めきれず、残り八百五十枚を続編として、翌々十年に出した」と『奥秩父回帰』(昭和53年、河出書房新社)に書いています。いまでは手に入らない本です。復刻版が出たのが昭和52年。これも高価で手に入らない本になってしまいました。
 我が家の本棚にある山の本は、神田の悠久堂書店で昭和
40年代から買い集めたものです。山の名著を集めるつもりはなく、金もなかったので、安物の登山案内の本ばかりです。勤め先が大手町にあったころは神保町によく行きました。最近は年に数回に減りましたが、神保町でも悠久堂界隈が一番楽しいところです。

 

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