心を考察し、浄化した後、個我の欠如に気づき、この重要な洞察の確信を持つとき、「我」は部分の集まりとなる。
いまだ知られざるものを考察し、条件づけられたものと絶対なるものを識別せよ。
経験の各形態を分析していくと、これが「これ」と呼ばれ、あれは「あれ」と呼ばれることを知る。
いつまでも様々な形に固執して、実体を見いだそうとしても、何も見つからない。
無を構成する非常に細やかな微粒子や、「これ以上分割する事のできない二元性」を、乗り越えていくとき、相互依存性の場が現われ、現象的実在と心の空想的虚構が、共に存在することを知る。
現象的実在と空想的虚構を、共に考察すべきものとして注目し、鋭い洞察力で厳密に調べていくと、基体も根源も、何も見いだすことができない。
つまり無である。
現象とは、幻や夢、水に映った月、こだま、蜃気楼、二重視、陽炎のごとしである。
幻の本質を考察していくと、現象は空であり、空は現象化する事が解る。
これが明確な究極の存在である。
しかし、けがれのない洞察で得られた、この認識に対する確信と幻として見る視点は、まだ、形の魅力に縛られている。
概念によって取り込まれた、心地よい睡眠の中に落ち入っていくとき、概念化を離れた存在の本性は、知られることがない。
幻に対する確信が起こり、妄想の魅惑的な形跡に集中し、それらをじっくりと思索し考察していくと、これら対象に実体は何も存在しない。
その時、外的内的像の流れはとぎれることなく続くが、固執すべき心など存在しないことを知り、安らぎ、本来の自由の中に超脱する。
このように寂静がなされる。
この根元的超脱の状態の中で、原初の方より不生で、なにものにもさまたげられることがなく、心の流れの中に織り込まれ、主体と客体から離れている全ての事象は、一なる領域において相等しい。
「ある」「ない」という断定をすることなく、表現できない意味の中に、ただ疑いの余地のない体験が横たわっている。
超越的であり、全てに浸透している究極の存在は、あらゆる経験をも、あるがままとして、それ自らを知る霊妙なる智性、また、精神統一の無分別智によって、捉えることができる。
禅定とは常に、空性と相互依存性の双入に他ならず、中観に熟達した指導者の確信によって、二つの道は一つとなる。
心の対象化過程から解き放つ、この内在的無分別智を、速やかに生じさせたいならば、マントラヤーナの教えにしたがって修行せよ。
中観の修行では、まず、浄化の行をした後、段階的に体験を深めていき、この究極的最頂点にたどりつくことができる。
ある男がのどの渇きを覚えるとき、水を思考するだけでは渇きを癒すことはできず、ただ、水を飲むことによってのみ、渇きを癒すことができる。
つまり、情報は経験とは異なるものである。
単なる客観的知識である情報を求めるような、無駄な探求に時間を費やすよりは、すばやく静寂へと導く、禅定体験を深めるべきである。