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NHKスペシャル ドキュメント北朝鮮 第二集「隠された世襲」(1)

2006-04-10 | 記録
ドキュメント北朝鮮 第二集「隠された世襲」
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 第二集「隠された世襲」
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NHKスペシャル
『ドキュメント北朝鮮第二集』を文字化しました。

~導入~
<ナレーション>
厚いベールに閉ざされた国、北朝鮮。
個人崇拝による独裁体制は何故今も維持されているのか?
拉致やテロは誰が指示し、何故繰り返されたのか?
そして核兵器開発はどこまで進んでいるのか?
世界を脅し続けている多くの謎に迫ります。



第二集「隠された世襲」
 

 ◆映像:2006年2月13日祝賀行事の模様

 金正日将軍祝賀を受けたまえ、 栄光をうけたまえ

今年2月、金正日総書記の誕生日を祝う式典です。

64才を迎えた最高指導者は今年も姿を現しませんでした。

金正日総書記は父キム・イルソン(金日成)の後継者として早くから権力の階段を登ってきました。しかしどのように台頭してきたか、その課程は一切明らかにされていません。

その肉声が長く西側に伝えられることはなく、謎の指導者とされてきました。

今回私たちは北朝鮮の権力継承の課程を記録した新たな資料を発見しました。
1500ページにのぼる旧東ドイツの秘密文書です。
平壌に駐在していた外交官達が独自に情報を収集し、その動向を追い続けていたのです。
  ◆映像:東ドイツ関係者の写真

沈黙を続けてきた旧東ドイツの関係者達が今回初めて証言しました。

<元東ドイツ 党国際関係部の関係者の声>
『私たちは社会主義国の中で親子で権力を継承することは
           あるまじきことだと考えていました。』


<ナレーション>
ドキュメント北朝鮮第二集
社会主義国としては前例のない世襲をいかにして成し遂げたのかに迫ります。

タイトル
第二集「隠された世襲」

1970年代、社会主義国の指導者が平壌を訪れたときの映像です。
北朝鮮は社会主義陣営の一員として東側の国々と友好関係を結んでいました。

北朝鮮の建国後、いち早く国交を結んだ東ドイツ。
最高指導者、ホーネッカーはキム・イルソン(金日成)と兄弟と呼びあう仲でした。

平壌にあった東ドイツ大使館です。(大使館の映像)
東ドイツは、同じ分断国家として北朝鮮の行く末を注視してきました。

ピョンヤンに駐在していた外交官の多くが旧東ベルリンで暮らしています。
当時の名簿が残されていなかったため、私たちはおよそ一年かけて彼らを捜しあてました。

クラウス・バーテル(元東ドイツ 副大使)73才です。
1963年から計10年間平壌に駐在し副大使も務めました。、
これまで自ら収集した北朝鮮の情報について一切明らかにしてきませんでしたが、今回初めて取材に応じました。
バーテルは国費留学生として、金正日総合大学で学んだ最初のドイツ人です
大使館では朝鮮労働党の権力構造を分析していました。
しかし友好国の外交官であっても、情報収集は困難を極めたといいます。

――バーテルの証言――――――――――――――――――
全てが秘密でした。
北朝鮮では国家の方針で外国人には情報を明らかにしない、
秘密主義をとっていました。
そうした彼らの態度を私たちは腹立たしく思っていました。
―――――――――――――――――――――――――――

  ◆映像:旧社会主義国の平壌駐在外交官の写真

<ナレーション>
ソビエトやルーマニアなど、平壌に駐在していた社会主義国の外交官です。
バーテルは互いに得た少ない情報を交換しあうことで、北朝鮮の動向を把握していました。

60才を迎えたキム・イルソン(金日成)です。
憲法を改正し、最高指導者である首領としての地位を確立しました。
その絶対的な権力を誰が引き継ぐのか、バーテルは強い関心を持っていました。
キム・イルソン(金日成)が親族を重要な役職に就けていたことに、バーテルは注目しました。

当時作成した秘密報告書です。

◆バーテルの報告書―――――――――――――――――――
キム・イルソン(金日成)の弟にキム・ヨンジュがいる。
彼は党の政治委員会の委員、中央委員会書記、組織指導部長などの
要職をを歴任している。
彼の序列は六位である。
――――――――――――――――――――――――――――
<ナレーション>
バーテルはキム・ヨンジュをキム・イルソン(金日成)の最も有力な後継者と見ていたのです。


◆バーテルの証言――――――――――――――――――
キム・イルソン(金日成)は北朝鮮という国を自分の作品とみていました。
死んだ後に自分の作品がどうなるのかと、自問自答していたのでしょう。
そして自分の作品を継ぐ人物は信頼できる家族以外ありえないという結論に達したのです。
私たちはそう考えていました。
――――――――――――――――――――――――――
<ナレーション>
報告書はキム・イルソン(金日成)の息子については短く触れているだけです。

◆報告書――――――――――――――――――――――
キム・イルソン(金日成)に息子がいる。
彼はキム・イルソン(金日成)の秘書であり、
同時にキム・イルソンを警護する部隊の部隊長である。
――――――――――――――――――――――――――
<ナレーション>
その名前すら記されていませんでした。

◆バーテルの証言―――――――――――――――――――
金正日が後継者になるとはまさか想像もしていませんでした。
彼の方法は少なく後継者として議論にも登りませんでした。
―――――――――――――――――――――――――――

報告書は東ドイツをひきいるドイツ社会主義統一党の本部に送られました。
ベルリンでこの報告書を受け取ったのが、国際関係部のホルスト・ジーベックでした。
ジーベックは北朝鮮との外交を19年にわたって担当し、朝鮮労働党と太いパイプを持っていました。

  ◆映像:ドイツ社会主義統一党の建物

◆ホルスト・ジーベックの証言―――――――――――――
私たち社会主義国では、親子の権力継承はあるまじき行為と考えていました。
社会主義者における後継者とは、国家にとって、
政治的に最も能力のある人物が選ばれるべきだと考えていたからです。
―――――――――――――――――――――――――――

<ナレーション>
前例のない権力の世襲。
その準備は、すでに始まっていました。
60年代前半軍を視察する親子です。(視察する親子の写真)
キム・イルソン(金日成)は息子が20代の頃から、軍や党の視察に頻繁に同行させていましたが、常に秘密にしていました。


アメリカ

当時の金正日総書記を知る人物がアメリカに住んでいることがわかりました。
キム・イルソン(金日成)一家の家庭教師を務めていた、キム・ヒョンシク(キム・イルソン家族の元家庭教師)です。
亡命後2003年、アメリカに移り住みました。
平壌の大学教授だったキムヒョンスクはキム・イルソン(金日成)の家族にロシア語を教えていました。
若き金正日総書記を直接言葉を交わした貴重な証言者です。

◆キム・ヒョンシクの証言―――――――――――――――
彼は大学に入学したときから、キム・イルソンの後継者は自分だと考えにに熱心に尽くしていました。
キム・イルソンが朝出勤するときは、靴を履かせて車に乗せ、夜帰宅するときは、必ず出迎えました。
外国に行くときも同行し、随行員が十分に父を世話していないと強くしかっていました。
キム・イルソン(金日成)もそうした息子に満足していました。
―――――――――――――――――――――――――――
  
◆映像:キム・イルソン(金日成)インドネシア訪問の時の写真、※金正日が同行し共に写っている

<ナレーション>
ソウルにも若いときの金正日を知る人物がいます。
キム・イルソン総合大学の総長を務めたファン・ジャンヨブです。
97年韓国に亡命しました。
後に国際担当の書記となったファン・ジャンヨブは亡命した幹部の中で最も地位の高い人物です。

◆ファン・ジャンヨブの証言――――――――――――――
彼は大学に入る前から、『自分は政治家になる。政治は父、キム・イルソンから教えてもらう』
とはっきり言っていました。
金正日が少しでも権力を握ると、叔父のキム・ヨンジュを追い出すかもしれないと考えました。
しかし、権力の世襲をするとは、まさか想像もしていませんでした。
―――――――――――――――――――――――――――
<ナレーション>
キム・イルソン(金日成)の家族に関する報告書を書いた翌年、バーテルはキム・ジョンイル(金正日)という名前を特定し、その台頭についてはじめて報告します。
ハンガリー大使館からもたらされた情報でした。


◆バーテルの報告書(1973年10月1日作成)――――
労働党の総会で人事が議論され、金正日の昇格が取り上げられたとの未確認情報がある。
その情報によれば、金正日は党中央委員会の要職に付き、更に、宣伝扇動部の責任者になった。
―――――――――――――――――――――――――――

◆バーテルの証言―――――――――――――――――――
この情報で、はじめて金正日が党内でその地位を高め始めていると認識しました。
彼が次第に影響力の大きい役職に就いていくと考えました。
後継者として作られていくかもしれないと、我々は予測したのです。
―――――――――――――――――――――――――――

<ナレーション>
73年9月、キム・イルソン(金日成)は息子を党の宣伝扇動部の責任者に就任させました。
三〇代前半の姿です
当時彼の活動は外部に一切伏せられていました。
宣伝扇動部は国民の思想統制を担う重要な部署でした。


 ◆映像:1970年代に傍受された北朝鮮の映像

70年代韓国で傍受された北朝鮮の映像です。
宣伝扇動部が進めた思想教育が記録されています。
忠誠心を養うために少年達は、10日以上かけてキム・イルソン(金日成)が少年時代歩んだとされる道を辿らなければなりません。

  ――◆思想教育映像のこどものことば―――
     敬愛するお父さん
     キム・イルソン様を敬い
     私たちは忠誠の心を込めて
     最大の栄光と感謝をささげます。 
  ――――――――――――――――――――

  ◆映像:マスゲームの記録

<ナレーション>
強化されたのがマスゲームです。
これは1958年のマスゲームです。ソビエトのカメラマンが撮影しました。
キム・イルソン(金日成)が北朝鮮に採り入れたマスゲーム。
当時子供達の動きは、単純で、機敏な動作もありません。
全体の統制も取られていませんでした。

しかし70年代、大きな変化がみられます。
マスゲームはキム・イルソンへの忠誠の証と位置づけられ、数万人の子供が、一糸乱れず動くよう命じられました。


当時マスゲームに参加した人の証言です。
2000年韓国に亡命しました。

◆マスゲーム参加者の証言―――――――――――――――

当時のマスゲームの訓練は本当に厳しいものでした。
私は背景版を担当していました。
訓練中はトイレに一切行けません。
ビンに用を
足さねばなりませんでした。
半年間 勉強は全くできませんでした。
―――――――――――――――――――――――――――

◆キムヒョンスクの証言――――――――――――――――

背景版で最も難しいのが、キム・イルソン(金日成)の顔の部分です。
担当する子供達は死ぬ思いで練習します。
失敗してキム・イルソン(金日成)の顔を汚すと家族全員が処罰されるからです。

金正日が思想統制を担当してから、
国家全体、人民の全てがキム・イルソンに対する崇拝を強化しました。

国家体制はこのようにして作られていったのです。
―――――――――――――――――――――――――――

<ナレーション>
70年代中頃に撮影されたとみられる金親子の映像です。
キム・イルソン(金日成)は宣伝扇動部での息子の実績を認め、更に重要なポスト、組織指導部の責任者に抜擢します。

親子間の権力の継承はこのときから本格化していきます。

朝鮮労働党の機関誌『労働新聞』です
  ◆映像:労働新聞の写真。

1974年2月14日、これまで使われたことのない表現が登場しました。
<党中央>、キム・イルソン(金日成)を指す<首領>と並べて用いられました。、
その後党中央の名前で党の重要な指示が出されるようになります。

このころの金正日総書記です。

◆映像:金正日の当時の映像

<党中央>の表現が登場した直前、キム・イルソン(金日成)主席の後継者に選ばれたとしています。
しかし、当時その決定は明らかにされませんでした。

東ドイツも権力継承の動きはつかんでいませんでした。
文化担当官として大使館に勤務していたヘルガ・ピヒトです
ピヒトは60年朝鮮語を学ぶためキム・イルソン(金日成)総合大学に留学、後にホーネッカーの専属通訳を務め、キム・イルソン(金日成)との首脳会談には、すべて立ち会っています。

◆ヘルガピヒトの証言――――――――――――――――――

<党中央>とは不思議な表現でした。
私たちは当時、党の中心部と言う意味ではないか、
または党中央委員会の省略した呼び方ではないかと考えました。
それが一人の人間を指すとは、夢にも思いませんでした。
――――――――――――――――――――――――――――

何故<党中央>という表現を使い、後継者の決定を明らかにしなかったのか?
キム・イルソン(金日成)の側近だったファン・ジャンヨブは、他の社会主義国を気にしたからだと言います。

◆ファン・ジャンヨブの証言―――――――――――――――
社会主義、共産主義を掲げる指導者が、世襲で権力を息子に譲る。
これでは完全に封建制のやり方です。
だから公にすることはできなかったのです。
息子への後継は、既成事実として着々と進めていました。
どうしてそうしたことを表に出せるでしょうか?
――――――――――――――――――――――――――――

このころの金正日総書記の発言をまとめた資料を入手することができました。
労働党の幹部だけに配付されていた内部資料です。

  ◆映像:“キム・ジョンイル 主体革命偉業の完成のために”という文書の画像

そこには、組織指導部を率いる立場から党の幹部に行った講演が記されていました。

◆全国党組織幹部講習会での発言(1974年8月)――――――

党中央の意志はすなわち首領様の意志である。
そして党中央の指導は、首領様の指導を実現するためのものだ
――――――――――――――――――――――――――――――

<ナレーション>
首領であるキム・イルソン(金日成)と同じ権威を持ち、後継者としての活動を始めると宣言したのです。
キム・イルソン(金日成)は息子のライバルであったキム・ヨンジュを政治の表舞台から追放します。
党の実権を掌握した父と共にその支配を国の隅積みまで広げていきます。

  ◆映像:スローガンの書かれたプラカードを持って行進する市民

当時北朝鮮では新たなスローガンが掲げられました。
キム・イルソン(金日成)は生産性を上げるため、思想や技術などの刷新をはかるように指示しました。
大学を出た20台を中心に<三大革命小組員>と呼ばれる若者が全国の職場に配置されました。
しかし、彼らには別の使命が与えられていました。
国内全ての生産現場で党や、警察とは異なる独自の監視網を作ることでした。

およそ20万人の若者達が事実上、金正日親衛隊として活動しました。
地方の集団農場で活動していた親衛隊の一人です。
2002年韓国に亡命しました。
体制に不満を持つ人間を排除するのが任務でした。

◆元三大革命小組員の証言――――――――――――――――
我々は巨大な蜘蛛の巣のような存在でした。全国の農村や家庭にまで入り込み、
人々の考えていることを全て洗いだし、些細な出来事まで中央に報告しました。
<党中央>の意志に反したり、疑問を持つ人間を見つけ出し、直ちに粛正しました。
金正日は国内での権力を固める上で、我々の力を大きく利用したのです。
――――――――――――――――――――――――――――

<ナレーション>
次の狙いは、建国以来の悲願祖国統一に向けられました。


 ◆映像:韓国パク大統領狙撃事件(1974年8月)

韓国で革命をおこし、政府転覆を謀る対南工作。
70年代北朝鮮は、頻繁に工作活動を繰り返していました。

 ◆映像:ピストルや弾丸他、工作活動の証拠の写真~工作員の手帳

私たちは対南工作を行っていた工作員のメモを入手しました。
メモが書かれたのは76年でした。
対南工作が誰の指示で行われていたか記されていました。

―――――――――――――――――――――――――
 党が命令する任務を正しく遂行するため、
徹頭徹尾、<党中央>の指導のみに、依拠するべきである
 ―――――――――――――――――――――――――

<ナレーション>
指示は、党中央から出ていたのです。

七〇年代に活動していた北朝鮮の元工作員です
韓国に潜入し対南工作をする組織作りを行っていました。

――工作員の証言――――――――――――――――――――
七〇年代半ば、韓国が警備を強化し対南工作が難しくなりました。
そこで、ある命令が出されました。
『北から南へ直接侵入する工作を減らし、日本を経由して侵入する工作をふやせ』
というものでした。
日本を利用した対南工作が本格化しました。
<党中央>の指示でした。
――――――――――――――――――――――――――――

<ナレーション>

77年秋から、当時は原因不明とされた日本人拉致が相次ぎます。
政府が認定した政府が認定した被害者は16人に上ります。

北朝鮮の工作員が日本人になりすまして韓国に潜入するために、日本人のパスポートや日本語の教師が必用となり、拉致が行われたと見られています。

70年代後半、日本で対南工作に関わっていた在日朝鮮人に接触することができました。
男性は日本人の拉致には直接関係していないと言います。
日本に留学していた韓国人を北朝鮮に連れ出し、労働党から表彰を受けていました。

ドキュメント北朝鮮第二集(2)

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