赤崎のちょいマジなおもいつき録

何かひらめけば書くはず。
たまにゃあ語ることもある。

アイヌという存在の見直しをするときが来た

2014年09月07日 | 現代アイヌ関連

私は「アイヌに先住性はない、しかしアイヌをアイデンティティとする人間は存在する、現在はアイヌという存在の見直しをするときに来た」そう解釈しています。



アイヌという呼称が使われ始めたのは明治前後からであり、それまでは蝦夷(えぞ)、または夷狄(いてき)などと呼ばれていました。変な話、日本全体が近代国家化していく中で初めて「アイヌ」となったわけです。

さらに掘り下げると寛文蝦夷蜂起の時代(1669年頃)に見られるように、各地の蝦夷は今で言う都道府県のように地域で違いがあり、その頃の自称というのは「メナシクル(東の人)」「サルンクル(沙流の人)」といった具合に「~クル(~の人)」となっており、全体をさす総称は存在していませんでした。

またその集団間で戦国時代よろしく各地で戦いがありました。抗争の理由は様々で、信仰の違い、先祖からのしがらみ、食料や宝の奪い合いなどです。

こういった状態から、いわゆるアイヌはひとつの集団としてまとまったことがないと言われます。寛文蝦夷蜂起においてもシャクシャインの檄に対し、石狩や新冠、釧路は拒否をしました。現代においても各地で「どこそこがだめだ」という話題が出ます。

以前、ツイッターのフォロワさんたちとアイヌ文化を広く知ってもらうために、「アイヌ語ひとつとっても地方差があるから、標準ないし基準となる設定が必要では」と話した際、「“なんであそこを標準にするんだ”といった頓珍漢な話が出てきて頓挫するのが目に見える」と、教えられたことがあります。


2008年の国会決議において、アイヌを「とりわけ北海道に住んでいた」として先住性を示しましたが、これは東北地方が含まれ、おおよそ蝦夷(エミシ・エビス)とアイヌをイコールで結んでいるのかなと思います。しかしこれを前提とするとひとつ面白い現象が起きます。

東北地方では蝦夷(エミシ・エビス)から派生した日の本という集団が存在し、そのうちである安倍姓安藤氏という一族が日の本将軍となり(自称とする説もある)、広く認知され、当時は室町の朝廷にまで知られていました。

日の本将軍の安倍姓安藤氏は、現在の青森県の日本海側にある十三湊を拠点としており、戦などの影響から一族は北海道へ行って一部は下国氏として留まり、また一部は安東と名を変えて秋田へと移ります。よって、アイヌは実は大名となって戦国の世を生きていたということになります。

安東氏で見たように、和人化したアイヌと言われるのはこのことです。大名にならなかった一般の蝦夷も存在しますが、江戸時代へ向かうにつれて東北の諸地域でも藩となる基盤が出来上がり、その中へと徐々に組み込まれていきます。

松前藩も家臣のうちに安倍姓安藤氏から派生した下国家を抱えているほか、松前氏が誕生する前から具体的な地理的境界も定めず、蝦夷の移動も制限していなかったため、いわゆる和人集落と蝦夷の融合も起きていたと推測されます。よって和人とアイヌの境界が曖昧でした。

よく誤解されているのが、松前藩は中央から蝦夷地の支配権を与えられたという話ですが、これは支配権ではなくてあくまで交易権であり、蝦夷の人々に失礼があってはならないと念押しをされています。

それから寛文蝦夷蜂起があって松前藩は、本州人の流入を制限し、蝦夷には日本的風習の禁止をしました。皮肉にも戦いで負けたことによって、現代に知られるアイヌ文化の熟成期が訪れます。



“アイヌ民族”の定義とはなんぞや、という話題に「定義はできない」「帰属意識があればいい」「外部から決められるものではない」「“定義”という言葉の使い方が誤り」などと言った言説が飛び交い、“アイヌ民族”という言葉は立場や場面によって如何様にも使えてしまうという印象が拭えません。

かと言って“アイヌ系日本人”ではどうなのかと言うとそれではいけないらしく、件の発端になった「アイヌ民族はもういない」という発言も、記事などのタイトルでは「アイヌはもういない」と書かれることも多く、印象操作ではないかと疑問に思いますし、どうして“アイヌ民族”でなければいけないのか、理由がよく分からないままです。

こういった状態なのも、結局は誰もが「アイヌとはなんぞや」と根を詰めず、個々のイメージに偏ったり、またはアイヌの置かれた環境を利用しようとしたり、自己陶酔の材料にされたりと、うやむやにされてきた結果です。

更には、先に述べたように地域別に存在してひとつにまとまらなかった、いわゆるアイヌが、現在になって偏った歴史と負の感情とその煽動でしかひとつにまとまれないというのは、なんとも悲しい話です。

また、生活実態調査などから北海道のおおよそのアイヌ人口が推定されましたが、そのうちアイヌ協会に携わっているのが全体の約1割であるといい、そこへ各保存会や「~の会」などといった“アイヌ系の諸団体”に携わる人々を加えたとしても極端な割合増にはならないでしょう。よって、いわゆるアイヌの多くはごく自然に日本国民として暮らしているわけです。


私は「アイヌ協会やアイヌ文化振興・研究推進機構を含む“アイヌ系の諸団体”とは距離を置く、多くの一般アイヌを巻き込んでいいのか?」と常々考えるところです。

ツイッターやほかネット上のサービス、公開質問状などで、アイヌ系の諸団体や個人が物騒な表現を使っていたり、先鋭化したりしているのを見ると、アイヌ全体の印象を損なってしまう危険があり、むしろ既にその状態になりつつあります。一般アイヌの中には先鋭化したアイヌと同じに見られたくないと距離を置く人もいます。

負の感情を煽って団結しようとする動きを私はよしと思いません。

もとより、アイヌ側の負の感情を煽る方々は・同化を浄化と言ったり、虐殺はないと言っても魂は虐殺されたと言ったり、物騒な言葉遣いや印象操作、事実誤認ともとれる言説がどうも気にかかります。

確かに中には真っ当な主張もあり、それらは受け入れ、必要ならば反省や検討をし、次につなげていかなければいけません。しかし同時に、事実と違う主張には指摘を入れる必要があり、主張する側はそれを受け入れる必要が出てきます。

民族やその権利について論じる方々はよく世界や他国を引き合いに出しますが、世界から審査されたときに事実誤認があればアイヌにとってマイナスになってしまいます。それではせっかくの主張も意味がありません。


一方で私が会ってきたアイヌ系の人々の中には、「もう負の部分はいいから、良いものは良いとして残していきたいし、広げていきたい」という方々が居ました。

今あるものを最大限に活かしていいものを作る、技術や知識を追い求める・応用する、楽しさを共有する……文化の継承者が少ないという現実もあり、気軽に触れてもらえるように工夫をし、それぞれがそれぞれの方法で新しいアイヌのあり方を模索していました。

新しいことをはじめるにあたり、失われていくものもあって寂しさが出てくるのは確かで、その胸のうちを明かしてくださった方もいました。それでも前向きにいこうとする様子をみると、それぞれがその工芸なり文化なりが好きなのだと思います。

逞しい方々に会ってきた一方で、挫かれてきた人たちにも会ってきました。

いわゆるアイヌ利権によってアイヌ以外の人間の横行や事業の停滞、コミュニティ内におけるアイヌ同士の嫌がらせもあり、それらが重なって意気消沈・無気力化した人、アイヌ系の諸団体を自分から抜けた人、辞めさせられた人たちを見てきました。

そういったアイヌの闇などと言われる部分を見た人たちをネットでは殆ど見ることはなくても、確実に存在し、アイヌ利権を追及する勢力の支えとなっています。

アイヌの闇やアイヌ利権というものはないと言う人たちもいますが、それらはいかにアイヌ系の諸団体が閉鎖的で排他的であったか、アイヌに関わることは北海道だけのものとされてきたことの証左であると考えます。

また、アイヌと直接の関係がない人たちの中には、アイヌが持つ「苦難に立ち向かう逞しさ」「ミステリアスさエスニックさ」「工芸品の芸術性」などという“イメージ”に惹かれた人も多くいると思います。

あくまでイメージなので事実とは違う面も否めませんが、私はこういったイメージから入ったライトな理解者や共感者の存在はとても大切だと考えています。私自身もアイヌ神謡の世界観に惹かれて入った人間です。

知れば知るほど自制をかけてしまうのはよくある現象で、それと対称的存在であるライトな理解者は、ライトであるからこそできる行動というものもあります。

例えば私の知る人たちの中には、アイヌ文様を衣装デザインに活かすひともいますし、伝統工芸に挑戦しているひともいれば、歴史的時流を検討しようとするひともいます。

ライトな理解者は新しい発想と多角的視点をもたらす存在だと感じます。何かしらアイヌへの葛藤を抱えたとしても、だいたい共通して前向きな人たちである印象があります。

アイヌ側は負の感情を煽って、自身の評価を下げるどころか進もうとするアイヌの思いや、ライトな理解者たちの思いを踏みにじってはいないか、まだ見ぬ理解者を遠ざけていないか……追及する側も主張の仕方に問題はないか、こういった人たちまで過剰に否定をしてはいないか……私は気がかりでなりません。

気を揉ませるだけではだめだと思って、私は久しぶりにちょい真面目なブログを書きました。

味方だ敵だ、勝つ負ける、右だ左だで考えることを放棄することなく、落としどころを探っていけたらいいなーと思います。

「アイヌは、もういない発言」に思うところ

2014年08月19日 | 現代アイヌ関連
ツイッターでの発言から、具体的なところは抜いて全体的なところで思ったことをつらつらと。

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参考:各ブログやまとめ等

アイヌ施策に関するツイートについて - 札幌市議会金子やすゆきホームページ

札幌市議会議員金子やすゆき氏の発言について - 後進民族アイヌ

アイヌ研究者による「アイヌ民族とは何か?」
- Togetterまとめ

当事者から見た「アイヌは、もういない」問題 - Togetterまとめ

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私も市議の発言のうち、「いない」と言ってしてしまったのは良くなかったなあと思いました。
しかしその分、“アイヌ”や“民族”といった言葉がいかに便宜上の言葉であるかは周知されたのではないかと思います。
混乱の根本はアイヌ協会や国が、アイヌの定義を明確にしていないことだと考えます。

またツイッターのタイムラインを見ながら気になったのは、一部の事例をあたかも全てにあてはまるかのように発信してしまうこと、受け止めてしまうこと。
市議の発言もそうですが、当事者の話でもそうです。これでは互いに片手落ちになってしまって、誤解が生じやすくなってしまいます。

全員が100パーセント満足することは不可能です。だからこそ落としどころを探るために広く知り、考え、押すだけではなくて時に譲らなければなりません。
そして攻撃的にならないで欲しいと願ってやみません。

アイヌの定義や今後のありかたについて、私なりの考えはありますが別の機会に記したいと思います。

北海道議会・小野寺道議によるアイヌ政策に関する質問~動画と質問項目付け合せ

2012年01月24日 | 現代アイヌ関連

小野寺道議の道議会動画内容と各質問項目の頭だし用に付け合せしてみました。
質問項目は道議のホームページからの引用になります。

※注意:リンクはただ単に別窓表示するだけで、動画の時間スキップには対応しておりません……。


■道議のホームページ内にある質疑録
平成23年 第4回北海道議会定例会 予算特別委員会(12月6日)
アイヌ政策に関する質問
http://www.onoderamasaru.jp/gikai/shitsumon/h23dai4yosankan/


■動画と項目リンク

[You Tube] 小野寺まさる道議「アイヌ政策について」道議会予算委員会にての質問

一 アイヌ政策について

(一) アイヌ文化振興財団の会計について

1.伝統工芸複製助成事業の返還金について(動画開始~)

2.国際文化交流書生事業の返還金について(3:26~)


(二) アイヌ文化の普及について

1.歴史的事実に関する副読本の記載内容について(5:50~)

2.北海道の帰属の考え方について(8:28~)

3.副読本の編集委員の選任について(12:02~)

4.副読本の発行の責任について(14:28~)

5.財団の公開講座について(16:15~)

6.財団役員の選任について(19:55~)

7.財団理事の資質について(21:13~)

8.今後の対応について(23:20~)


(三) アイヌ施策の推進について

1.アイヌ住宅改良事業について(26:05~)

2.免除及び滞納の件数等について(27:47~)

3.今後の対応について(28:33~)

4.北海道アイヌ協会の返還金について(33:13~)

5.アイヌ協会の報告について(37:35~)

6.北海道アイヌ協会札幌支部の事業について(40:43~)

7.アイヌ協会の体制強化について(43:46~)

8.アイヌ協会に対する対応について(45:32~)



■道議のホームページ内にある質疑録
平成23年 第4回北海道議会定例会 予算特別委員会(12月7日)
アイヌ政策に関する質問(知事総括質疑)
http://www.onoderamasaru.jp/gikai/shitsumon/h23dai4yosantiji/


■動画と項目リンク

[You Tube] 小野寺まさる道議「アイヌ政策知事総括」

一 アイヌ政策について

(一)アイヌ文化振興財団の理事について(動画開始~)

(二)アイヌ協会札幌支部の議案について(5:19~)

(三)今後のアイヌ政策について(10:43~)

(四)朝鮮学校への補助金について(13:38~)


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なんというか……答弁の対応が情けないです。
私個人としては“北海道の帰属の考え方について”で触れられている、国連と北海道とで“先住”の意味の食い違いは大きいと考えます。
副読本の事実誤認も、静内に移りシャクシャインを調べるようになって色々と知った身としては見逃せません。直して欲しいと切に願うところです。
また、多くの問題を抱える協会を見本としてアイヌ政策の全国展開をするのは、素人目にみても無理があるのではないかと感じます。
まずは足元を見直し、しっかりと体勢を整えてから動くのが筋ではないでしょうか。
アイヌ政策がもとでアイヌにイヤな視線を送られるのはごめんです。

アイヌは先住民族か

2008年06月13日 | 現代アイヌ関連
この話は長いぞ! 気をつけろ!



 2008年6月6日、アイヌは先住民族だという国会決議がなされた。
 非常に複雑な思いだ。諸手をあげて喜ぶことができなかった。
 アイヌはどこへ向かおうとしているのだろう。


 まず始めに、「先住民」と「先住民族」とでは意味合いが違ってきます。「先住民」とは原住民とも呼ばれ、主に集団全体を指す言葉であり、「先住民族」とは各民族を指し、特に国と同等の権利を持つもの、あるいは権利を主張している集団のことを言います。定義こそはないものの、こういった使い分けがされているようです。
 また、誤解があるようですが、アイヌは「日本の先住民族」ではなく、「とりわけ北海道に住んでいた先住民族」であると認められました。このことは決議文の中にも書かれています。


 私はアイヌが先住民族と認められることによって、集団的アイデンティティが保つことができれば十分だと思っています。アイヌ文化振興法(アイヌ新法)が制定され、財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構ができました。それ以来、文化活動がしやすくなりました。生活に関する支援もされるようになりました。近年では北海道大学アイヌ・先住民センターもできました。イオル(アイヌの伝統的生活空間、文化学習の場)構想について、少しずつではありますが道内各地で活動が始まっています。

 しかし、一部のアイヌはそれだけでは満足できないようです。

 国が先住民族と認めたからには、次に過去の出来事に対する賠償や自決権について主張、要求をするでしょう。自決権とは自分のことは自分でやる、他者の干渉はいらないという集団権利のこと。賠償を要求する者の中には「北海道の山や川を返せ」と言うものも居ます。そんなこと今更できるわけがないから、国はお金で解決するでしょう。自決権にしても実際のところ、実行するのは難しいと思われます。アイヌは団結しているようでバラバラなのだから。阿寒に住んでいると切にそう感じます。まとまりのない今のアイヌが自決権を上手に使えるでしょうか。

 早い話、アイヌの中には先住民族というものを盾にして政府に無理難題をふっかけ、国にたかろうとしている者がいるのです。金が欲しいんだ、金が。私の偏見であって欲しいのですが、アイヌの権利について躍起になっている連中は金に汚いイメージがあります。大概その連中が得た金は貧乏しているアイヌに行くことがありませんので。そのせいで私は「アイヌは先住民族」という国会決議のニュースを聞いてもあまり喜べませんでした。

 文化の伝承活動に関わらない者にとって、自決権や土地の返還よりもお金による生活援助が手っ取り早くて都合がいいのでしょう。アイヌアイヌと騒げば楽にお金が手に入るのですから。お金がもらえるようになったら今よりアイヌ人口が増えるかもしれませんねー(棒読み)


 お金の問題のほかにも心配なことがあります。それは「差別の助長」です。
 レアケースを除き、日常的な差別はほとんどなくなった今日、アイヌは「先住民族」となり特別な存在になりました。良い意味でも悪い意味でも差別せざるを得ない存在になったのです。昔あった差別を現代で掘り返すことになりかねません。

【2008年7月7日加筆】
 ここで言う日常的な差別とはアイヌに関する(身体的特徴や出自などに対する)中傷などです。幼稚ないじめレベルとでも言えばいいでしょうか。全体的にそういった差別は減ったというデータが出ていますが、そのデータを出した調査方法は曖昧なものであり、根強く差別が続いている地域もあります。そこでは日常的な差別のほかに上記でレアケースと書いた結婚、就職、学業などダイレクトに生活や人生に関わる差別も続いています。
 白兄からも差別は今でも続いているという話(実体験含む)を聞いていましたが、ブッ飛んだ文章を書いてしまって申し訳ありませんでした。コメントでのご指摘ありがとうございます。
【加筆ここまで】

 差別といえばアイヌによる和人差別も気になるところ。阿寒には和人で手練のアイヌ工芸職人が何人かいますが、アイヌから陰口をたたかれたり、長年作品が評価されなかったりしたことがあるそうです。こういった逆差別の助長も起きないとは言えません。

 思えば「先住民族」という自らを差別化するものになっておいて、あれもこれも差別だと騒がれたら迷惑だな。もっとも、騒ぐのはごくごく一部のアイヌだけで、多くのアイヌは静かに暮らしたいのだと思いますが。一部の妙なアイヌのせいでアイヌ全体が変に見られるのはカンベンしていただきたいものです。和人もしかり。和人だって差別主義者ばかりではありませんからね。

 こうやって書き連ねていくと、近年になってやっとなくなってきた垣根が、「先住民族」認定によって再び現れたかのようでもある。そう感じているのは私だけでいい。うん、私だけでいいよ……。


 白兄は今回の決議に関して、もし国から先住民の権利として与えられるなら、年に切っていい木の数や河川、山で猟のできる期間、伝統民具(銛や弓など)の使用許可ぐらいで十分だと言います。白兄の仲間内をはじめ、この考え方を持つアイヌは他にも居ます。

 こうやってまじめに真剣にアイヌの将来について考え、政府に要望するべきことを考えているアイヌもちゃんといるのですが、嘆かわしいことにこういったアイヌはあまり目立たちません。目立つのはいつもずる賢くて金に汚くて何か勘違いをしている、目立ちたがりのアイヌばかり。そういう人を赤崎と白兄ほか、一部の人の間で「とぱっとみー」と言います(笑)。ゆえに有識者懇談会を設置した国の対応は正しいでしょう。ただ、その有識者がちゃんとした有識者であることを祈ります。

※とぱっとみー……アイタタタタな人のこと(笑)アイヌ語のトパットミ【盗人】がもと。トンコリ奏者オキさんのライブにてトパットミという単語が入った歌があり、オキさんが「トパットミ~」と歌うとギャラリーはノリノリで「トパットミ~」と返していましたが、その曲は「和人は盗人」と歌っていたのです。意味が分かっている人はその光景にどん引きでした。


 有識者の方々は現代に浸透しているアイヌのイメージについてどう考えているのでしょうか。世間一般では特に「滅びゆく民族」「かわいそうな民族」だというイメージが強いように思います。

 そのイメージがアイヌについてまわるのは、色んな機関が「アイヌが和人に迫害されてきた部分だけ」を強調して世間に言いふらしてきたからです。私もブログその他に散々書きましたし、ちょっと調べると分かることですが、和人が一方的に悪さばかりしていたわけではありません。アイヌと和人には物々交換をして持ちつ持たれつの関係がありましたし、長きにわたり交流していたところもあります。アイヌの昔話の中には和人と仲よくしている話もあるほどです。それなのに和人の悪い部分ばかりを強調する意味がわかりません。先述のとおりアイヌにも悪いところがあります。何か都合の悪いことでもあるんですかー?(棒読み)。今回の決議採択を機にアイヌ情報の偏向が直るといいなーと思います。なさそうですが。

 あと「自然と共存する民族」というイメージにも少しツッコミを入れたいですね。アイヌは都合がいいように自然界を解釈しているところがあります。山へ入って不猟だったら「今日の山の神は不機嫌」と山の神の機嫌をとる祈りをささげることもあれば、「今日の山の神はケチくさい」と文句を言って山の神をいさめることもあるのです。石につまづいて転んだら自分の不注意よりも石が悪い、とかそんな感じです。だがしかし。この「自然と共存する民族」というイメージはあまり壊してはいけない気もする……。精神的にも観光資源的にも(笑)


 先住民族だと政府が認め、これからはより人目に触れることが多くなるであろうアイヌ。あまり知られていなかったこともどんどん明るみに出てくると思います。この決議があった段階では、アイヌ側も政府側も目先のことばかりに気をとられて、あまり将来を重要視していないようにも感じます。タカり目的の一部アイヌはボロが出たらどうするのだろう、政府は平々凡々に暮らすアイヌについてはどう対処するのだろう。こんな状態では娘や息子が成人する頃、アイヌは社会的にまともでいるかどうか不安です。


 不安がってばかりもいられないので、注視しつづけたいと思います。

アイヌ六英雄と新撰組

2006年04月26日 | アイヌ神謡関連
私が白老のアイヌ民族博物館に出入りしていた頃、私の描いたイラストを見ていただいたことがあった。見て下さったのは学芸員の方やアイヌ語の先生たちだ。全体の雰囲気はとても評価してくれた。しかし細部になってくると指摘が増える。
「この女性の入墨はフェイスペイントと誤解されるから、むしろ無いほうがいい」「山に入るのに軽装すぎないか」「エムシ(刀)は抜き身で持たない」「アイヌの着物は和装の着物と同じだから全くなびかない、樺太系ならまだ違うかも」などなど。

どうしてここまで細かい指摘があるのか?

それはアイヌがモデルのキャラクターたちにアレンジを加えられるほど知名度が無いからだ。ある学芸員の方が私に新撰組を例に話してくれた。
新撰組は調べようと思えば色んなところで資料などが手に入り、実際の新撰組がどういった人たちだったのか世間は知っている。しかし逆にアイヌはその存在すら知られていない場合もあり、資料も少ない。知られていないがためにどんなイラストでも文章でも資料になりうる危険性がある。新撰組のように色々なアレンジを加えられるようになるためには、もっと世間にアイヌを知ってもらい、新撰組のような大柱がアイヌ側にもできあがるまでは下手にアレンジを加えないのが無難だよ…と。

ああ成るほど、と思った。
私自身、商業誌でアイヌを描いた人の作品を見てアイディアをもらったり「こりゃないな…」とつっこんだりする。私は駆け出しとはいえ多少なりの基礎知識があるから全てを真に受けたりはしないつもりでいるが、基礎知識を持たない人たちから見たらそれが全てになる。
要はアイヌのメディア表現というのは超デリケートに扱わなければいけないということ。私の知らぬ間に私のイラストやアイヌ神謡の見解が何らかの形で資料になっているのは可能性としてないわけではない。これがもとで誤解が広がるのはまずい。
…やっかいだ。ぶっちゃけやっかいだ。でも誰かが行動しなければ世間には広まらない。

知識をたくわえていざ描きだしてみるが、アイヌを知らない方々よりもある意味タチの悪い連中がいる。
頭カチコチの学者たち。たまたま俺が会う人たちは柔軟な方たちばかりだが、学芸員の方やアイヌ語の先生の話を聞いているとカチコチ学者は結構いるらしい。どれくらいカチコチなのかというと、「これは絶対にありえない」などと断言するらしい。

私は歴史資料を調べ、勉強するようになってアイヌの着物模様一つとっても「へ~、コレだけじゃなかったんだ~、じゃあこういうのも考えられるのかな~」などと歴史資料に色んな可能性を感じるようになったし、思いをはせるようになった。
歴史自体が多大な可能性を秘めているものだと思うのだがカチコチ学者はその可能性を否定してしまう。極端な違いはいいにしろ、細かすぎるところをうるさく言うのがカチコチ学者だ。
以前、開拓記念館へ行ったときにたまたま開拓記念館の方々と話をする機会があって、映画「北の零年」の話題になったときに「静内が舞台なのに夕張でロケだなんて。静内はあんなに雪、多くない」などと言った人がいた。すかさず一緒にいた彫刻職人さんが「内地の人からみたら北海道のイメージはあんなんでしょう、仕方ないと思いますよ」となだめたのを今でもはっきり覚えている。あ~、こういうことね…。

私と学芸員の方々、アイヌ語の先生と実はマンガ好きの集まりでもあった。実際にマンガで描いてみたいと思ったけれど、先述の超デリケートさに負けて断念した方もいる(俺はこの方のイラスト大好きなんだけどな…サイン付きで欲しい/笑)。
超デリケートを打破するにはまだまだ時間がかかりそう。でも諦めない。