ゴッホとゴーギャン展
東京都美術館
2016年10月8日(土)~12月18日(日)
第4章 共同生活後のファン・ゴッホとゴーギャン
ゴッホがゴーギャンと破局後から亡くなるまでの作品が並びます。この頃ゴッホは
精神障害の発作を繰り返し、サン=レミの療養院に入院しそこで作品の制作を続けました。
療養院を退院後、オーヴェール=シュル=オワーズに移り住みましたが、その年の7月
自ら命を絶ったのでした。(これについては諸説があるようですね。)
その時代のゴーギャンの作品も並べられていますが、この2人はあのような形で破局を
迎えた後も手紙のやり取りをし、作品の交換を願い出るなど、交流を続けていました。
友人としては共に過ごすごとは出来なくても芸術家として、絵画を語ることについては、
同志として認め合っていたということでしょうか。
壁の色はゴッホの色というべき『黄色』です。
『事件』の後、退院したゴッホは「タマネギ皿のある静物」フィンセント・ファン・
ゴッホを制作します。テーブルの上にタマネギと皿・パイプと刻みタバコ・ゴーギャンの
椅子で書いたローソク・手紙に封をするための蝋・医学書・手紙、テーブルの周りには
ビンとコーヒーの入った容器。医学書が退院直後というのを物語っています。
ゴッホの椅子に乗っていたパイプと紙タバコ、近くにあったタマネギを描いている
ということで、この絵はゴッホの自画像的な作品と思われます。
全体的に『明るい』印象を受けるこの絵が自画像であるならば、退院して心機一転
新たな気持ちで作品を制作しようという決意が表れているのでしょうか。
医学書の上にタマネギが乗っているのは、自らが開いたページが読み癖で開かない
ように重しにしているのかな、と思いました。タマネギを取り除いたら、どのページが
開かれるのか。本と自分の発作を重ね合わせているように感じました。
「ハム」ポール・ゴーギャン。写実的なゴッホに比べゴーギャンの「ハム」は置いて
あるテーブルや壁の柄?もちょっと幻想的に表現されています。ハムの塊がドーンと
大きな皿のほとんどを占めるように置いてあります。
ハムの隙間とテーブルには小ぶりのタマネギ、氷を浮かべた飲み物は半分ぐらい
飲んであって、これが人の存在を感じさせるのですが、後の物にはなぜこれがテーブルに?
と疑問がわいてしまいます。
ゴーギャンの物を再構成して描くという表現方法は鑑賞する者にも慣れが必要な
気がしました。(私感です)
「ジョセフ・ルーランの肖像」フィンセント・ファン・ゴッホ。
アルルで知り合った『郵便配達夫』(実際は駅で郵便物を管理する業務に携わっていた)の
肖像画です。
この絵は何枚か描かれており、本人を目の前にした作品の他に、描いた絵を見て描いた
作品もあります。今回展示の背景にケシやヤグルマギク・デイジーを描いた作品も、
以前の作品を見ながら描いたと考えられています。モデルであるジョセフ・ルーランが
だんだん形式的になっていくそうです。
この作品のルーランのヒゲは毛の自然な流れというより、デザイン的に加工したように
感じました。
背景はこの作品も含めて、花や柄などファンシーな背景で描かれており、その人物の
気質を描きこむとゴッホが語っていたそうで(「ズアーヴ兵」)、・・・ということは
このもっさり髭のおじさんもゴッホには内面は『バック(背景)に花を背負っちゃう
ような少女漫画的気質』と見破ぶられている!ということで・・・宜しいでしょうか(笑)
「刈り入れをする人のいる麦畑」フィンセント・ファン・ゴッホ。サン=レミの療養院の
部屋から見た風景です。
麦畑はざわざわと麦の穂が渦巻くようにうごめいています。黙々と刈り取る農夫は
空の黄緑と同じ色です。黄色く丸い太陽と黄緑色の空は麦の穂とは反対に熱を感じません。
空と麦畑を貫く山々は青紫でと黄土色で描かれその間に何軒かの家が建っています。
発作を繰り返し、病室から見るこの風景にゴッホは何を感じたんでしょうか。
後年の燃えるような筆使いで描かれたこの麦畑は明るい色使いの作品であるにも
かかわらずどこか冷めた印象を与える不思議な作品です。
サン=レミの病院に入院中のゴッホは、体調の良いとこには散歩に出かけ作品を
制作しました。「オリーヴ園」フィンセント・ファン・ゴッホはそんなサン=レミ時代に
描かれた作品です。このモティーフが気に入ったのか、この地ではこの『オリーブ』と
『イトスギ』を繰り返し描いています。
オリーブ園の色彩の変化をとらえようと試行錯誤している様子がテオへの手紙に
つづられています。『あるところは銀色、あるところは青く、あるところはまた
緑がかり、ブロンズ色になり、それが黄色、ピンク色、紫あるいはオレンジ色から
鈍い赤土色にまでなっている地面の上では白く見えている。何とも難しい』と。
そして、出来上がった作品は、様々な色をオリーヴの幹、葉に乗せ、青々と萌えあがる
木々の様子を写し取っています。
萌えあがる=燃え上がる、との表現が最適のような地面、オリーヴ、空がまさに
燃え上がっているかのように、上へ上へと立ち上っていて、黄・緑・青とメインの色が
寒色にも拘らず『熱』を感じました。
「渓谷(レ・ペイルレ)」フィンセント・ファン・ゴッホは、最初見た時『顔?』と
思いました。
遠くの山から滝が落ちた水が手前の渓谷に流れていく、そこを2人の女性が
歩いている。・・・タイトルを見てもその通りの絵なんだと思いますが、私には、
この作品がどうしても泣いているに見えてしまいます。
水が削ったと思われる岩の大きな穴が目、そこを流れる川は止まらない涙。
対面の岩肌の一部は川に突き出していて、パイプを口にくわえているようです。
ゴッホ本人は実際こういった渓谷があってそれを描いたと言っているので、
この渓谷は実在するのでしょう・・・この岩場も。「オリーヴ園」と同様の
燃え上がるような筆づかいで描かれています。
この作品と同様の構図の作品を展覧会に出品し、それを見たゴーギャンが、
この絵を称賛した手紙を送り、自分の作品との交換を申し出るほどの感銘を
与えたそうです。
「種まく人(ミレーによる)」フィンセント・ファン・ゴッホは、ミレーの『種まく人』の
複製版画で模写を行っています。
模写は、ゴッホが絵を描き始めたころに独学で行っていたデッサン練習方法でした。
しかし、現在ミレーの作品を模写することについてテオに『ミレーのデッサンに
基づいて模写するというより<別の言葉に翻訳する>という感じだ』と書き送っており、
ゴッホ自身の独自の解釈や絵画方法でこの『種まく人』の『翻訳』を行いました。
それにしてもかなり雰囲気の変わったゴッホの『種まく人』ですが、このポーズ、
構図であるだけでミレーの『種まく人』と分かるのは、この絵がそれだけ人々の記憶に
浸透しているということなのでしょう。
ゴッホこんな風に人々と寄り添うような画家を目指していたのかな、と思ったのでした、
「若い女の肖像」フィンセント・ファン・ゴッホ。この絵は、ゴッホが最期を迎えた
地である、オーヴェール=シュル=オワーズに転居して描かれた作品です。
ゴッホはこの地で肖像画の制作に意欲的に取り組みました。この絵もそんな作品の
1つです。
伏し目がちに俯く赤いセーターを着た若い女性ですが、ゴッホらしくないずいぶんと
落ち着いた色合いの作品だな・・・と思いました。解説を読んだところ、
この作品の背景は、本当は鮮やかな赤で緑の( )←こんな柄を描きこんでいたそうです。
経年劣化で退色してしまったようですが、赤い背景を想像すると、この女性の印象が
落ち着いた女性から若く明るい女性が想像できます。
ゴッホは肖像画について、『写真のように描くのではなく、その人の個性を強調し、
表現するよう努めている』旨を手紙に書いています。
ゴッホが目指したものが成功しているかは・・・現代のゴッホに対する評価で十分に
証明されていますね
ゴッホと破局したゴーギャンはル・プルデュで他の芸術家たちと制作を続けていました。
そんなゴーギャンに宿屋の室内装飾の依頼が舞い込み、それに取り組みました。
「紡ぐブルターニュの少女」ポール・ゴーギャンはそんな宿屋の壁に直接描かれた作品で、
今はその壁から石膏ごと取り外され今日の姿になりました。
ブルターニュの衣装を着た少女が、海岸から少し離れた木の根元に佇んでいます。
少女は何やら瞑想しているようで、目を軽く伏せた表情や仕草は仏像を思わせ、
不思議な雰囲気を漂わせています。
『楽園から追放されたイヴ』とか『若いジャンヌダルク』とも言われているそうです。
画面奥の楕円の光の中から、天使が少女に向かって飛んできています。
『イヴ』ならば、楽園の追放者として、『ジャンヌダルク』なら、この天使は神からの
啓示を与えるために舞い降りようとしているのでしょうか。
絵の真意は私にはわかりませんが、とても惹きつけられる作品でした。
ゴッホはこの後、オーヴェール=シュル=オワーズで命を絶つのですが、展覧会の
もう1人の主役、ゴーギャンはこの後も野性を求め南の地『タヒチ』へと制作の場を
移していくのでした。そして壁の色は『赤』に変わります。
第5章 タヒチのゴーギャン
「川辺の女」ポール・ゴーギャン。タヒチ滞在時に家の近くに生えていたマンゴーと
思しき木を中心として、その手前の川辺に腰を下ろし、女性たちが何やら作業を
しています。洗濯か炊事と予想。
まず目に飛び込むのは大きなマンゴーの木。その中でも葉の中心に描かれている『赤』に
目がいきます。なぜそこに『赤』?紅葉じゃないよね~・・・と思いました。
ゴーギャンの絵には『赤』のイメージがあります。それも本来赤い色のもの(部分)
という訳ではなく、木々、道(土)、水(川)に不意に『赤』を使うので、現実の世界を
描いているのではなく、空想の世界を描いているのではないか、と感じる作品が多いです。
それは半分正しく、半分は写生に基づいた再構成の結果、なのでしょう。
実際の風景・人物を写生し、それを再構成して描くという面倒な作業を行っての作品は
なかなか理解できませんが、どこか人を引き付ける『魅力』を感じます。
ただ、なぜそんな面倒くさいことをするのかと・・・正直思ってしまいますが(笑)
「タヒチの3人」ポール・ゴーギャン。3人のモデルが、画面いっぱいに並び、背景は、
緑・黄色・紫が漂う波のように描かれています。日本画の障子や掛け軸などに見られる
雲のようです。
女性2人に挟まれた男性が肩身が狭そうに背を向け俯いています。右の女性は
白い花を持ち男性を見つめ、左の女性は背を向け首をこちらに向けてじっと前
(鑑賞者)を見つめています。その女性の左手は、『見て』と言わんばかりに
青いリンゴを手に持ち掲げています。
リンゴは南国の果実ではないそうで、わざわざこの果実を女性に持たせたことの
ゴーギャンの意図は何なんなのか?
西洋でリンゴといえば、蛇にそそのかされてそれを口にしたため、神の怒りを
買い楽園を追放されてしまったイヴの『禁断の実』を思い浮かべます。
そう考えるとリンゴを手に持ち挑戦的にこちらを見る女性は『イヴ』、そして
真ん中で小さくなっている男性は『アダム』ということになるのでしょうか。
では、左側の花を持ち真ん中の男性をじっと見つめる女性は・・・?
ゴーギャンの意図はさておき、緑・黄色・紫の背景や女性の衣服が赤と白で
あることで全体的に明るく華やかに感じ、人物もはっきり描かれているため、
とても素敵な『人物画』と思いました。
最期に、ゴッホとゴーギャンの絆を感じる1枚を。「肘掛け椅子のひまわり」ポール・
ゴーギャンです。
壁の色は再び『黄色』に変わります。ここでゴッホにとっての友情の証である
『ひまわり』に今度はゴーギャンが向き合うことになります。
ひじ掛けのついた椅子に大きなカゴに『ひまわり』が生けられています。
ゴーギャンはこのタヒチでは見られない花の種を、友人に送ってくれるよう
依頼したそうです。そして『ひじ掛けのついた椅子』はゴッホとアルルで
共同生活を送っていた頃のゴーギャンの象徴ともいうべきアイテムです。
この二つをあえて描いたのはどういう意図なのでしょうか。
この作品ではゴッホの作品で頻繁に使用される『赤』が影をひそめています。
ゴッホは「ゴーギャンの椅子」において、椅子の上に本人を象徴するアイテムである
『本2冊に火のついたローソク』を乗せました
この作品を意識してゴーギャンが「肘掛け椅子のひまわり」を制作したとすると
ゴーギャン自身である『ひじ掛けの椅子』にゴッホとの思い出の『ひまわり』を
乗せたことは、ゴッホと共同生活をしていた当時の思い出はゴーギャンにとって、
とても大きなものであったのだ、と思いました。
おわりに
ゴッホとゴーギャンのアルルでの共同生活を中心に、彼らの生涯を追った
今回の展覧会は、この2人のみならずその当時の他の画家たちの交流の一端を
知ることができ、点が線になっていくように感じました。
ゴッホとゴーギャンについても知らないことばかりでしたので、どのエピソードも
大変興味深いもので、音声ガイドでのゴッホとゴーギャンの書簡の朗読は2人の心情を
表情豊かに感じることが出来、展覧会をより深く楽しむことが出来ました。
作品はどれも見ごたえがあり、筆づかいや表現方法など間近で見ることができ
とても充実の展覧会でした。
東京都美術館
2016年10月8日(土)~12月18日(日)
第4章 共同生活後のファン・ゴッホとゴーギャン
ゴッホがゴーギャンと破局後から亡くなるまでの作品が並びます。この頃ゴッホは
精神障害の発作を繰り返し、サン=レミの療養院に入院しそこで作品の制作を続けました。
療養院を退院後、オーヴェール=シュル=オワーズに移り住みましたが、その年の7月
自ら命を絶ったのでした。(これについては諸説があるようですね。)
その時代のゴーギャンの作品も並べられていますが、この2人はあのような形で破局を
迎えた後も手紙のやり取りをし、作品の交換を願い出るなど、交流を続けていました。
友人としては共に過ごすごとは出来なくても芸術家として、絵画を語ることについては、
同志として認め合っていたということでしょうか。
壁の色はゴッホの色というべき『黄色』です。
『事件』の後、退院したゴッホは「タマネギ皿のある静物」フィンセント・ファン・
ゴッホを制作します。テーブルの上にタマネギと皿・パイプと刻みタバコ・ゴーギャンの
椅子で書いたローソク・手紙に封をするための蝋・医学書・手紙、テーブルの周りには
ビンとコーヒーの入った容器。医学書が退院直後というのを物語っています。
ゴッホの椅子に乗っていたパイプと紙タバコ、近くにあったタマネギを描いている
ということで、この絵はゴッホの自画像的な作品と思われます。
全体的に『明るい』印象を受けるこの絵が自画像であるならば、退院して心機一転
新たな気持ちで作品を制作しようという決意が表れているのでしょうか。
医学書の上にタマネギが乗っているのは、自らが開いたページが読み癖で開かない
ように重しにしているのかな、と思いました。タマネギを取り除いたら、どのページが
開かれるのか。本と自分の発作を重ね合わせているように感じました。
「ハム」ポール・ゴーギャン。写実的なゴッホに比べゴーギャンの「ハム」は置いて
あるテーブルや壁の柄?もちょっと幻想的に表現されています。ハムの塊がドーンと
大きな皿のほとんどを占めるように置いてあります。
ハムの隙間とテーブルには小ぶりのタマネギ、氷を浮かべた飲み物は半分ぐらい
飲んであって、これが人の存在を感じさせるのですが、後の物にはなぜこれがテーブルに?
と疑問がわいてしまいます。
ゴーギャンの物を再構成して描くという表現方法は鑑賞する者にも慣れが必要な
気がしました。(私感です)
「ジョセフ・ルーランの肖像」フィンセント・ファン・ゴッホ。
アルルで知り合った『郵便配達夫』(実際は駅で郵便物を管理する業務に携わっていた)の
肖像画です。
この絵は何枚か描かれており、本人を目の前にした作品の他に、描いた絵を見て描いた
作品もあります。今回展示の背景にケシやヤグルマギク・デイジーを描いた作品も、
以前の作品を見ながら描いたと考えられています。モデルであるジョセフ・ルーランが
だんだん形式的になっていくそうです。
この作品のルーランのヒゲは毛の自然な流れというより、デザイン的に加工したように
感じました。
背景はこの作品も含めて、花や柄などファンシーな背景で描かれており、その人物の
気質を描きこむとゴッホが語っていたそうで(「ズアーヴ兵」)、・・・ということは
このもっさり髭のおじさんもゴッホには内面は『バック(背景)に花を背負っちゃう
ような少女漫画的気質』と見破ぶられている!ということで・・・宜しいでしょうか(笑)
「刈り入れをする人のいる麦畑」フィンセント・ファン・ゴッホ。サン=レミの療養院の
部屋から見た風景です。
麦畑はざわざわと麦の穂が渦巻くようにうごめいています。黙々と刈り取る農夫は
空の黄緑と同じ色です。黄色く丸い太陽と黄緑色の空は麦の穂とは反対に熱を感じません。
空と麦畑を貫く山々は青紫でと黄土色で描かれその間に何軒かの家が建っています。
発作を繰り返し、病室から見るこの風景にゴッホは何を感じたんでしょうか。
後年の燃えるような筆使いで描かれたこの麦畑は明るい色使いの作品であるにも
かかわらずどこか冷めた印象を与える不思議な作品です。
サン=レミの病院に入院中のゴッホは、体調の良いとこには散歩に出かけ作品を
制作しました。「オリーヴ園」フィンセント・ファン・ゴッホはそんなサン=レミ時代に
描かれた作品です。このモティーフが気に入ったのか、この地ではこの『オリーブ』と
『イトスギ』を繰り返し描いています。
オリーブ園の色彩の変化をとらえようと試行錯誤している様子がテオへの手紙に
つづられています。『あるところは銀色、あるところは青く、あるところはまた
緑がかり、ブロンズ色になり、それが黄色、ピンク色、紫あるいはオレンジ色から
鈍い赤土色にまでなっている地面の上では白く見えている。何とも難しい』と。
そして、出来上がった作品は、様々な色をオリーヴの幹、葉に乗せ、青々と萌えあがる
木々の様子を写し取っています。
萌えあがる=燃え上がる、との表現が最適のような地面、オリーヴ、空がまさに
燃え上がっているかのように、上へ上へと立ち上っていて、黄・緑・青とメインの色が
寒色にも拘らず『熱』を感じました。
「渓谷(レ・ペイルレ)」フィンセント・ファン・ゴッホは、最初見た時『顔?』と
思いました。
遠くの山から滝が落ちた水が手前の渓谷に流れていく、そこを2人の女性が
歩いている。・・・タイトルを見てもその通りの絵なんだと思いますが、私には、
この作品がどうしても泣いているに見えてしまいます。
水が削ったと思われる岩の大きな穴が目、そこを流れる川は止まらない涙。
対面の岩肌の一部は川に突き出していて、パイプを口にくわえているようです。
ゴッホ本人は実際こういった渓谷があってそれを描いたと言っているので、
この渓谷は実在するのでしょう・・・この岩場も。「オリーヴ園」と同様の
燃え上がるような筆づかいで描かれています。
この作品と同様の構図の作品を展覧会に出品し、それを見たゴーギャンが、
この絵を称賛した手紙を送り、自分の作品との交換を申し出るほどの感銘を
与えたそうです。
「種まく人(ミレーによる)」フィンセント・ファン・ゴッホは、ミレーの『種まく人』の
複製版画で模写を行っています。
模写は、ゴッホが絵を描き始めたころに独学で行っていたデッサン練習方法でした。
しかし、現在ミレーの作品を模写することについてテオに『ミレーのデッサンに
基づいて模写するというより<別の言葉に翻訳する>という感じだ』と書き送っており、
ゴッホ自身の独自の解釈や絵画方法でこの『種まく人』の『翻訳』を行いました。
それにしてもかなり雰囲気の変わったゴッホの『種まく人』ですが、このポーズ、
構図であるだけでミレーの『種まく人』と分かるのは、この絵がそれだけ人々の記憶に
浸透しているということなのでしょう。
ゴッホこんな風に人々と寄り添うような画家を目指していたのかな、と思ったのでした、
「若い女の肖像」フィンセント・ファン・ゴッホ。この絵は、ゴッホが最期を迎えた
地である、オーヴェール=シュル=オワーズに転居して描かれた作品です。
ゴッホはこの地で肖像画の制作に意欲的に取り組みました。この絵もそんな作品の
1つです。
伏し目がちに俯く赤いセーターを着た若い女性ですが、ゴッホらしくないずいぶんと
落ち着いた色合いの作品だな・・・と思いました。解説を読んだところ、
この作品の背景は、本当は鮮やかな赤で緑の( )←こんな柄を描きこんでいたそうです。
経年劣化で退色してしまったようですが、赤い背景を想像すると、この女性の印象が
落ち着いた女性から若く明るい女性が想像できます。
ゴッホは肖像画について、『写真のように描くのではなく、その人の個性を強調し、
表現するよう努めている』旨を手紙に書いています。
ゴッホが目指したものが成功しているかは・・・現代のゴッホに対する評価で十分に
証明されていますね
ゴッホと破局したゴーギャンはル・プルデュで他の芸術家たちと制作を続けていました。
そんなゴーギャンに宿屋の室内装飾の依頼が舞い込み、それに取り組みました。
「紡ぐブルターニュの少女」ポール・ゴーギャンはそんな宿屋の壁に直接描かれた作品で、
今はその壁から石膏ごと取り外され今日の姿になりました。
ブルターニュの衣装を着た少女が、海岸から少し離れた木の根元に佇んでいます。
少女は何やら瞑想しているようで、目を軽く伏せた表情や仕草は仏像を思わせ、
不思議な雰囲気を漂わせています。
『楽園から追放されたイヴ』とか『若いジャンヌダルク』とも言われているそうです。
画面奥の楕円の光の中から、天使が少女に向かって飛んできています。
『イヴ』ならば、楽園の追放者として、『ジャンヌダルク』なら、この天使は神からの
啓示を与えるために舞い降りようとしているのでしょうか。
絵の真意は私にはわかりませんが、とても惹きつけられる作品でした。
ゴッホはこの後、オーヴェール=シュル=オワーズで命を絶つのですが、展覧会の
もう1人の主役、ゴーギャンはこの後も野性を求め南の地『タヒチ』へと制作の場を
移していくのでした。そして壁の色は『赤』に変わります。
第5章 タヒチのゴーギャン
「川辺の女」ポール・ゴーギャン。タヒチ滞在時に家の近くに生えていたマンゴーと
思しき木を中心として、その手前の川辺に腰を下ろし、女性たちが何やら作業を
しています。洗濯か炊事と予想。
まず目に飛び込むのは大きなマンゴーの木。その中でも葉の中心に描かれている『赤』に
目がいきます。なぜそこに『赤』?紅葉じゃないよね~・・・と思いました。
ゴーギャンの絵には『赤』のイメージがあります。それも本来赤い色のもの(部分)
という訳ではなく、木々、道(土)、水(川)に不意に『赤』を使うので、現実の世界を
描いているのではなく、空想の世界を描いているのではないか、と感じる作品が多いです。
それは半分正しく、半分は写生に基づいた再構成の結果、なのでしょう。
実際の風景・人物を写生し、それを再構成して描くという面倒な作業を行っての作品は
なかなか理解できませんが、どこか人を引き付ける『魅力』を感じます。
ただ、なぜそんな面倒くさいことをするのかと・・・正直思ってしまいますが(笑)
「タヒチの3人」ポール・ゴーギャン。3人のモデルが、画面いっぱいに並び、背景は、
緑・黄色・紫が漂う波のように描かれています。日本画の障子や掛け軸などに見られる
雲のようです。
女性2人に挟まれた男性が肩身が狭そうに背を向け俯いています。右の女性は
白い花を持ち男性を見つめ、左の女性は背を向け首をこちらに向けてじっと前
(鑑賞者)を見つめています。その女性の左手は、『見て』と言わんばかりに
青いリンゴを手に持ち掲げています。
リンゴは南国の果実ではないそうで、わざわざこの果実を女性に持たせたことの
ゴーギャンの意図は何なんなのか?
西洋でリンゴといえば、蛇にそそのかされてそれを口にしたため、神の怒りを
買い楽園を追放されてしまったイヴの『禁断の実』を思い浮かべます。
そう考えるとリンゴを手に持ち挑戦的にこちらを見る女性は『イヴ』、そして
真ん中で小さくなっている男性は『アダム』ということになるのでしょうか。
では、左側の花を持ち真ん中の男性をじっと見つめる女性は・・・?
ゴーギャンの意図はさておき、緑・黄色・紫の背景や女性の衣服が赤と白で
あることで全体的に明るく華やかに感じ、人物もはっきり描かれているため、
とても素敵な『人物画』と思いました。
最期に、ゴッホとゴーギャンの絆を感じる1枚を。「肘掛け椅子のひまわり」ポール・
ゴーギャンです。
壁の色は再び『黄色』に変わります。ここでゴッホにとっての友情の証である
『ひまわり』に今度はゴーギャンが向き合うことになります。
ひじ掛けのついた椅子に大きなカゴに『ひまわり』が生けられています。
ゴーギャンはこのタヒチでは見られない花の種を、友人に送ってくれるよう
依頼したそうです。そして『ひじ掛けのついた椅子』はゴッホとアルルで
共同生活を送っていた頃のゴーギャンの象徴ともいうべきアイテムです。
この二つをあえて描いたのはどういう意図なのでしょうか。
この作品ではゴッホの作品で頻繁に使用される『赤』が影をひそめています。
ゴッホは「ゴーギャンの椅子」において、椅子の上に本人を象徴するアイテムである
『本2冊に火のついたローソク』を乗せました
この作品を意識してゴーギャンが「肘掛け椅子のひまわり」を制作したとすると
ゴーギャン自身である『ひじ掛けの椅子』にゴッホとの思い出の『ひまわり』を
乗せたことは、ゴッホと共同生活をしていた当時の思い出はゴーギャンにとって、
とても大きなものであったのだ、と思いました。
おわりに
ゴッホとゴーギャンのアルルでの共同生活を中心に、彼らの生涯を追った
今回の展覧会は、この2人のみならずその当時の他の画家たちの交流の一端を
知ることができ、点が線になっていくように感じました。
ゴッホとゴーギャンについても知らないことばかりでしたので、どのエピソードも
大変興味深いもので、音声ガイドでのゴッホとゴーギャンの書簡の朗読は2人の心情を
表情豊かに感じることが出来、展覧会をより深く楽しむことが出来ました。
作品はどれも見ごたえがあり、筆づかいや表現方法など間近で見ることができ
とても充実の展覧会でした。