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2009-09-12 | weblog

木戸幸一 きど‐こういち
 
1889‐1977
昭和時代の政治家。
明治22年7月18日生まれ。木戸孝正の長男。第1次近衛内閣の文相・厚相、平沼内閣の内相をつとめる。昭和15年内大臣に任じられ、天皇の側近として実権をにぎる。太平洋戦争末期には和平工作に尽力。戦後A級戦犯として終身禁固刑、30年仮釈放。「木戸幸一日記」をのこした。昭和52年4月6日死去。87歳。東京出身。京都帝大卒。

(以上、コトバンクより引用)

「昭和20年」 第一部12 木戸幸一の選択

敗戦の年の1年間の社会の動きをトータルに描いた戦争史の傑作。開戦直前、失敗に終わった山本五十六と高松宮の直諫の真相、グルー再登場をめぐる近衛文麿、皇太后などの戦争終結への動き、内大臣木戸の妨害行為などを描く。

(以上、内容紹介)

著者の鳥居民氏は膨大な資料を渉猟し、嘘や矛盾、空白を緻密に推論する独自の手法、つまり行間を読む達人の歴史作家、評論家。上記「昭和二十年」シリーズは鳥居民氏が1985年よりライフワークとして書き連ねている戦争史の名著。なかでも余り知られることのない宮中政治家の心理面に焦点をあて、「内大臣木戸幸一こそが戦争責任者である」と断罪しているところが興味深い。

「昭和15年内大臣に任じられ、天皇の側近として実権をにぎる。」

当時の天皇は帝国憲法下でも「立憲君主制」の立場を堅持して、輔弼(ほひつ、助言する意)である内閣が上奏する国策を裁可するだけだった。そして内大臣とは常侍輔弼者。内大臣木戸は常に天皇の側近にいて相談する立場を利用し、最終的に内大臣が国策を認可しなければ裁可されないまで権限を拡大した。以後、キングメーカーとして内閣を意のままに操っていたのだ。

「内大臣木戸の妨害行為」

帝国陸軍には皇道派(ソ連戦に備え支那との戦争回避)と統制派(挑発する支那への一撃、戦争拡大)の二つの派閥があり対立していた。そして、皇道派は二・二六事件を起こす。このとき戒厳令下で唯一天皇に勧告できたのが内大臣秘書官長木戸幸一だった。本来忠臣である皇道派を逆賊として天皇に進言したため皇道派は粛軍してしまい、統制派によって怖れていた支那事変が勃発した。

戦争責任とはいわずもがな日米開戦の責任である。対米戦回避のためには支那からの撤兵が第一だった。木戸は、もし撤兵すれば支那を一撃で終わらせると約束したのに泥沼化させた統制派の責任が問われるだろう、さらに二・二六事件で戦争回避の皇道派の一方的鎮圧を進言した自己責任にも及ぶだろうと考えた。保身のために学生時代からの友人近衛首相の撤兵工作を妨害した。そして東條陸相を首相にさせ、天皇を懐柔して「開戦やむなし」の対米開戦路線に乗せた。

木戸はなんとかなるだろうと思っていた日米開戦も戦況が危うくなると終戦工作をする近衛を心底憎み、妨害行為をする。今度は開戦責任を問われるからだ。そして終戦後はGHQに対して戦争責任を逃れるため、ウソデタラメの「木戸日記」を提出して近衛を自決に追いやるのだった。それはまた次回。自己保身という官僚体質が染みついた一人の宮中政治家によって日本人は300万余、アジアでも同等の人の命が奪われたこと考えるとその代償は余りに大きかったのではないか。


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2 コメント

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第二次世界大戦は (jet)
2009-09-12 16:51:28
何と言っても長年鎖国を続けた日本の海外交渉力の無さを暴露した結果だと思いますね。
今の北朝鮮と、当時の日本を比べると大人と園児位の差がありますね。
この海外交渉力の無さは、何とその後91年のバブル崩壊まで続く訳ですが、最近になってやっとその辺の実力が付き始めたかな?...という感じですね。キリンなんかはよくやってると思いますし.....世界制覇戦略はこれからですな!
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- (bibbly)
2009-09-12 18:33:58
この時代の外交なら何と言っても幣原外交でしょう。幣原の米英協調路線は、土下座外交、軟弱外交として陸軍、政財界、世論にまで非難されました。対中融和も結局は米英の不信感を買っただけでした。あと、国連脱退、三国同盟を締結した松岡洋右がいます。この人は特殊な人なので近々取り上げます。
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