にゃるほど・ざ・わーるど♪

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たまにせつないアラフォーな日々。

七月大歌舞伎 昼の部@歌舞伎座

2008年07月22日 17時39分59秒 | エンターテイメント

先週の夜の部に引き続き、今週は昼の部だが・・・
さしたるコメントがないところが正直なところ。

海老蔵っ、宙乗りすればいいってもんじゃないぞぉー!
正直、がっかりかな。
夜の部がいいだけに、大好きな演目だったので非常に楽しみにしていたのだが。

順番に話を進めよう。
「鳥居前」の静御前(春猿)、及び義経(段冶郎)がまずひどかった。
何か、こう、恋人同士に見えない。
静御前が遥々義経を追って来た、必死さも見られなければ、
一途さも見られない。
また、義経にしても、そんな静御前だからか、彼女に対する愛情が見られない。
一応さ~、恋人同士なんだから、少しは「ういよのぉ~、でも、困ったぞ」ぐらいの
演技はしてもいいんじゃないか?
で、中盤、芝居の引き締め役ともいえる弁慶(権十郎)がこれまたひどかった。
義経に仕える、忍とした貫禄がまるでなし。
そこへ、満を持っして佐藤忠信実は源九郎狐(海老蔵)が登場するのだが・・・
普通ジャン。
とても普通ジャン。
団十郎の台詞使いとは違っていたけれど、でもへんジャン。
なんか、こう、口跡がよくない。
まあ、物語の触りということで、ここではあまり期待もしていなかったのだが。

続いて「吉野山」。
玉三郎、綺麗である。
さすがです。
「鳥居前」の春猿の静とはエライ違いである。
ここが、歌舞伎の凄いって言うか、面白いところだよね。
通しでやっているのに、役者が替わっちゃうんだもの。
今月は文楽式らしいが、ごめん、そこまでよく見ていなかった。
っていうか、眠かったので集中できなかったのが本音。
ただし、「鳥居前」の忠信に比べ、「吉野山」の忠信のほうが凛々しく見えた。
要するに、台詞がなかったからなんだけれど(笑)

最後に「川連法眼館」だが、この時の忠信は良かった。
肝心の源九郎狐がヒドイ出来だと思う。
ヒドイ出来というのは語弊があるのかも知れない。
あの、型でやったのが間違いなのである。
この芝居は別にエンターテイメント性を求めている芝居ではないはずなのだ。
いつの頃からか、勘九郎(現:勘三郎)やら猿之助が
集客を求めて演出を派手にしてきただけなのである。
そもそもこの話は本当に切なく、事を荒立てずにシミジミとやったほうが
心に残る話なので、誰がなんと言おうと今回の狐にはがっかりさせられた。

「川連法眼館」を観る度に十数年前に三津五郎が八十助だったころのを
思い出すのだが、義太夫の節が切々と迫ってきて、それに合わせての
狐が本当に素晴らしかった。

もう一度言う。

宙乗りすれば、いいってもんじゃない。
バタバタすればいいってもんじゃない。
早替わりすればいいってもんじゃない。

もっと、初音(鼓)に対する源九郎狐を大事にしてほしいな。




Sisters@Parco劇場

2008年07月22日 16時03分11秒 | エンターテイメント

長塚圭史の作品にしては、グロテスクな場面がなかったな。
もともと、彼の作品は長いと感じるのだけれど、
それでも、いつもそれなりにまとまっていてなんとなく納得はしていた。
彼独特な虚構な世界観というか、非現実だけれどどこかに現実を
感じさせるというか、虚無感の中に一筋の光が見えるというか・・・

Sistersに、それが入っていないわけではない。
でも、いつもの圭史よりさらにダラダラな感じで重かった。
見ている途中で「面倒くさいな・・・」って思ってしまった。

重い芝居が嫌いなのではない。
むしろ、圭史の作品はいつも重い。
ただ、近親相姦の話にしても、所詮絵空事にしか感じられないのよね。

演出もどっかで見たような、あまり斬新なものではなかったし。
特に後半、舞台全体に水を入れ、その中に彼岸花を流すという趣向。
明らかに蜷川さんの演出技法でしょう~
しかも、水を流すことによる演出の意図が薄いっ!
ちっとも、エロチックじゃないし、水と彼岸花の関係も非常に安易。
Parcoだから好きにやらせてもらえました感が客席に伝わって
虚しく感じたのは私だけ?

もっと言っちゃえば、松たか子はあまり適役じゃなかったな~
精神的に一線を越えちゃった感がないし、もしくは超えた力強さも見えなかった。
全ての過去を捨てきれない一人の若い女性に見えない。
ま、圭史の作品自体、女性を理想化しているところがあるので、
どうしても女性の役に違和感を感じるのは毎度のことなんだけれど。

鈴木杏はよくやった。
吉田鋼太郎が相手とはいえ、父親役との近親相姦だもの。
事務所があの役でよくOKしたよ(ホリプロ、エライぞ!)

同じ家族の肖像劇にしても昨年末の「ビューティ・クイーン・オブ・リナーン」は
凄かったと思うし、彼の演出の才能を改めて見直した作品だった。

才能がある数少ない若手(?)作演出家だと思うので、
イギリスに行って、一皮も二皮も剥いて帰ってきて欲しいな。

圭史、楽しみにしているぞっーーー♪



 


七月大歌舞伎 夜の部@歌舞伎座

2008年07月14日 18時21分23秒 | エンターテイメント

今月の夜の部は鏡花づくしで典型的な様式美の歌舞伎とは少し違った趣向ではあるが、玉三郎の美意識を堪能するには充分に価値ある舞台と言えよう。

とは言っても、鏡花の作品自体に派手々々ところはないので、今回の舞台も構成や、衣装等にきらびやかさはなく、どちらかと言えば地味な作品とも言える。
ただ、鏡花の作品であるからには、台詞の一つ一つが「美」であるが故、役者の美的感覚と素質に頼るところが存分にありえると思える。

そこでだ。

あまりはっきりと書きたくはないのだが、やはり澤瀉屋一門の「夜叉ヶ池」には多少なりの抵抗とムリがある。
もちろん、個々の役者の成長は伺える。
春猿の台詞はずいぶんと聞きやすくなったし、容姿だけではなく所作にも玉三郎を意識した努力は見られる。
見られるのだが、なんか、こうパッとしないんだなぁ~。
ほんのちょっとした箇所に「雑」を感じて、彼の美意識レベルがまだまだ足りないと思ってしまうのだ。
ただ、これは春猿に限らず、(市川)右近しかり、段治郎しかり、笑三郎にしかりだ。
努力は見られるのだが、鏡花の世界にはしっくりとこないというのが正直な気持ち。
スーパー歌舞伎で培った、派手な動作(所作)が出来ない分、内面から見せる演技はまだ難しいのだろう。

賛否両論だと思うが、海老蔵はやはり稀代な役者だろう。

あくまでも役者としてね。

感覚的なものだと思うのだが、玉三郎の意図する美意識についてこられる役者は今は海老蔵しかいないのではなかろうか。
名コンビと謳われる仁左衛門は玉三郎の美学に合わせることは出来る。
ただ、本当に趣旨を理解した上ではない。
結果や経験をつんでいるからこそ、仁左衛門は玉三郎を信じ、玉三郎の美学に付き添える感がある。
それが仁左衛門と玉三郎のコンビは最強と云われた所以である。

海老蔵は個人的にかつての破滅的な思想を含め、鏡花の現世でもない、幽玄でもない世界を理解できているように見える。

今月「高野聖」はまさにそんな舞台であった。

個人的に精進しているのか、お父上の病状が気になるのか、今月の海老蔵は特にしおらしい(笑)。
しおらしいが故に、宗朝という役に納得がいくのである。
玉三郎にとっては積年の願いであったのだろう。
いつか、海老蔵と「高野聖」をやりたかったのに違いない。
「海神別荘」をやった時期の海老蔵では早すぎる。
かといって、これが5年後に初演では宗朝の煩悩にゆれる初々しさを演じるのには難しかったかもしれない。
今がまさに丁度と言った感があるし、このタイミングで上演にこぎつけた玉三郎の審美眼にはやはり脱帽するばかりである。

あと、特筆するべきは(尾上)右近の存在であろう。
初舞台から天才か!と思えるほど踊りが上手で芝居に対するカンも鋭く、本当に有望な彼だが、一時期かなり太っていた(笑)のが残念だった(もともとちっちゃい時からプックリな感じで、そこがまた可愛かったのだが)
それが、今月は見違えるほどスリムになっており、これまた心身的に病弱という役柄(笑)を違和感なくやってのけた。
それどころか、かなりの美声の持ち主だということも判明。
まあ、父上が延寿太夫だから、当たり前といえば当たり前なのかもしれない。
いや、でも血筋以上のものを感じるのは私だけではないだろう。

これからも、もっと色々な人の下でお勉強して素直に育っていって欲しい役者であるのは間違いない。


山桜

2008年07月10日 21時01分48秒 | エンターテイメント

以下、Yahooユーザーレビューに書いたコメント。

**************

映画の「山桜」は原作では描かれなかった
物語を補うかのように、
四季折々の風情を織り交ぜて進んでいく。
藤沢周平の原作「山桜」には余分な描写はない。
簡素的ではあるが人物の微妙に揺れ動く心情を
実に丁寧に書かれている。
映画はその原作の楚々とした清らかさを壊すことなく、
静かに人の心を打つように出来ている。

主演の東山紀之と田中麗奈は「山桜」のように自然で
毅然としており、清々しい立ち振る舞いで心に残る。
東山は日本刀のような鋭さを持つ反面、
なだらかでどっしりとした山のような包容力で手塚を
演じきり、田中の野江は山桜のような奥ゆかしい
華やかさの中にも、嫁した女性の落ち着いた存在感が光った。
運命的とも言える出会いの中で、二人は初恋にも似た
せつない情意の中に、一本、筋の通った烈々な感情を
山桜に託すのである。
原作での「取り返しのつかない回り道」という文面が
映画では「ほんの回り道」と変えられていたが、
どちらも手塚と野江の言葉に出来ない気持ちを
素直に表現するのにはぴたりと当てはまるのではないだろうか。
厳しい大自然と不条理な時代の流れの中で、
やがて二人の想いは、あの山桜のある一本の道へと
辿り着くのである。

映画はまたいつしか散り行く桜の潔さ、木々や風の香り、
雪解けの川のせせらぎや力強くゆるぎない
山を余すところなく映し出し、まるでその場に
居合わせているような錯覚さえも覚える。

最終場面、季節は新たに春が廻り、うらうらとした穏やかな日差しが今後の二人の行く末を暗示しているようで良かった。

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