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第166回古都旅歩き創作 「夏休み」

2017-08-10 15:06:49 | Weblog

第166回古都旅歩き 創作

 「夏休み」  作 大山哲生

私が小学校三年生の時のことである。

七月二十日。

 終業式が終わって、家で昼ご飯を食べていると表の広場からみんなの遊ぶ声が聞こえてくる。そうなると、気持ちはそわそわして昼ご飯どころではなくなってくる。食べ終わるやすぐに広場に行ってみんなと遊ぶ。明日から夏休みだ。みんな心なしかうきうきしている。

 しかし、私は浮かれているばかりではなかった。夜になると夏休みの宿題をどう片付けていくかの計画を立てた。

 夏の友という薄い問題集が四十ページほどあるから、これをなんとか七月中に半分くらいは終わらせる。工作は『そのうち』にすることにする。写生は、近所の友だちといっしょに『そのうち』することにする。読書感想文は、たぶん休み中に一冊くらいは本を読むからそれから書けばいい。

 私は安心した。なあんだ、一見たくさんありそうに見える宿題であるが、七月中にできそうなものが多い。 

 夏休みは毎朝、六時半からラジオ体操がある。町内の子どもは、子ども会会長の家の前に集まる。そこのおばちゃんがラジオを軒先にだしてくれる。ラジオ体操の歌はみんなで歌う。そして放送に合わせて体操する。めいめい首からカードを下げている。体操が終わるとそのカードに「出」というはんこを押してもらう。

ラジオ体操が終わった後に恵子ちゃんが、

「今日から、みんなで勉強会せえへんか。みんなで教えあいをしたら夏の友なんか七月中に終わるえ」と言った。私は恵子ちゃんはえらいと思った。私の考えていた計画よりすごい。

 うちの班の子どもは五人。みんなで恵子ちゃんの家で勉強することに決まった。

 朝ご飯を食べると私は恵子ちゃんの家に行った。恵子ちゃんの家は狭い。そこにちゃぶ台を二つならべてめいめい夏の友と筆箱をおいて勉強をし始めた。狭いから隣の子がどこで困っているかがすぐにわかる。すぐに隣の子が教える。こうやって教えあいをすれば、どんどん進む。

 一日目は、二ページも終えることができた。この分では七月中に最低でも半分はやってしまえる。私たちは大いに盛り上がった。

 次の日も同じ子どもが同じ家に集まった。私は、国語の漢字がどうしてもわからない。誰かに聞こうとしたがみんなわからないらしい。一時間もすると、私は勉強に飽きてきた。肇ちゃんは本棚にあったマンガを取り出して読み始めた。恵子ちゃんは少女クラブを読んでいる。ひろっちゃんとまあちゃんは、部屋の隅においてあったコリントゲームで遊び始めた。それを見て私も少女クラブの別冊付録を読み始めた。

 要するに皆勉強をやめて好き勝手なことをし出したのである。異様な静けさが部屋を支配した。

 そこに、恵子ちゃんのおばちゃんが買い物から帰ってきた。

「これこれ、みんな何してるんや。宿題もせんとマンガ読んだりして」とあきれ顔で言った。

 みな、はっと我に返って夏の友に向かったが、すでに集中力は切れていた。

「そしたら、あとは明日にしよか」と恵子ちゃんが言った。

 この日にやったのは半ページほどであった。

 夏休み三日目。

 体操が終わったあと恵子ちゃんが、

「今日は勉強会はなしや」と言った。

 仕方がないので、私は自分の机に夏の友を広げた。簡単なページもあるが算数はやたら問題数が多い。なんとか、算数のページを終えてページをめくると次は国語だ。

 一番目は『こい』の反対語を書く問題だ。私は、こいというと魚のこいしか思い浮かばなかった。鯉の反対語ってなんだろう。鯉が大きいなら反対は小さな金魚かメダカか。なんか変だ。ひょっとすると、これは「恋」の反対語のことではないか。「恋」の反対語は「きらい」か。ちょっとませてるかな。私は壁に突き当たった。後でわかったことだが、この問題は「濃い」の反対語を書かせるものだった。しかし、町内の子どもは私も含めて、全員「濃い」とは言わず「こゆい」と発音する。だから「こい」という言葉自体が得体の知れないものであったのである。

その時、表の広場から、みんなが遊んでいる声がした。

 私はすぐに出て行った。行ってみると、みんなで虫の見せ合いをしている。カブトムシを持ってる子は一番威張れる。クワガタムシを持ってる子は二番目に威張れるのであった。 

 別の子は、カナブンに糸をつけて飛ばしている。結局、その日はそれ以上勉強はしなかった。

 その日を境に私は毎日、朝から晩までひたすら遊びほうけた。ラジオ体操が終わるとひとしきり遊び、朝ご飯を食べるとまた外に出て行って遊ぶ。昼からは班の子どもと稲荷山にいったり、近所の幼稚園の開放プールに行ったりする。晩ご飯を食べると、またぞろ子どもが集まって床几に座り、花火をしたり怪談ごっこをしたりした。宿題のことなんか、思い出しもしなかった。

 八月のお盆はなんとなく家の中が華やぐ。普段食べられないようなまんじゅうやブドウ、まくわうりなどが仏前に供えられるからだ。私は、そのお下がりを早く食べたくて仕方がなかった。

 そして、八月二十四日になると京都の風物詩の地蔵盆がある。地蔵盆になると、地蔵菩薩を祭った小さな祠の前のお店や空き家が開放され、少し広い土間にござがしかれる。

 町内の子どもたちは、全員朝から晩までそこに集まって、ござの上で日がな一日遊んで過ごす。将棋をしている子どももいれば、トランプをしている子どももいる。家からマンガを持ってきて読んでいる子どももいる。午後になるとおやつの袋が配られる。夜は、映画会や福引きがある。私が見た映画は赤胴鈴之助だった。地蔵盆は、子どもにとっては楽しい楽しい夢のような時間であった。それが三日間も続くのである。

 地蔵盆が終わると、なんだか急に寂しくなる。それは夏の終わり、いや夏休みの終わりを意味していた。

 地蔵盆が終わった次の日、さすがの私も宿題が気になり出した。久しぶりに夏の友を開いてみると、八ページしか終わっていない。あと三十ページ以上残っている。

 八月の二十七日からの五日間は地獄のような日々であった。午前中は、母親が横につきっきりであったし午後も宿題に追われた。夜は明治生まれのこわい父親がつきっきりであった。私は泣きべそをかきながら鉛筆を動かした。夏の友は薄いように見えたが、やってもやっても終わらないのだった。

 写生は班の子ども全員で伏見稲荷大社に行った。稲荷さんの境内は人がおらず閑散としていた。土産物屋のほとんどは店を閉めていた。当時の稲荷さんは子どもの遊び場で、時折子どもが走りすぎていく。写生には近所のおばちゃんが二人ついてきてくれた。

暑い日であった。私は本殿の横の少し高くなった石段に腰掛けた。ここは木の影になって涼しい。私は朱色の建物を描き始めた。上手な絵を描いてみんなを驚かせてやろうと思い、一生懸命に絵筆を走らせた。

途中まで描いたとき、鳥の糞が画用紙にぺたっと落ちてきた。糞は緑色をしていたのでそのまま木の葉っぱに塗り込んだら、全然違う色になった。私はきちんとふきとらなかったことを悔やんだ。それを境に描いている絵への思い入れが急に失せてしまい、あとはただ機械的に色を塗るだけになってしまった。

そして、なんとか一枚の画用紙を絵の具で埋めることができたのであった。

 読書感想文も気になっていた。母親は二百ページもある「日本神話」を勧めた。「そんなん無理や」と私は言った。二冊だけもっていた童話全集の中に非常に短い物語を見つけた。「ほらふきだんしゃくの大冒険」という物語である。四ページと短い。母親はもっと長いのにしなさいと怒ったが、「ほらふきだんしゃくにする」と私は主張した。

あらすじを原稿用紙一枚半くらい書いて、感想は原稿用紙半分くらい書いた。たったこれだけの感想文であったが、貴重な半日を費やしたのであった。

 八月三十日。私は工作のことを思い出した。

 工作は、兄がアイデアを出してくれた。信号機に三色のセロファンをはって三つの豆電球を取り付ける。そこからそれぞれエナメル線を引っ張って釘に結びつける。電池のプラス側をそれぞれの釘にくっつけると好きな色の信号機が点灯するというものであった。

 私は近所の模型屋に行って材料を買ってきた。それを兄が組み立てた。しかし、半田付けなんて便利なものはないから、エナメル線を釘に巻いたり、線を電池に直接くっつける。セロテープなんて便利なものはさらにないから、薬箱からべたべたの絆創膏を出してきて、それを切って線を電池に貼り付ける。こんな調子であるから、接触不良で豆電球がつく時とつかない時があったのである。

 完成したのは八月三十一日の夜の九時過ぎであった。

 九月一日、始業式の日。

 私は宿題をひとつずつ点検しながらカバンにつめていった。絵と工作は風呂敷で包む。私がなにげなく信号機を触ってみると、豆電球がつかない。

「豆電球がつかへん」と私は泣きべそをかいた。兄も姉もすでに登校していた。母親は、

「大丈夫。持っていきなさい」といってごそごそ触るが点灯しない。母親も少々あせっていたと見えて、不器用な手でいろいろと触っている。

「これ、つかへんし持っていかへんわ」と私はすねて泣いた。母親は困った表情をしていた。

 結局、信号機は持って行かなかった。

 登校するとすぐに運動場に出て整列する。私は三年だから、一番校門に近いところに並ぶ。まず、校歌を歌う。次は校長先生の話だ。私が校長先生を見るのはこういう式の時だけだった。

 そのとき、「大山」と小声で呼ぶ声が聞こえた。振り返ると同じ班の肇ちゃんが横を指さしながら言った。「おばちゃんが来てるで」

私がその方向を見ると、母親が信号機を持ってきていた。

母親は弾んだ声で「てっちゃん、ついたよ」と私を呼んだ。私は少し恥ずかしかったが、涙が出るほどうれしかった。実は、始業式が終わると教室で宿題を提出しなければならない。そのとき工作はと聞かれたらどうしようと心配で仕方がなかったのである。

 私は列を抜けて母親のところに駆け寄った。

「てっちゃん、ついたよ」と母親がもう一度興奮気味に言った。

皆が見ているので照れくさいのもあり、私は「ありがとう」を言うことができなかった。「うん、わかった」と言って信号機を受け取った。

 私はあわてて列に戻ったが、内心ほっとしていた。これで提出すべきものはすべて提出できる。その後の校長先生の話は上の空であった。

 始業式の日は昼前に学校が終わる。

 家に帰って昼ご飯のお茶漬けを食べた。私はほっとした。約四十日間、私の身も心も縛り付けていた『夏休みの宿題』という恐怖の大魔王から、完全に解き放たれたのである。

 私はうれしかった。これで今日から心置きなく遊べる。表の広場ではみんなの遊ぶ声が聞こえてきた。私は、お茶漬けをかき込むと、広場の方に走っていった。

 あれから、六十年経つ。母親にはとうとうありがとうが言えなかった。そのことが心残りである。

 しかし思い返してみると、小学校中学校の九年間、私は経験というものから何も学習せず夏休みのたびにこういう『惨劇』を繰り返したのである。

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