「奇妙なクラス」 ~古きや今や拾遺物語より~ 作 大山哲生
私が中学三年の時の話である。
私の通っていた深草中学は三年に上がるときにクラス替えがある。私は三年一組になった。
始業式のあと、一組の教室に入ると私のように心細そうにしている者が多かった。
新しいクラスには、ラジオ作りの友人は一人もいなかった。私は少しがっかりしたが、このクラスでやっていくしかないとあきらめて教室の中を見回した。
よく見るとひときわ大きな声で話しているのが橋本君だった。
橋本君とは一年の時に同じクラスだったが、特に仲がいいというわけではなかった。一年の時の担任がなんでも自分できめてしまうので、橋本君らと「反対する会」を作ったことがあった。
その橋本君が同じクラスだったので少しほっとはしたが、しかし親しく話すわけでもなかった。
一ヶ月もすると、私はクラスにも慣れてきた。登校すると話をする友人くらいはできた。
三年はというのは高校入試を控えてどのクラスメートもなんとなくぴりぴりしている。
私も例に漏れず、勉強をしなければと言う気持ちだけが空回りしていたのであった。
五月に修学旅行があった。修学旅行は班行動であった。橋本君は班長でその班には加藤君や平田君がいた。
橋本君、加藤君、平田君は、修学旅行が終わってからもグループ行動をするようになった。加藤君は小柄だが弁が立つ。平田君は柔道部で体が大きく威圧感がある。
彼らは、授業に遅れてくる、カンニングをする、休み時間は体育館の裏でたむろするなど、しだいに不良グループのようになっていった。
二学期になると、いよいよ受験勉強や模擬テストに忙しくなってきた。
十月のある日、転校生がやってきた。南君である。
南君は前の学校では剣道部に入っていたらしく、スポーツ万能であった。
転校してきた当初は、南君とはよく話したがやがて彼は橋本君のグループと行動を共にするようになっていった。
橋本君らが授業に遅れるときは必ず南君もいっしょで、先生から注意を受けることがおおかった。
その頃、私は北川君と話すことが多くなっていた。北川君は、休み時間は静かに本を読んでいるような人間であった。北川君は私より勉強もよくできて常にクラスで一、二番という秀才だった。
橋本君の不良グループは、リーダーの橋本君の他、加藤君、平田君、南君が固定メンバーとなり、南君は今や橋本君に次ぐナンバー2の地位を占めていた。彼らはクラスの鼻つまみであったが、意見する者は誰一人いなかった。
年もあけた一月。
ある日、北川君が本を読んでいるところに私が行くと北川君が顔を上げて、
「南君は平田君に殴られる。それで南君は、グループを抜ける」と言った。
「そんなことなんでわかるんや」と私が聞くと、
「ぼくには見えるんや」と薄笑いを浮かべながら北川君は言う。
私は、北川君というのは本当に不思議なやつだなと思った。
2月24日、登校するとクラスがざわざわしている。北川君が私のそばに来て、
「大山、昨日南が平田に殴られてけがしたらしい。ぼくの言ったとおりやろ」と言う。
次の日、南君は目のまわりにあざがある顔で登校した。それは痛々しいほどだった。
北川君の言ったとおり、南君は橋本君のグループとは一切話をせずに完全に行動が別になっていた。南君が一人ぼっちでいるので、女子の沢本さんが声をかけにいったほどだった。
やがて、私たちは深草中学を卒業した。
あれから、50年たつ。橋本君や南君がどうしているのかはわからない。
あのとき、北川君の予言がなぜあたったのか不思議に思いながら、卒業アルバムを開いてみた。
あっ、名前だ。彼らの名前。
橋本勇、加藤歳三、平田総司、南敬助。
これはまるで新撰組ではないか。『近藤勇』『土方歳三』『沖田総司』『山南敬助』。
昔、山南敬助は脱走した罪で近藤から切腹を命じられ、そのとき介錯したのが沖田総司であった。
同じようなことが、あのクラスで起こっていたことに私は愕然とした。
おまけに、南君が殴られた2月23日は、山南敬助が切腹した命日なのであった。
先日、同窓会のパーティがあり、平田君と50年ぶりの再会を果たした。
平田君は、頭がはげ上がり貫禄がついていた。
私は彼に中学三年の時に、南君を殴ったことを尋ねてみた。彼は言いにくそうにしていたが、絞り出すような声でこう言った。「あれは頼まれたんや」
誰に頼まれたのか、私はそれ以上は聞かなかった。
思い出はきれいなままとっておきたかったから。
ただ、彼の視線の先に秀才がいたのを私は見逃さなかった。