小説「弘子」 作 大山哲生
私が大学の三年の時のことである。
私は、そのころある女子とつきあっていた。名前を望月弘子といった。
私は、史跡同好会というサークルに入っていた。毎週土曜日の午後に、京都や奈良の史跡を訪ねてあるくのが目的であった。
私が、なぜこのサークルに入ったかというと、女子が多いからであった。全部員数百五十名あまり、うち半数が女子であった。サークル単位でうごくことは無理なので、六つのグループに分かれる。私が三年生の時に、グループリーダーをやった。その時にサブリーダーを買って出てくれたのが望月弘子であった。
私と弘子は、はじめは単なる事務連絡をするだけの間柄であった。弘子はなかなか細やかな配慮をしてくれる。私が、方針で迷ったりすると、それとなくグループ員の声を伝えたりしてくれるのであった。
三年の夏が過ぎたころから、私は望月弘子を意識するようになった。私のよき理解者である望月弘子がかけがえのない運命の女性に思えてきた。私はある日デートに誘ってみることにした。
約束の喫茶店に弘子はいた。私は高鳴る気持ちを抑えつつ平静を装っていろいろな話をした、特に弘子はお音楽が好きで私と話があった。
その後も、何度か弘子とデートを重ねた。
大学四年になって、グループリーダー、サブリーダーの役を離れると私たちはより親密になっていった。デートでも手をつないで歩ける仲になっていったのであった。
その年の十二月、二人とも就職の内定を得て、晴れ晴れとした気持ちで、上賀茂神社でデートをした。上賀茂神社は京都の北にある。冷たい風の吹く寒い日であった。
弘子は買ったばかりという、ベージュのダッフルコートを着ていた。
二人並んで、本殿で頭を下げた。
「祐二は、何をお願いしたの」
「えーと、これからも元気でありますようにって」
「それだけ?」
「「それと、風邪をひきませんように」
「それだけ?」弘子はいたずらっぽい目で私を見上げて言った。
「えーと、それから弘子といっしょにいられますようにって」
「よかった。私もね、祐二といっしょにいられますようにってお願いしたの」
「ぼくら、気が合うんやな」と私は照れ隠しに言った。
「ねえ、来年の十二月にもう一度会わない?」と私は言った。
「いいけど」
「ふたりとも、来年の四月から就職するやろ。だからその年の十二月に会って、お互い近況報告というのはどうかな」
「わかった。今日が上賀茂神社だから、次に会うのは下鴨神社ね。祐二、就職して落ち着いたら電話ちょうだいね」
「うん、弘子も落ち着いたら電話くれるとうれしいな」
こうして、大学時代最後のデートを終えた。
翌年四月から、私は大阪府で教師として働き始めた。弘子は、京都の企業で働き始めた。
教師の仕事は思っていた以上に忙しかった。日曜日は、女子ソフトボール部の試合引率もあった。
目の前の生徒のことで頭がいっぱいになり、弘子のことは少しずつ遠い思い出になりつつあった。私は弘子に電話をしなかった。弘子からも電話はなかった。
その年に、新任の山里有希とつきあい始めた私は、明くる年の三月に結婚した。
その後子宝にも恵まれ、ますます教師としても仕事に打ち込む日が続いたのであった。
私は、教頭、校長と昇進し、四年前に定年退職した。
ある日、テレビのレポート番組を見ていると、下鴨神社に毎日来ている元気なお年寄りというレポートがあった。
私は、画面をぼうっと見ていたが、そこに出てきた女性を見て驚いた。弘子ではないか。まちがいない。テロップには【望月弘子 六十四歳】とあった。
「毎日、来られているんですか」とレポーターが聞く。
弘子が答える。「ええ、この場所に毎日通って四十年になります」
「へえ、ずいぶん続いたものですね。なにか理由があるんですか」レポーターが聞く。
弘子は「別にたいした理由はありません」と答える。
「でも、四十年ですよ。なにかわけがあるんでしょ」さらにレポーターが聞く。
弘子は、ややあってためらいがちに答えた。
「若い日に彼との再会を約束した場所ですから」