「嵯峨天皇のみ代の話」~古きや今や拾遺物語より~ 作 大山哲生
今は昔、嵯峨天皇、弘仁のみ代のことでございました。
桓武帝のみ代に遷都された平安の都は大内裏の建物も整い、町にも賑わいが出てまいったのでございます。
嵯峨帝は、都の整備が進んでいく様子をご覧になり大変お喜びになっておられました。
先代の平城天皇(へいぜい)は、病が癒えず嵯峨天皇に譲位なされ、平城上皇として奈良の平城京に戻られました。
天皇になられた嵯峨帝は、あることがきっかけで、平城上皇と対立するようになりましたました。
ついに、平城上皇は平安京を廃して平城京を遷都する詔勅を出されました。嵯峨帝は大変動揺されましたがこれを拒否なされ、双方の対立はますます激化していったのでございます。
嵯峨帝は様々な手段を駆使なされ、ついに平城上皇方を屈服させたのでございました。
平城上皇は出家され、上皇方についていた藤原薬子は毒をあおり、藤原仲成は射殺されました。
これは、今までにないほどの大きな出来事で、嵯峨帝もかなりお疲れになったようでございました。後に言う薬子の変でございます。
また、朝廷には皇子や皇女が多く、そのことが財政の逼迫の一因にもなっていたのでございます。そこで嵯峨帝は臣籍降下を進められました。臣籍降下とは、皇子や皇女に姓を与えて皇籍を離れさせることです。
このとき、与えられた姓の一つが『源氏』であり、嵯峨源氏と呼ばれるようになったのです。
嵯峨帝は漢文や漢詩を大変お好みになり、嵯峨帝自身も漢詩をお作りになることがよくございました。だから、嵯峨帝は、中国の名前にちなんで平安京の左京(朱雀大路から東側)を『洛陽城』、右京を『長安城』とお呼びになりました。
時が経つにつれ右京は桂川の度重なる氾濫などでさびれていき、左京の洛陽という呼び方だけが残っていきました。
今でも京都のことを『洛陽』、または『洛』と呼ぶのは、こういういわれがあったのでございます。