第31回京都旅歩き ラストミッション
「一休和尚の思い出」~『古今拾遺物語』より~ 作 大山哲生
私は一休禅師の弟子です。
此度、和尚が八十八歳で亡くなられました。
和尚は、この酬恩庵でいくら修行をしても印可状は書かないと言われていました。印可状とは修了証書で、一人前の僧侶であるという証です。
でも、私たち弟子は一休和尚の元で修行を積みました。たとえ、印可状を出されなくとも、あの方といっしょにいるだけで心地よかったのです。一見破天荒に見えましたが、禅の教えを体現されている方でした。
和尚の行動はたいていのことには慣れっこになっていましたが、今から十五年前に住吉に行ったときに見初めた若い盲目の女性を酬恩庵に連れてこられた。そして「これから一緒に住む」とおっしゃったときには、驚くと同時に弟子一同快哉を叫んだものです。驚きを通り越して痛快でもありました。
寺のしきたりや戒めごとなどどこ吹く風という生活でしたが、弟子としては見ていて人間味あふれるおもしろい和尚でした。
一休和尚二十六歳のときに悟りを開かれて当時の禅師から印可状を書くと言われたのを固持されたことは聞いていました。
このことを聞いたときには、不思議な坊さんがいるものだと思いましたが、一休和尚の元で修行してみるとこの和尚ならなにも不思議なことはないと思うようになりました。
和尚の機嫌の良いときに、どういうことを悟られたのですか、と聞いたことがあります。
そうしたら、「悟りなどどうでもよいということを悟ったのじゃ、ワッハッハ」とおっしゃいました。
私たち弟子は仏道を極めるため悟りを開かんと修行をしているのに、悟りなどどうでもよいという言葉の意味がわかりませんでした。
私なりに考えた和尚の悟りとは次のようなものです。
『和尚が座禅を組んでいるときにカラスが鳴いた。カラスは見えなくともそこにいる。仏も見えなくとも心のなかにある。ならば無理に悟りを得る必要もないのではないかということを悟られた』と。まさに禅で言う即身成仏の境地を開かれたと思います。
和尚の読まれた次の歌にその境地が現れているように思うのです。
『南無釈迦じゃ娑婆じゃ地獄じゃ苦じゃ楽じゃどうじゃこうじゃと言うが愚かじゃ』
結局、私はそういう境地にはなれませんでした。
和尚八十一歳のときに、天皇から綸旨が届き、大徳寺の住職になられました。
京都で大きな戦乱が続き大徳寺が荒廃してしまったので立て直せということだったようです。
一休和尚は、堺に行かれました。和尚は人々には大変人気がありましたから、堺の町で商人などが次々と寄付をしてくれました。
五年後に大徳寺の法堂が落成しました。
このときの疲れが出たのか、その後はすっかりと元気がなくなっておいででした。
死ぬ間際に言われた言葉は「死にとうない」でした。いかにも和尚らしい最期でした。
でも、私は知っているんです。
天皇とか身分とか名声とかに反抗し、野僧として生きてこられた一休和尚ですが、大徳寺住職の綸旨が届いたときはどことなくうれしそうでした。
そういうところをお隠しにならないところが、和尚の魅力でありました。私たち弟子は和尚のそういう人間くさいところに惹かれてここまでついたきたといっても過言ではありません。
私は、一休和尚の元で修行できたことを全く後悔していません。むしろ、あの方の人格を触れることができたのは私の中では大きな宝となっています。
これから、人々に一休和尚の残されたことを語り継いでいこうと思います。
一休和尚、ありがとうございました。