オリーブ園を後にしたバスは、いよいよ「二十四の瞳映画村」に向かった。
今回の私の小豆島旅行の目的である「あの場所」が、あわよくばバスの窓から見えないだろうか・・・などと思いながら、私はバスの窓の景色を見続けた。
ワクワク感と、「もし見れなかったら」という不安と、なぜか軽い緊張感までが私の心に去来し、気もそぞろ。
そんな私を乗せたバスは、勾配の道を降り、海ぞいの道を走り、進んだ。
海沿いの道では、私は絶えず海の方を見ていた。
「あの場所」が見えないだろうかと思い。
「あの場所」は決して観光スポットではない。バス・・いや、観光客はおろか、地元人すら行かないような場所。
なので、「あの場所」が見える場所でバスが停まってくれるはずもない。
地元人や、普通の観光客にとっては、ある意味「どうでもいい場所」なのかもしれないから。
こうなったら、走るバスの窓ごしに一瞬だけでも見れれば、最悪でもよしとするしかないのかもしれない。
だが・・いっこうにそれらしき風景は見えてこなかった。現われてくれなかった。
そうこうしているうちに、バスは「二十四の瞳映画村」の前の駐車場に着いた。
↑ 二十四の瞳映画村、入口。 このエリアから、「あの場所」が見えるはずなのだが・・。
まだ望みはある。
本で調べた情報によると、「あの場所」は「二十四の瞳映画村」から見える場所にあるという。
しかも、校庭のあたりから見えるという。
ここまでバスが走って来た道には、まだそういう場所はなかった気もする。
ならば、実際に「二十四の瞳映画村」に降り立ち、そこで「あの場所」を探してみよう。
だが、どうにも不安もあった。
以前・・・もう何年も前だ・・・実際に小豆島の観光案内所に電話して問い合わせた時には、「あの場所」に行く一般的な手立てはない・・と教えてもらった。
また、今回宿に着いた時にも、フロントのスタッフに「あの場所」に行く手立てを、念のために問い合わせてみた時も、「あの場所に行く手立てはありません。」と教えてもらった。
まだ諦められない私は、その観光バスを降りた時に、バスの運転手にも聞いてみたが、バスの運転手は「あの場所」の名前すらよく知らないようだった。
そこで、今度はこの瞳映画村の入り口で、係員に聞いてみた。
すると、「あの場所」にはあまり関心がないようだった。
まあ、後から考えれば、それも仕方ないのだが。なにせ場所が場所だけに・・。
「二十四の瞳映画村」では、このツアーの昼飯タイムも兼ねていたので、1時間くらいの滞在時間はあった。なので、その1時間が勝負。
このために私は小豆島にきたのだ。はるばる。
昼飯をとるのは二の次。空腹が、なんだ。この際、そんなのどうでもよかった。
まずは、「あの場所」を見つけたい。
村内には、昭和の雰囲気を残す店などが立ち並んでいた。
↑ 昭和の映画村・・・という雰囲気の映画村だ。レトロで、いい感じ。
↑ 旗本退屈男の看板が。木造の建物が、目に優しい。 心にも優しい。
私は映画村内での食事処をほとんど気にもせず通り過ぎ、ともかく海辺を目指した。気持ち、早足だったに違いない。
「あの場所」は、少なくても「映画村」の入り口付近の海には、それらしきものは見つからなかった。この時点で、私の中にはややあせりにも似た思いがあった。
↑ ともかく、まずは「あの場所」を見つけたい。思いは、それひとつ。ダッダッダッ・・地面も階段も早足で、私は海岸を目指す。シャッターは、切りながらも。
↑ ともかく早く海岸へ行ってみようと思った。ダッダッダッ。地面を踏んで進む私の足音。
↑ さあ、問題の(?)分教場の建物の前にまで来たぞ。写真には写っていないが、この写真の右側には海岸が見えていた。さあ、もうすぐだ!
なので、私は「映画村」を突っ切って、映画村の奥にある分教場の脇を早足で抜け、その先にある海を目指した。ここは映画村の一番奥だ。
そこには海が広がっていた。
ここで「あの場所」を見つけられなかったら、もう打つ手は無しだ。
望みは、この先の場所が一番可能性がある場所であるということ。そこに、望みを託した。
もう、ここしかないのだ。ああ、神様。私の今回の小豆島旅行を、空振りに終わらせないでください。
早足で進みながらドキドキした。
で、分教場の前の広場を突っ切り、その先に広がる海が見える場所に出た。
波よけらしき堤防みたいなものがあり、少し高くなっていた。
早足は駆け足になり、私はそこに上がり、青空に包まれた海原を見渡した。
すると・・
私は思わず大声をあげた。人目も気にせず。
「あっ!! あった!! あれだ、あれだ!!!」
と。
見えた。いた。あった。
「あの場所」は・・あった。目の前に姿を現してくれた。海の向うに。
↑ 分教場前の校庭の向こうに海が広がり、そしてその海の先には!!
↑ 私の記憶の奥底から、現実世界に蘇った無人島、福部島。あれがそうだ!
・・感動した。
色んな思いが交差した。何十年分もの思いが。
感無量の言葉が、思いにつぶされそうだった。
島だ。
ここで初めて明かすが、この旅行記で「あの場所」と書いてきた存在とは島なのだ。
しかも無人島なのだ。小さな。
一見、何の変哲もない、ただの無名な無人島だ。だが、私にとっては特別な存在なのだ。
↑ 無人島、福部島。 なんか、可愛い外観。そうは思いませんか? ともあれ、これこそ私が見たかったもので、この旅に出た目的だ。
この瞬間、この旅行は私にとって大きな意味を持つ旅行になった。
来てよかった。
今回の旅先に小豆島を選んだのは、その無人島をこの目で見ておきたかったからだ。
こここそが、今回の私の旅行の目的であり、クライマックスであった。
このために、来たのだ。
「あれだ・・。やっと来れた・・。」
「ついに・・・・、この目で見ることができた」
「小学生の時から・・・ここまで、ずいぶん長い時間がかかったなあ・・」
「あれがそうなんだね・・・」
と、思わず独り言を言いながら、私はしばしその場に立ちつくした。
目の前の無人島を凝視しながら。万感の思いで。
ただただ、感慨深かった。
何年、この日を待っただろう。
初めてこの島の名前を知ってから、何十年という月日が過ぎ去ってしまった。
多分、これがあの「福部島」のはずだ。
これなら、以前本などで得た情報の通り、福部島は確かに「映画村」から見えるからだ。
でも、万一・・もしかしたら・・私の勘違いの可能性もある。
一応、確かめなくては。勘違いで東京に帰ってしまったら、悔いが残りすぎる。なんのために小豆島まで来たのか・・ということにもなってしまう。
それだけは避けたい。
そう思ったら、ついでに昼飯をまだ食べていないことも思い出したので、とりあえず映画村の中の食事処に入った。
↑ 映画村の食事処で食べた昼飯。小豆島名物、ひしお丼。かなり美味かった。お勧め。また食べたい。
そして、念のために、店の若い女性スタッフに、分教場の前の海に浮かぶ島の名前を聞いてみた。
だが、若い女性スタッフは知らないようだった。
彼女たちにとっては、あの無人島は、瀬戸内海の名もなき無人島の一つでしかないのだろう。さして気に留めるような島でもなく、特別な存在でもなく、なんでもない「ただの無人島」なのだろう。
その女性スタッフは、店の主人(?)の男性に、すぐ沖合の無人島の名前を聞いてみてくれた。
すると、その男性は「福部だよ」と言う。
これではっきりした。
小学校時代からずっと私の心の中に居座り続けた無人島・福部島を、苦節(?)数十年、私はこの目で見ることができたのだ。確定。
昼飯を食べ終わると私は、再び福部島に会いに、分教場の前の海辺に戻った。
↑ この写真には写っていないが、左側には有料望遠鏡が設置された小屋があった。
そこには有料の望遠鏡が設置された小屋みたいなものがあった。そこに入ってみると、壁に、そこから見える景色の名称一覧が記されていた。
で、目の前の無人島の名称として、ちゃんと「福部島」と書いてある。
やっと・・来れた。来ることができた。
上陸が無理でも、とりあえずこの目で、福部島を見ることができた。
↑ 有料望遠鏡が設置された小屋の中で。右側手前に写っているのが有料望遠鏡。金を惜しんでいる場合じゃないので、迷わず私は望遠鏡で見渡した。私の視界には、絶えず福部島が入っていた。
↑ 有料望遠鏡の小屋には、こんな説明書きが。ここから見える景色の地形や地名が記されている。方角的には、ここから見える景色は、四国方面なのだ。
↑ そして、その地形・地名の解説の中には、しっかり「福部島」の名前が。その名前の由来は、何なのだろう。知りたい。
地元の人ですら知らない場合もある、何の変哲もないただの小さな無人島・福部島。それがなぜ私にとって長年特別な島であったのか、このへんでその理由を書いておかねばならない。
小学校の時、私は「学研の科学」や「学研の学習」という雑誌を毎号読んでいた。
で、「科学」か「学習」のどちらか(たぶん「科学」のほうだったと思う)の夏休み企画に、地元の子供たちが無人島探索をするという記事があった。
で、その企画で子供たちが渡った無人島の名前が福部島だった。
その名前は、私の心に強く強く刻まれた。
その名前を忘れてしまっていたら、今回小豆島に来ることもなかったのかもしれない。
ともかく、その名前だけは覚えていた。
何十年も前に読んだきりの、その記事に出てきた「無名の無人島」の名前を、いまだに覚えている私は、きっと酔狂な奴なのだろう(笑)。
無人島というものに対する憧れは、幼い頃に見たアニメ「冒険ガボテン島」などで私の中であったが、それはあくまでもフィクションの中の冒険であり、無人島への漠然とした憧れはあっても、リアルな冒険ではなかった。
だが、学研のその学習雑誌の夏休み企画「子供たちが無人島・福部島に渡って、島を探索する」という記事を読んで、無人島という存在に対する実感が一気に私の中で醸成されたのだった。
一気に無人島が私の中でリアルになったのだ。
だから、ある意味「福部島」は、私にとってリアルな無人島の代名詞的な存在だった。
その記事の中で、無人島・福部島に渡った小学生たちは、島の浜を探査していた。
写真も何点もあったはず。
その子供たちにとっては冒険であったことだろう。
福部島では発見もあったはず。
確か・・本土(この場合小豆島)にあったものと同じもの(生物だったかもしれない)が、海を隔てた福部島にもあったことから、大昔は小豆島と福部島は地続きだったのではないか・・という仮説が、その探査の結果生まれたのだった。
今にして思えば、太古の瀬戸内海は、高松と岡山方面は地続きだった時代があったということになっているから、小豆島と福部島が地続きであったとしてもおかしくない。
だが、太古の瀬戸内海の情報など知らなかったであろう、その記事の中の小学生たちにとっては発見であったはず。
つまり・・子供たちの福部島探査には、地質学面での収穫もあったということになる。
記事の中では、そのへんの学術的な成果も述べられていた。
子供たちは無人島探査で冒険の成果を出した・・ということにしていいのだろう。
更に、その記事の締めくくりには、
「まだこの島を十分に探査したとは言えない。だから僕たちは待っている。来年中学1年生の夏休みを!」
と書かれていた。この文章・言葉には、近い未来への希望で溢れて輝いているように感じた。
その子供たちが翌年中学生になって、再び福部島を訪れたかどうかはわからない。
また、その子供たちにとって、福部島探査がその後の彼らの人生に影響を及ぼしたかどうかもわからない。
でも・・・もし私がその子供たちの中にいたら、そっち方面へ将来進んでいたかもしれない。
だから聞いてみたい。その子供たちに。
その後彼らはどうしたのか。福部島に再び渡る機会はあったのか。
福部島探査が、彼らにもたらしたものはあったのか。
福部島探査は、彼らの将来に影響したのか。
また、福部島探査をした時のことを、どう覚えているか。
今の彼らにとって福部島は?
学研の科学と学習で、今も覚えている記事というと、上記の記事だけだ。
というか、あまりにも福部島探査の記事が私にとってインパクトがありすぎ、イメージトリップもしすぎたから、他の記事をよく覚えていないのかもしれない。
この記事で福部島探査をした子供たちが、私はうらやましくて仕方なかった。
それゆえ・・・福部島は私にとって無人島の代名詞的存在として、心の中に深く深く刻まれ続けていたのだ。
その号を読んで以来ずっと。もう何十年もの間。
だから、たとえ渡る手立てはなくっても、せめてこの目でその無人島を見てみたいと思っていた。
分教場の前の浜辺で、沖合の福部島をこの目で飽きもせず眺めながら、ふと思ったことがあった。
それは・・思ったよりも近いな・・ということ。
ここに来る前にネット上の地図などで福部島の位置を調べながら見ていた限りでは、もっと小豆島から離れているのだと思った。だが、実際には案外近かった。
遠泳が得意な人なら、泳いで渡っていけそうな気もしたが、話によると潮の流れがけっこうきびしいらしいので、遠泳は危険とのこと。
この島の姿を見ると、つい渡ってみたくなる人もいるらしい。
そういう意味では、学研の学習雑誌で、無人島探査企画で、あの島を選んだというのは、お目が高いのかもしれない。
しかも、主役は子どもたちで。
その子供たちにとっては、きっと忘れられない思い出になったことだろう。
ネット上の情報によると、福部島は今は猿が多く住む島らしい。
その猿たちは、どうやってあの島に渡ったのだろう。
泳いで?
それとも?
噂では、誰かが福部島に、猿をはなしたからだ・・という説もある。
また、調べたところ、小豆島近辺の島をクルーズするツアーもあるらしい。だが、福部島に上陸することは、オプションに入ってなかった。
やはり、カヤックや漁船にでも乗らない限り福部島上陸は難しいのか、、、。
ちなみに福部島は、写真を見ればおわかりのように、二つの島に別れている。
小さい方は小福部島、大きい方は大福部島と呼ばれているようだ。
もっとも、小福部島は、島というより、岩礁に近い印象だ。
標高は海抜42メートル足らずらしい。
その規模は、ネット上で「大福部島、小福部島の2島の面積は、0.03k㎡、海岸線は0.9km。 」と書かれているのを見つけた。
更に私は、しつこくあれこれ調べてみた。
すると、福部島は 東西250メートル、南北170メートルとのこと。
また、大福部島と小福部島の間にある福部島水路は、幅120メートルらしい。
案外、離れているんだね。遠望だと、数十メートルぐらいの距離にしか見えなかったが、実際は案外離れている。
所在地としては、「小豆郡小豆島町堀越」ということになっているようだ。
ほんと、小さい島だ。
形は、化粧用具のパフを横からみたような、可愛い形だ。別名「パフ島」と呼んでもいいくらい(笑)。
ある意味、水の生物「タコノマクラ」を横から見たような形にも見え。
↑ では、ズームで、福部島を、なめるように撮っていこう。向かって左側から右側にゆっくりと。この写真では、左側に写っているのが、小福部島。ほんと、島というより、岩礁という感じ。
そして、右側には大福部島の端が。上記の説明にも書いたが。小福部と大福部の距離は120メートルあるという。でもこの写真を見ると、そんなに離れているようには見えなかった。きっと、角度の問題だろう。
↑ カメラのズームを小福部島から大福部島に移した。これが大福部島の、小豆島から見た「左側」の風景。海面付近は岩がゴツゴツ。
↑ ズームカメラのアングルを、少しづつ右へずらしていく。すると、浜らしきものが見えてきた。現在の福部島の住人(?)である猿の姿は見えなかった。
↑ ズームのアングルをさらにゆっくりと右へ。あの浜に、かつての子供たちは渡ったのだろう。で、そこで調査をしたのだろう。私も参加したかった。その時代に。その探査に。あの時渡った子供たちの痕跡など、浜にはもう皆無であろう。なにせ今から数十年も前のこと。
↑ ズームしたカメラのアングルはさらに右へ。小さな無人島の、「向かって右側」の端が見えてきた。浜が、案外続いているのがわかる。もしも船で渡るなら、あの浜からの上陸になるのだろう。
↑ 小福部島方面からズームカメラのアングルを少しづつ右へずらしてきて、その終着点がここ。大福部島の「向かって右側の端」をアップで見ると、こうだ。あの木々の中に、住人である猿たちはいるのだろう。
カメラをズームしてみると、福部の小さな浜辺らしきものが見えた。その浜を見て、「学研の学習誌の夏休み企画であの島に渡った子供たちは、きっとあの浜辺に上陸し、探索したんだろうなあ」などと思うと、感慨深いものがあった。
いくら見ても飽きなかった。
そこを去るのが寂しかった。
何十年も私の中で「無人島の代名詞」的存在であり続けた存在なのだから。
そして、私にとっては、やり残した・・・というか、行き残していた場所のひとつ。
私には、自分が見聞きしてきた無人島の中で、いつか自分も渡ってみたいと思っていた無人島が二つある。
ひとつは、神津島の前浜の沖合はるかの海上に浮かぶ「恩馳島」で、そしてもうひとつがこの「福部島」であった。
これまでの聞きこみや調べで、福部島に渡るすべはないのは分かっていた。
でも、目の前にその福部が浮かんでいるのを見ると・・・そしてかつて子供たちが雑誌の取材で探検したことを思うと、無性に私も渡ってみたくて仕方なかった。
少し視線を右側にずらせば、福部島に向かって伸びる岬みたいなものが小豆島にはあった。
あれが塩谷鼻と呼ばれる場所なのだろうか。
だとしたら・・・太古の昔には・・あの塩谷鼻は、福部島に繋がっていたのかもしれない・・などと思いながら、私は塩谷鼻と福部島の両方を視界に入れたりもした。
↑ 右側に、まるで福部島に向かって伸びるかのような地形が。あれが塩谷鼻?太古の昔には、福部とつながっていたとしてもおかしくない雰囲気と地形。
↑ あの岬みたいなものが福部島に繋がっていれば、私も福部島に渡れるのに。もっとも、そうなると、福部島は小豆島の地形の一部ということになってしまうが。こういう風景を見てると、貴方もあの島に渡ってみたくならないだろうか?
この浜で、視界の斜め右側にある福部島方面ばかり見ていたが、ふと気づいて浜の左側も写真に撮ってみた。
海は相変わらず穏やかだった。いや、海だけでなく、浜も風も空気も、雰囲気も。
↑ 分教場前の浜辺。福部島方面に向けたアングルから、視点を左側に持ってきたアングル。この写真のアングルには福部は入っていない。
色んな思いを胸に秘め、名残惜しさマックスの状態のまま、その場を離れた。滞在時間が迫ってきていたからだ。
バスへ戻る途中、これまであまり見てなかった映画村村内を見ながら。
↑ 分教場方面から、映画村の方に戻っていく。福部島に背を向けて。私の背中のはるか向こうには福部がいることになる。福部が「あれだけ長い間私のことを想っていてくれたのに、もう行ってしまうの?」とでも言ってるかのようだった(笑)。
↑ 映画村の中心地の光景。まさに映画のセットのようだ。
↑ 二十四の瞳の像。女先生と、子供たち。この人たちは、歳をとらない。先生のまま、子供のまま。
↑ 二十四の瞳の像を、別アングルから。「せんせ あそぼ」と書いてある。
↑ このアングルをそのまま正面奥に歩いていくと浜辺があり、その先には海に浮かぶ福部島があることになる。
↑ 映画村のメインの道から枝分かれした道。時間があれば、歩いていってもよかったのだが。
↑ 映画村で一番賑っていたエリア。暑かったので、ソフトクリームを買い食いしながらパチリ。
↑ 未練たらたらで振り返り、福部島がある方角を眺める私。だが、ここからは見えないのだ。
↑ そろそろ・・この村を後にするバスに乗らねばならない・・・。もっと居たかったなあ。この快晴は、私のために福部島が天にかけあってくれたのかな(笑)。
そして、私はバスに戻った。
時々、後を振り返りながら。
福部島は堤防みたいなもので隠され、もう見えなかったが。
本来小豆島の定番観光スポットであるはずの「二十四の瞳映画村」の印象は、こと私に限っていえば福部島にかき消されたような感じだった。
むしろ、私にとって「二十四の瞳映画村」は、「福部島が見える絶好のビューポイント」と呼びたい場所であった。
ネット検索すると、たまに漁船や、カヤックなどで福部島に上陸する人も稀にいるらしい。
羨ましい。
おそらく、福部島は、一応「福部」という名前は付いていながらも、一般的には無名の無人島なのだろう。
小豆島に来たことがない人に、広く知られているとはとても思えない。
もしかしたら、地元の人にとっても、あれは「ただの小さな無人島のひとつ」でしかなく、普段あまり気にかけるような存在でもないのかもしれない。
その証拠に、あの島には一般的には行く手立てがないのだ。
観光スポットというわけでもないから、二十四の瞳映画村の沖合の海に小さな無人島があるぐらいの認識はあっても、名前までは知らない小豆島住人もいるだろう。
ある意味、小豆島の沖合に浮かぶ、何の変哲もない無名のあの小さな無人島を見るために、わざわざ電車・飛行機・バス・船を乗り継いで、遠方からやってきた私は、相当「モノ好き」な奴であるに違いない。
普通、小豆島に来る人は、オリーブとか、二十四の瞳映画村や、エンジェルロードや寒霞渓あたりを目当てにやってくることだろう。
だが・・私は違った。観光スポットでもなんでもなく、地元人すら普段あまり気にかけない「小さな無人島」を、この目でひと目見たくて、わざわざやってきたというわけだ。
でも、そんな変な奴もいるのだ・・ということで、ご容赦願いたい(笑)。
でも、そんなどうでもいいような些細なこだわりが、私にとっては旅の重要な動機になったりもするのだ・・。
きっと・・・自己満足、ここに極まれリ・・・なのだろう。そんな「しょ~もないこだわり」で旅先を選ぶ自分自身に、時々私は自虐笑いすることもある(笑)。
今思えば、福部島が映画村から見える位置にあってくれてよかった。
映画村は小豆島きっての観光スポット。だから、たいがい観光コースには組み込まれるだろう。
福部島自体は、観光スポットでも名所でもない「ただの小さな無人島」。もし、福部島が映画村から見える位置になかったら、私はあの島を見る機会はなかったかもしれない。仮にあったとしても、車窓からチラッと見えるだけだったかもしれない。
初めての来訪だったら、車窓から一瞬見えていたとしても、気がつかなかったり、見過ごしてしまった可能性だってあったかもしれない。
ツアーガイドさんがいたとしても、何の変哲もないただの小さな無人島にすぎない福部島のことなど、紹介してくれなかったかもしれないし。
ツアーバスは、福部島が見えるポイントでわざわざ停車してくれたりはしないであろう。
映画村ではツアーバスは停まってくれた。しかも、そこではそれなりの滞在時間も組んでくれた。
だからこそ、私は昼飯を食べたりする時間や、映画村を見てまわる時間をある程度削って、福部島を見るために時間を作ることができた。
それもこれも、福部島が、小豆島きっての観光スポット「映画村」から見える位置に浮かんでいてくれたからこそだ。
そういう意味では、福部島は良い位置に浮かんでいてくれたと思う。映画村は、良い位置にあってくれたと思う。
私の「福部島を、渡るのが仮に無理なら、せめてこの目でしっかり見てみたい、目に焼き付けたい」という長年の思いは、上記のような好条件に恵まれてたからだろう。
その「地理的な運」を、私は天や海に感謝したい。
この記事を書いている今も、福部島は、あの場所にあり続けているのだろう。
ぽっかりと、浮かび続けているのだろう。無人島のまま。
瀬戸内海の穏やかな波の海面に。
ななめ対岸に「二十四の瞳映画村」の一角を見ながら。
海風にあたり、波の音を聞きながら。
次回、私の初めての小豆島旅行の「福部島、その後」になります。
福部島の話しがとても心温まりましたので、ひとこと記しました。
福部島に関する長い記事を読んでいただけ、嬉しいです。
私にとっては、福部島は、思い入れのある場所でした。