マーさんの道

日々仕事に追われがちな毎日で自分を見失うことがないように綴っていければと・・・気が向いたらコメント下さいませ。

更新できませんでした。

2008-12-28 15:30:07 | Weblog
7月中旬から実に何ヶ月でしょうか。

更新しなかったのでなく、更新できませんでした。

忙し過ぎたのもありますが・・・・・

母が8月の初めに、たまたま行った血液検査で異常値が見つかり

大学病院を紹介され、精密検査の結果・・・

「骨髄異形成症候群」という難病でした。

大学病院を相手に営業している手前、約2週間後に検査結果を知らされる

ことになっていたのですが、検査の2日後担当医師より廊下で

呼び止められ、今後の治療方針を決定する上で、家族に方針を

決めてもらいたい意向で、告知したようです。

昨年肝臓ガンの手術を成功した父も大病のあとで・・・

しかも父も母も高齢ということもあり、果たしてこの検査結果を

そのまま告げていいのやら、受け入れられるのか悩みました。

とりあやず、妻と兄にはこの事を告げ、お盆に横浜から帰郷する

妹家族との家族旅行までは、このことを伏せて置こうと決めました。

旅行中確かに母の体力は衰え、いつも嗜む赤ワインもほとんど口にせず

早めに床につきました。

このままでは家族の誰もが母の体を気遣うことなく、いつものように

負担をかけてしまうと思い・・・

大学病院の検査結果のため受診する前日に、とうとう父にこの事実を

打ち明けました。父はかなりショックだったと思います。

父の意向に沿い、全部母に打ち明けることになり・・・・

私の口からこの病名を告知しました。母は言葉をしっかりと受け止めようと

必死だったと思います。ある意味この事を旅行中隠していた私の

つらさをむしろ気遣ってくれました。

母は父のそばにいなくてはと・・・・

抗ガン剤の治療ではなく、通院しても輸血対処療法を選択しました。

それから10月の中旬まで、大学病院への受診の足となり、私が毎回

付き添うことになり、その度に医師より説明を受け

外来での赤血球、血小板の輸血療法が始まりました。

特に血小板輸血はアレルギー反応を伴うリスクがあり

10月中旬に風邪をこじらせたのが原因でそのまま大学病院へ

一日入院、翌日連携病院の国立病院と転院になりました。

その日から闘病生活が始まりました。

輸血の度に発熱を起こす状態が続き、もともと心臓病をもっていたのも

あり、かなり母の身体に負担がかかっていたのだと思います。

両親とも国立病院のOBだったこともあり、かなりの後輩の看護婦さん達の

励ましの言葉やら、待遇も素晴らしかったのですが、それ以上に母の身体は

病魔にむしばまれていったのだと思います。

最後までトイレだけは自分で行きたいと特室のトイレにも

とうとう自分の力で行けず、酸素マスクをつけている母の姿を

背中をそっとさすりながら、息を殺して泣いていた自分がありました。

12月中旬、かなり心臓にも負担がかかり苦しみが多くなったため

モルヒネが投与されました。それからの5日間は家族が24時間体制で

介護する日々が始まりました。私も丸一日会社の社長にも事情を理解

してもらい付き添うことができましたが、あまりにも苦しそうな母を

みて、変わることができるなら、変わってやりたいと何度も思いました。

16日の夕方兄夫婦と私達夫婦が交代してまもなく、あっという間の

出来事でした。心拍数がみるみるうちに激減し、看護婦さんが

「誰か家族の方をお呼びする方はいませんか。」の問いかけ後

最後は苦しむことなく、私達夫婦の見守る中、母は霊界に帰って行きました。

70歳の生涯でした。

最後の最後まで、何よりも父の事を心配していました。

また、付き添った兄や私にも「疲れるから少し休め」と逆に気遣う母でした。

少しでも母がこれから霊界へ帰ってからもゆっくり休めるよう追善供養して

いくこと。そして母が特に愛してやまなかった父を守って

行くこと。それが私たち残された家族の使命だと・・・・

今まで、ここまで育ててくれた母に感謝するとともに・・・・

母が父に最後に残した言葉の通り、「いつも一緒だよ」を胸に

今年を締めくくりたいと思います。