滑谷岡陵か?大陵か?

2015-01-17 22:18:16 | 歴史あるトコ-奈良

先日、1月15日。

明日香村の小山田遺跡で巨大古墳の墳丘の一部と

濠の跡が見つかりました!

 

 

場所は養護学校の敷地。

 

 

左手に見える板状の石組みが墳丘の一部だそうです。

 

 

 

さてさて、何がすごいのか・・・・というと

 (ayaka的見解です)

 

★★★ その1 ★★★

 

それは遺構の状況や地域の地形から考えると、

一辺50mを超える方墳だというのです。

 

おなじみ石舞台古墳

蘇我馬子の墓と言われている古墳ですが、

本来はこの上に封土があり、一辺50mの方墳だったんです。

 

この古墳より大きな方墳というわけです。

 

残念ながら、全国1位ではありません。

もっと大きな方墳はあります・・・・

 

 

 

★★★ その2 ★★★


所在地不明だった滑谷岡陵ではないか!というもの。

 

日本書紀には・・・・

舒明13年10月9日 舒明天皇が崩御。

皇極元年12月21日、滑谷岡(なめはざまのおか)に葬った後、

同2年9月6日、押坂内陵(おしさかのみささぎ)に改葬された。

・・・・と記載があります。


規模、築造時期、そして押坂内陵にも使われている榛原石を使っている事で、

滑谷岡陵の可能がある!ということなんです。



★★★ その3 ★★★


いやいや、実は蘇我蝦夷の墓・大陵だ!という可能性もあるんです。


築造時期が「7世紀中頃」

そしてその側にあるのが、甘樫丘菖蒲池古墳


蘇我の邸宅のあった甘樫丘。

そして蘇我蝦夷が双墓を作り、1つを蝦夷の墓・大陵、1つを子・入鹿の墓・小陵としたこと。

つまり、菖蒲池古墳が小陵で、今回発見された方墳が大陵ではないかというのです。

前方後円墳が無くなる7世紀・・・豪族たちの墳墓の形として採用されているんです。

 

近くに馬子の墓だという石舞台古墳。

その側に有料駐車場がありますが、ここは「島庄遺跡」

馬子の邸宅、そして草壁皇子の「嶋宮」があった場所と見られています。

 

ということは、築造時期も7世紀中頃、

蘇我の邸宅のあった甘樫丘のそばに、

蝦夷・入鹿の双墓があってもおかしくない!

 

 

さてさて、今後の調査に期待です!

 

 

 

1/18(日) 現地説明会があります。

ご興味のある方は是非!

詳しくはこちらに

↓ ↓ ↓

http://www.kashikoken.jp/from-site/2014/koyamada_annai.pdf




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