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Augustrait



疾走する哀しみ


モオツァルト・無常という事


 小林秀雄(1902-1983)が「モオツァルト」を雑誌『創元』に発表したのは、1946年のことだった。敗戦の翌年である。小林の執筆活動は、この頃過渡期を迎えていた。1944年に中国大陸から帰国後、ほとんど何も書かずに過ごしている。その唯一の例外は、1943年の評論「梅原龍三郎」だった。
 以後、沈黙を守り続けたのだが、「当麻」「無常といふ事」「徒然草」に代表されるような、日本を見つめなおす散文を精力的に発表したのが1942年の春からである。つまり、批評形式の作品は、1944年からの2年間ほぼ存在しない。


§絶対的な美
 最も物議を醸した小林の発言は、1946年2月の<僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみせるがいいぢやないか>*1 というものだろう。「モオツァルト」発表当時と時を同じくした発言である。戦争に対する態度について尋ねられた回答としてはあまりに過激なこの発言が、文壇を大いに沸かせたのだった。同年6月には『新日本文学会』が、小林を戦争責任者に指名している。
 しかし、『近代文学』の座談会での発言は、<僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない>*1 発言に続く意見だったことを見落としてはならない。

 文学を「美の形式」と認識していた小林は、文学を不動なるものととらえる理解に並々ならぬ自負があった。動かぬものは絶対的である。そしてそれは戦時にも揺るがぬものである。それが、「戦後」の反省が卑屈なものとして社会に蔓延し、文学も影響を蒙ることに小林は耐えられなかったのだろう。この意識は、小林の戦時下における「日本古典文学論」から累々と継がれるものだった。


§サーガ
 2年間の沈黙を破る「モオツァルト」批評は、100ページにも満たない中庸なサイズに収まる作品である。だが、決して凡庸ではない。神童と呼ばれる人物の溢れんばかりの才に刮目して、本質に迫ろうとする論理が展開される。
 <才能がある御蔭で仕事が楽なのは凡才に限るのである。十六歳で、既に、創作方法上の意識の限界に達したとは一体どういう事か。「作曲のどんな種類でも、どんな様式でも考えられるし、真似出来る」と彼は父親に書く(一七七八年、二月七日)。併し、そういう次第になったというその事こそ、実は何にも増して辛い事だ、とは書かない>*2

 小林の批評美学の集大成とされる「モオツァルト」は、単独での完成に1年という月日を要した。紀行文や散文的作品からの転換点ともなる作品である。晩年の大作『本居宣長』は、西洋の哲学、文学の習熟により磨き上げられた論理力、心象にある肖像画を紙面に描き出す筆力、日本の歴史や文化を愛するたしかな感性、いずれが欠けても完成しなかったに違いない。まさに「美の形式」が備わる大著を生み出す材が調っていったのである。
 
 過渡期を経て世に送り出された「モオツァルト」は、『本居宣長』に集約する壮大な構想のピースのうちでも、特別に大きい。畢生の大著は、さながら「イリアス」あるいは「オデュッセイア」等の叙事詩にも匹敵する一大交響楽を奏でる。オーケストラでは、必ず立役者ともいえる楽器がリードしなければならない。すなわち、「モオツァルト」である。


《ささやかな十六分音符の不安定な集まり》
本書,p.47


小林秀雄対話集 (講談社文芸文庫)
講談社

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▽『モオツァルト・無常という事』 / 小林秀雄. -- 新潮社, 1961年
© Haruko Shirasu 1961
*1 1946年2月 『近代文学』の座談会「コメディ・リテレール
 小林秀雄を囲んで」
*2 本書/p.22