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ピープス氏の秘められた日記―17世紀イギリス紳士の生活


 界の奇書の1つ『サミュエル・ピープスの日記』.17世紀イギリス官僚であったサミュエル・ピープス(Samuel Pepys)は,1660年1月1日から1669年5月までの日記を遺した.この日記が公になることは長らくなかった.約10年間で125万語に及ぶこの日記は,活字にできない性質のものだった.彼は暗号で日記を記述していた.日記の内容が流出することをピープスが恐れていたからだろう.

 日記を暗号で記すことは,有名な例で言えば石川啄木の日記がある.啄木は,妻に内容を知られることのないよう配慮し,ローマ字で日記を記すことにした.昭和42年のことだ.
 
仕様ことなしに,ローマ字の表などを作ってみた.…中略…
 そんならなぜこの日記をローマ字で書くことにしたか?なぜだ?子は妻を愛してる.愛してるからこそこの日記を読ませたくないのだ,―しかしこれはうそだ!愛してるのも事実,読ませたくないのも事実だが,この二つは必ずしも関係していない *1

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左 《サミュエル・ピープス》
右 《石川啄木》


 啄木の逡巡と葛藤は,彼自身の遊び癖を記録しておきたい欲求と,それを妻に知られてはならないという切実な現実問題から発していた.ところが,啄木の妻は判読できないと思われていたローマ字を,実は読解していた.啄木の没後70年を経て,全集刊行の際にこのローマ字日記を翻訳して世に出した妻は,墓中の啄木に一矢報いたと開き直ったというところか.

 ピープスが日記に暗号を施した目的も,これと似たり寄ったりだ.妻に対して心苦しいところのある筆まめな夫というのは,どの国でも同じような対処に通ずるらしい.しかし,ピープスは念入りだった.単一の外国語では危ないと思ったのか,フランス語,イタリア語,スペイン語,ラテン語,さらにギリシア語,ドイツ語を英語に混ぜ合わせ,一見したところ支離滅裂な記述を用いたのだった.

(C)岩波書店
左 《カースルメーン伯爵夫人》 バーバラ・ヴィリアーズ
右 《妻エリザベス・サンミシェル》


 ピープスは18世紀を迎えてすぐの1703年に没するが,この日記の完全な無削除版が出たのは,なんと1970年から1976年のことである.幾人もの解読者が暗号を解読し,現代文に書き起こすのに200年以上を費やした.それを日本に紹介していたのが,臼田昭である.日記全10巻のうち,2003年に第9巻までが国文社より出版されている.しかし,残りあと1巻というところで,臼田は急逝してしまった.だから今は,和訳版は完結せずに寝ている状態となっている.ちなみに,1巻あたり1年分の翻訳となっているので,1660年から数えて1668年までが刊行されている.

 ある意味では,日記を残す人物の考察ほどあてにならないものはない.筆と気分のさじ加減で,いかようにでも脚色,解釈することができるからだ.それはしばしば,恣意的で独善的に陥っている.したがって,他者の目に触れることを許されない文章など,およそ信憑性に欠けるものというのが,世間一般の評価ともいえるだろう.しかしそれが,1つの年代記としての意義をかろうじて有するものだったらどうだろうか.そのための条件は,彼の生活が生々しく描写されており,リアリティを担保するものでなくてはならない.

 ピープスの日記は,同時代の史的価値という意味で,ほかのいかなる人物の日記を凌ぐ.なにしろ解読に多分の労力を要する,17世紀版エスペラント語ともいうべき文法で叙述されているのであるから.辛辣な毒舌家,アンブローズ・ビアス(Ambrose Gwinnett Bierce)が『悪魔の辞典』で定義した <自己の生活のうち,自分自身に語って赤面せずにいられる部分の日々の記録>*2 というのは,日記が「リアリティの秘匿」を宿命的にもつ記録体であることを警告しているのである.

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左 《ピープスの日記》 Haldeman-Julius company  1922年 
右 《アンブローズ・ビアス》


 ピープスが日記を記した当時のイギリスの政治情勢は,ピューリタン革命が瀕死にあえいでいた時期といえるだろう.オリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)の死後,その息子リチャード・クロムウェル(Richard Cromwell)は無能で人望がなく,軍の要請を簡単にのんで議会を解散したがため,議会からの信頼は失墜していた.当然のように,1659年,リチャードは就任後わずか8ヶ月で辞任に追い込まれた.

 翌年にフランスに亡命中であったチャールズ1世(Charles I)の子がチャールズ2世(Charles II)として即位する.この王政復古に市民は不安を募らせた.父チャールズ1世の死刑宣告書にサインした生存中の政治犯の大赦・ピューリタン革命中に没収あるいは売却された土地に対する購入者の権利の承認・信仰の自由・軍隊の未払い給与の支払いなど2世は公約していたが,即位後はこの公約を守らず,すでに死亡していたクロムウェルの墓をあばいて遺体を絞首刑にしたり,多くの生存者を死刑や投獄刑に処した.また革命中に没収・売却された土地を無償で元の所有者に戻したり,宗教についてもピューリタンを地方の公職から追放する(1661)などピューリタンに対する圧迫を強めた.そのためピューリタンの勢力は次第に衰え,ジェントリや商工業者の中には国教会に改宗するものも多かった*3.

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左 《チャールズII世の戴冠式》 1661年 ウエストミンスター寺院
右 《ピープスの署名》


 ピープスが日記を書いたのは,こういう時代だった.貧しい仕立て屋の息子が苦学してケンブリッジを卒業し,海軍省の官僚におさまる.そこで出世のために権謀術数を駆使し,妻の目を盗んで浮気にうつつをぬかし,袖の下もちゃっかり受け取って海軍大臣にまで上りつめていく.しかし,決して悪人とは呼べる人間ではない.むしろ,市民的節制と封建的放縦の生き証人として,日記に不安や希望を詳細に記録する.ピープスとはそのような人物なのである.

 本書は,ピープスの日記を通じ,イギリス市民の生活の歴史と生活の流れを簡潔に浮き彫りにすることを目的としている.日記の中で重要な項目,イベントを年に1本ずつ選び,それに関する日記の記述を前後数年間から集めて補強する.これによって,小市民ピープスの生活史とイギリスの歴史の流れを同時に追うことができるわけである.もっとも,数年間の記述をつなぎ合わせた部分が多く,厳密な歴史考証に耐えられる資料ではない.その点で読者には一定の注意力が要求される.しかし,ピープスの人柄と生活に視点をシフトして読むならば,非常に興味深く読むことができる.

 臼田は,前述の市民的節制と封建的放縦の谷間に位置するピープスを,うまい比喩で表現する.封建人の典型と市民社会の代表は,ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)の喜劇『十二夜』に現れている.登場人物トーベ・ベルチは,朝から晩まで酒びたり,女好き,無責任な大法螺吹きだ.これを封建人の典型とすれば,もう1人のすました偽善家マルヴォリオは,市民社会の代表格だ.そしてピープスは,この両人物の「四分六あるいは七三で後者に傾く人間」ということだ.快楽に負けながらも,道徳的節制の美徳にピープスは憧れの念をもつ.それだけでなく,そうするべきだとも一応,心得てはいる.
芝居と酒を慎むことについて,新しく厳かな誓いを立てた.それを文字通り守る決心である.だからそれを書き控えておいた *4
 ピープスはこの誓いを毎日曜日に朗読し,はじめはうまく行く.飲酒に費やす金も時間も節約でき,体調もいいというわけだ.しかし,それも長くは続かない.
役所に帰って,次の聖霊降臨祭までは,どんなことがあっても,1度の食事に1杯以上の酒を飲まないと約束した…中略…わたしはただヒポクラスを少し飲んだだけだ.これでは誓いを破ったことにはならない.ヒポクラスは,現在わたしの判断し得る限りでは,まぜ合わせて作った飲料にすぎず,酒ではないからだ *5
 固い誓いに例外を設け,はてはそれを破っても言い訳の抜け穴を見つけてくる,それでは節制の生活は遠ざかるばかりである.ヒポクラスは酒ではないと抗弁(日記だから自分の良心だろう)するのだが,これはワインに砂糖と香料を混ぜた飲み物だ.れっきとしたアルコールである.小市民ピープスの誘惑に対する態度は,一事が万事こんな調子なのである.

 女性に対してもピープスは無頼のすきものだった.音楽にも凝っていたが,この2つだけはどうにも辛抱できない誘惑だったらしい.歓楽に忠実なピープスは,こう独白している.「音楽と女性にはどうしたって負けてしまう,どんな仕事が控えていようと」女優のネップ夫人,海軍差配人の娘・ ツッカー嬢,ウェストミンスター会館のレイン嬢.そのうえ彼女の姉のマーティン夫人(海軍パーサーの妻)もまたピープスの愛人だったというから,そのまめなことこの上ない.しかし,以上の悦楽にピープスがめっぽう弱いからといって,彼の生活が堕落しきっていたわけではない.むろんそういう面もあったが,一方で彼は能吏として大変な実務家であり,迫真の事実を伝える確かな記述力を持っていた.

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左 《リチャード・クロムウェル》
中 《オリバー・クロムウェル》
右 《ウィリアム・シェイクスピア》


 今に語り草として伝えられる1666年のロンドン大火は,ロンドン橋近くのパン屋のかまどから出火し4日間にわたって燃え続けた.この災害により,ロンドン市内の家屋のおよそ85%(13,200戸)が焼失したといわれている.このピープスが遭遇した大火事は,悲しみと憤りをもって彼を日記に向かわせた.その描写は,並々ならぬ筆力をもっている.
ふつうの火の澄んだ炎とは違うのだ・・・・・・ロンドン橋のこちら側から向こう側にかけて,火はすっかり1つのアーチのようになり,山手へ弓形に広がり,長さ1マイルでは利かぬアーチをかけたようだ.見ていても涙が出た.教会も,家々も,みんな同時に燃え上がり,火を吹いている.炎の立てるおそろしい音,家々はガラガラと音を立てて崩れてゆく *6
 ピープスは,人も動物も炎に絡めとられるのを見届けながら,ホワイトホール宮へ向かう.そこで国王とヨーク公に謁見し,鎮火策を進言した.それは,王が家の取り壊しを命じない限り,火の手はとまらないであろう,という勇気ある発言だった.というのも,当時のロンドン市内ではほとんどが木造家屋であり,街路も狭かったためである.手を打ちかねていた国王は,ピープスの進言を容れ,ロンドン市長に国王命令として民家を取り壊すよう伝える任をピープスに託したのであった.

 ピープスの判断力は,官僚としてきわめて有能な能力を示している.その決断力は国王の意思をも鼓舞するものだった.4日間の火事をロチェスターの古城から眺めたピープスは,この災禍の悲惨さに悲嘆を隠すことができない.しかし,そこで知り合った3人の美人女性とはたちまち意気投合してしまう.良くも悪くも,このアンバランスな人間くささが,まさに市民的節制と封建的放縦を併せ持つ彼の真骨頂だったといえるだろう.

(C)岩波書店
《ロンドン大火》 1666年

 シビアな現実主義者でもあった.それがピープスの実務的な側面につながっている.同僚を制して海軍大臣にまで立身出世したのは,その長所を高く買われたからである.本書でやや残念なのは,ピープスが海軍省で抜きん出た実務通となり,大臣職まで務めあげるエピソードが乏しいことにある.ピープスの多方面にわたる具体的事象にかける好奇心の強さが物見高さを生み,いかにうまく立ち回る動因となったかを,より詳細に述べればピープスのゼネラル的能力の高さが推測できるのだが.

 さて,ピープスは1969年に日記をつけるのをやめる.それが不本意なものだったことは,彼の日記が最後にこう結ばれていることからも窺える.
自分の目で日記がつけられるのは,おそらくこれでおしまいだろう.もうこれ以上は続けられないのだ.これまで長い間,ほとんどペンを持つたびに目をだめにしてきたのだから.…中略…まるで自分が墓の中へ入って行くのを見るような思いがする *7
 彼は遠視と乱視に数年前から悩まされていた.速記号で日記を書くということの負担が,彼の視力を蝕んでいた.そこで,10年近くに及ぶ日記の絶筆を決意したのだった.

 老後は妻と仲むつまじく暮らすことを望んでいたピープスは,日記を書きやめたと同時に長期休暇を取り,妻とフランス・オランダ巡遊の旅に出る.これからは身を落ち着けて静かに余生を送ろうと考えたのだろう.しかし,そのささやかな願いが満たされることはなかった.旅から帰った直後,妻はチフスであっけなく世を去った.ピープスは妻の銅像を作り,思い出を大切にしたという.

www.magd.cam.ac.uk
《ピープス・ライブラリー》

† 追 記 †
 その後ピープスは,ミセス・スキナーズという女性に身の回りを世話してもらいながら,手塩にかけて育てた海軍をウィリアム3世(William III)に引き渡して引退する.1703年,ロンドン南郊のクラッパムで息を引き取った.享年70.ピープス夫妻に子はなかったため,遺産は甥が相続した.肝心の日記は,ピープスの死後,3,000冊の蔵書とともに,ケンブリッジ大学モードリン学寮に寄贈され,100年もの間,注意を払われることもなかった.注目されるようになったきっかけは,ピープスの親友ジョン・イーヴリン(John Evelyn)の日記が発見・出版されたことからだった.


千年王国を夢みた革命 サミュエル・ピープスの日記〈第9巻〉 ロンドン―ある都市の伝記

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▽ 『ピープス氏の秘められた日記』臼田昭
-- 岩波書店, 1982年
(C) Akira Usuda 1982

*1 教養の道:III. 恋と愛
*2 本書,p.3
*3 イギリス立憲政治の発達
*4 本書,p.41
*5 本書,p.41
*6 本書,pp.131-133
*7 本書,p.193