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Augustrait



知ることは 超えることである

夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録


 『夜と霧』は直截の和訳ではない。原題の忠実な訳をいうなら、「強制収容所における一心理学者の体験」とでも訳すべきである。では、フランクル(Viktor Emil Frankl;1905-1997)のあまりに有名なこの書は、なぜ『夜と霧』と称されてきたのか。まずそこから知らなければならない。

 1941年12月6日、ヒトラー(Adolf Hitler;1889-1945)は「夜と霧(Nacht und Nebel)」と呼ばれる特別布告を発令した。非ドイツ国民で、異教徒や政治犯容疑者とナチスが認めた者を、夜陰に乗じて強制収容所に送致し、さらに、その安否を家族親戚に知らせないとするものだった。
 時日を要さずして、「党と国家の敵は全て排除する」ことがゲシュタポの任務であったこと、さらに政治犯を弾圧する必要性から、「家族の犯罪は家族の責任」といわば集団責任に拡大され、容疑者は家族ぐるみ一夜にして消え失せたのだった。

 ファシズムの台頭と、アウシュビッツ他の強制収容所における600万にも達する集団虐殺を如実に伝えるには、一心理学者の個人的体験の書としてのみ啓蒙するには、あまりに重い。おぞましい歴史を象徴的に語り継ぐ展望の下、この書は「夜と霧」と題されたに違いない。

 さて、フランクルは心理学者であったが、ユダヤ人という理由でアウシュビッツに収容される。この時の体験を第2次大戦後、すぐ手記にしたのが『夜と霧』である。個人的な体験の内省と、主観的な他者観察に徹したこの手記は、妙録の域を出ることを控え目に拒む。それは一心理学者が心理学的考察に留めることを願い、分析を望まない意思を表しているかのようだ。
 しかし、冷静な筆致で描き出す収容所と収容者の実態は、安直なヒューマニズムに逃げることを決して許さない。紙面を覆うばかりの悲しみと怒りが充満している。およそ人間が考えうる凶行の全てを目の当たりにしたフランクルは、はじめ自らが置かれた極限状態に慄き、次に拒絶し、内面的滅亡を経た後で絶望と戦い、達観に通ずるまでの道を静かに筆に乗せている。

 かかる惨状に見舞われながら、高貴な心を失わず、時にユーモアに助けられながらも清冽な魂を守り通したフランクルは、われわれの眼には、ともすれば超人的に映る。そして自分に問いかけずにはいられない。「果たして、自分ならどのように考え、行動するのか。人は極限下でも人間性を保つことができるのか」
 私がフランクルの回顧録を読み、彼の言及している部分で最も強く首肯したところは、以下の2点に含まれる。

「人間は到るところで運命に対決せしめられるのであり、単なる苦悩の状態から内的な業績をつくりだすかどうかという決断の前に置かれる」*1
「人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。―中略―すなわちわれわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されるのである」*2

 フランクルは、収容されている男たちから、もはや人生から何ものも期待できないから自殺したいと打ち明けられた時、人生が彼らにまだ期待するものがあるということと、それは未来において彼らを待つということを説いて、自殺を思い止まらせることに成功している。他人によって取り換え得られない性質を個人が持つということ、かけがえのなさが、すなわち「苦悩の状態からつくりだされる内的な業績」と解釈することができる。
 社会学の概念では、人間の思想や行動と、それらを持続的に方向づける倫理・道徳的特質をエートス(ethos)と呼ぶが、ある民族や集団にそのような慣習が認められる場合にそう呼ぶのが一般的である。だがフランクルは、人間の姿を、実体験の洞察と記録によって倫理的に著した。これは個人に内在するエートスの証ではなかったか。

 なぜ彼がそうし得たかの答えは、誰も知ることができない。しかし、フランクル自身が拠っている存在は手記に示されている。そして忘れてはならないことは、奇蹟的にこの世の地獄から生還した彼は、支えとなったその存在を全て奪われていたという事実である。

 本書は、2002年に新版も出版されている。しかし新版には、旧版に収録されている強制収容所の各種資料、及び情景の写真(45点)は収められていない。

意味への意志
ヴィクトール・E. フランクル
春秋社

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Title:EIN PSYCHOLOG ERLEBT DAS KONZENTRATIONSLAGER
    Österreichische Dokuments zur Zeitgeschichte I
Author:Viktor Emil Frankl ©1947
▽『夜と霧―ドイツ強制収容所の体験記録』/V.E.フランクル/霜山徳爾訳/みすず書房/1961年
*1 本書/p.161
*2 本書/p.183