地獄から這い出してきたかのような男は,人間世界で第2の人生を得たかのようにみえた.あるいは,人の世に出て初めて彼の人生が始まったというべきだろうか.19世紀,聖霊降誕祭のさなかのドイツで彼は突如として現れ,その素性がついに明らかにされることなく,5年後にこの世を去ってしまった.社会的スキル,というものが備わることなく成長した人間というものがいるとすれば,それこそがカスパー・ハウザー(Kaspar Hauser)ということができる.この「存在」に対する文献は,ナポレオン(Napoléon Bonaparte)とゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)に次いで現在もドイツを席捲している.“ヨーロッパの子”とも“ヨーロッパの孤児”ともいわれるこの「存在」は,存在自体が超越的で人の想像力をかき立てる,今もなお.
食生活においても常軌を逸した境遇に置かれた「野性児」が,人間生活に必要な教育も言語も道徳も備えていないのは当然だが,ではその野生状態から人間性を獲得できるか否かに,学問上の注目は集まる.しかし,ハウザーの場合には,他の野性児とは決定的に異なっている点があった.それは,社会からの隔離状態が人為的に強いられたという事実である.本書の副題は「人間の精神生活に対する犯罪の一例」であるが,著者であり罪刑法定主義・心理的強制説により近代刑法理論を確立したA・v・フォイエルバッハ(Paul Johann Anselm von Feuerbach)は,何者かがカスパーに対して人間の尊厳そのものへの罪を犯したと論じ,カスパーの身に起きたこととは最大級の残忍な人権蹂躙であると憤激している.
その有名な例は,フランスのアドルフ・フィリッペ・デネリー監督のドラマ「カスパー・ハウザー」(1838年),ヤコブ・ヴァッサーマンの小説「カスパー・ハウザー 心の悲劇」,並びにペーター・ハントケのドラマ「カスパー」(1968年)である.
クルト・トゥホルスキーは,一時カスパー・ハウザーという筆名で執筆していた.ドイツ語のシャンソンでも,ラインハルト・マイのような人も,「カスパー」と題する歌を作曲し歌っている.ヴェルナー・ヘルツォークは,ブルーノ・Sを主演に,「カスパー・ハウザーの謎」(原題 Jeder für sich und Gott gegen alle, 1975)のタイトルでカスパー・ハウザーの物語を映画化した.ペーター・ゼアも,この素材を1993年再度映画化している.タイトルは,「カスパー・ハウザーー1人の人間の心的生活への犯罪」で,アンドレ・アイゼルマンの主演によるものである.ペーター・ゼアは,この作品では世継説の立場で物語を作り上げている.
また,ベルリンのパンクロックバンドには,カスパー・ハウザーの名からバンド名をとって,カスパー・ハウザーバンドと名乗っているグループもいる *1
カスパーが口に出して言える言葉は,「おとうさんのような軍人になりたい」「わからない」「うちの馬」の三語だけだった.どんな質問にも,これ以外に応答する術を持たなかったのである.警察当局も困りはて,仕方なくカスパーを浮浪罪でフェスナー塔に監禁することにした.当時の市長は,カスパーを市費で養う代わり,市の見世物にすることを承認しカスパーは「ニュルンベルクの孤児」と異名をつけられた.そして,宗教学者ゲオルク・フリートリヒ・ダウマー(Georg Friedrich Daumer)の下で読み書きを学び,フォイエルバッハがカスパーの保護者となり観察記録を残した.すなわち本書である.ダウマーやフォイエルバッハの努力により,カスパーはさまざまな知識を得て流暢な言葉を操れるようになっていく.それは初めて得る知識というよりも,昔知っていた言葉を思い出すかのようにすさまじい吸収ぶりだったという.この頃から,カスパーは当時の貴族バーデン公(Max von Baden)に似ていること,さらに,当時の王侯貴族だけが受けていたとされる種痘のあとが発見されたことから,カスパーは元々,高貴な人物の血を受け継いでいるのではないかという噂が人々の間で囁かれ出した.フォイエルバッハはこの説を強く信じ調査書まで書き上げたが,貴族たちはカスパーのことを疎ましい存在と考えていた.言葉が流暢になったカスパーは,回顧録を書きたいと言い出した.周囲の期待もあり,ただちに彼の取りかかったこの大仕事により,カスパーの言葉で書かれたその文章にはおおよそ次のような彼の生い立ちが記されていた.
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Title: KASPAR HAUSER ODER BEISPIEL EINES VERBRECHENS AM
SEELENLEBEN EINES MENSCHEN
Author: Paul Johann Anselm von Feuerbach
▽ 『カスパー・ハウザー』A・v・フォイエルバッハ ; 西村克彦訳
-- 福武書店, 1991
(C) Paul Johann Anselm von Feuerbach, lapse