死ねば蝶になって あなた方の袖にたわむれよう

樋口一葉(1872-1896)は、明治文壇の才媛として、近代文学史に今なお燦然と光を放つ作家である。本名は「奈津(なつ)」という。筆名「一葉」は、明治24年19歳の時、東京朝日新聞記者兼専属作家(当時)半井桃水(1860-1926)について小説の手ほどきを受けた頃に、使い始めたとされる。
ちなみに、「一葉」の名は、その昔達磨大師(382?-532)が揚子江を渡る時に、足がなく一枚の葦葉舟に乗った、という故事に由来する。つまり葦を足、あし(銭)にかけて、「達磨さんも私も、おあし(銭)がない」と愉快がっていたという。
24年間の短い生涯で、樋口一葉は『たけくらべ』『にごりえ』などの代表作のほか、4000首に迫る和歌、15歳から晩年にいたるまでの日記を残している。
貧しい教育に甘んじながら、明治以降の文学史に名を刻み付けた一葉は、薄倖にしてミステリアスな閨秀として広く認知されてきた。瀬戸内寂聴(1922- )は、しかし一葉の実像はそうではないと持論を展開してみせる。
論点の核ともいえる視点が、一葉「処女説」と「非処女説」である。いささか過激な2説ではあるが、瀬戸内は著書中、この点をかなり重視し、しかも力説している。一葉の残した日記には、半井桃水に金を無心したことは一切記されていない。しかし、実際には毎月15円(当時)受けていたことが判明している。
また、天啓顕術師(占い師)久佐賀義孝(1864-?)に援助を求めたが、久佐賀は見返りに一葉に妾になるよう迫った。しかし一葉は「きっぱりと拒絶した」と日記に記している。それにもかかわらず、そのしばらく後に久佐賀から月々15円の援助を受けているのだ。
「何もしないで男が女に15円やるかな、いまでいえば何十万円になるか。私は知りませんね、そんな崇高な男(笑)―中略―
久佐賀によって彼女は性に目覚めたんではないか。それで『にごりえ』が書けたんではないか。だから『たけくらべ』を書いてるころに久佐賀との関係が時期的にだんだん進んでいったと思うんです」*1
ちょっと飛躍が過ぎるな、と思う。「非常に私の独断で」と一応断ってはいるが、生活状況と作品の巧拙の関連が安易過ぎないか。『たけくらべ』は、当時の女流作家が描写したにしては画期的な性的場面がある、と絶賛するけれど、だからといって瀬戸内のいうほど一葉が性に奔放であったわけではないと思うのだが。ただ、研究一辺倒にならない推測としては面白い。
これに対する日本文学研究者、前田愛(1931-1987)のコメントが真面目で笑える。
前田「ぼくは瀬戸内さんのように、一葉が半井桃水、あるいは久佐賀義孝と体の関係があったということは、資料が出てこない限り書けないし言えない」*2
瀬戸内「学者の辛いとこ」*2
別に辛くはないのである。
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▽『炎凍る 樋口一葉の恋』/瀬戸内寂聴/小学館/2004年
© Jakucho Setouchi 2004
*1 本書/pp.222-223
*2 本書/p.230
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