映画が公開されている「博士の愛した数式」を読みました。
小説を読むことはめったにないのですが、夢中になってしまい、電車を乗り過ごしたりしながら、1日のうちに2度読みました。
交通事故の後遺症で、記憶が80分しか持続しない数学博士と、20代の家政婦、彼女の10歳の息子、それに、めったに出てこない、博士の兄嫁の物語です。
私は算数から数学になった時(中学生)から、もう落ちこぼれていました。
「中学の授業で、『学』という字がつく勉強は数学だけである」と、先生が意気込んで教えてくださったのに、
-1×-1=1
-1-(-1)=0
というところで、もうわからなくなってしまったのです。(え、どうして?)と、驚き、ずーっと考えている間に、虚数だとか、底数だとか、どんどんわからないことが増えてきました。高校では数三まで進んだらしいのですが、全く記憶がありません。高校の模試では、まぐれで正解になるかもしれないマークシート方式だったにもかかわらず、100点満点で、9点しかとれなかったこともありました。
そんな私ですが、5~6年前に、たまたまラジオで、秋山仁の「高校数学入門」を耳にして、テキストを買ってみたことがありました。テレビじゃないので、目の前に数式が書かれているわけではありませんが、「博士」が言うように、声に出して読む数式のリズムに魅了されました。ラジオから聞こえてくる「エラトステネスのふるい」「カプリカというインドの数学者…」という単語を、ドキドキしながら聞いていました。
この「博士の愛した数式」は、そのときのワクワク感をもう一度、思い出させてくれました。もっとロマンチックな、ファンタジーでした。
大島弓子の漫画の世界のようです。博士が、家政婦の10歳の息子に、ルート(√)と名付け、「どんな数字でもいやがらず、自分の中にかくまってやる、実に寛大な記号だ」というあたりは、『いちご物語』のいちごが、「みんな屋根の中に入ってしまっているのはなぜですか?」と、数学の教師に質問したことを、思い起こさせました。記憶が47歳で止まってしまった博士と家政婦の設定は、『金髪の草原』の「日暮里となりす」のようです。
でもこの本がもっと希望に満ちあふれ、力強いのは、数学のロマンのせいでしょう。博士の記憶が止まる以前の、江夏豊と、数字が、巧妙なトリックのように組み込まれています。
数式を覚えるのではなく、思いつく素数を手で書き出してみる。思いつく数字を書き出して、その中になにかないか眺めてみる。見つけたものが、何百年も前に誰かによって発見されている当たり前のことでも、そのとき自分が初めて見つけたものなら、それはやっぱり感動するものだと思います。
「ミルマスカラス」というプロレスラーと、「ミルフィーユ」というお菓子、「ミリグラム」という単位から、(もしかして「ミル=1000」?!)と気づいた小学生の時の感動を、私はまだ忘れていません。
そして、「分数の横線は定規をあてて書くこと」と言っていた、化学のマツムラ先生や、漫画研究会の顧問で、研究室に遊びに行くと、ビーカーでコーヒーを入れてくれたキタジマ先生、ストーンズ宛のファンレターの、「Dear Guys~」を「Dear gentlemen」に添削してくれて、ストーンズ初来日の時には、わざわざ電話をくださったカイ先生などを思い出しました。
小説を読むことはめったにないのですが、夢中になってしまい、電車を乗り過ごしたりしながら、1日のうちに2度読みました。
交通事故の後遺症で、記憶が80分しか持続しない数学博士と、20代の家政婦、彼女の10歳の息子、それに、めったに出てこない、博士の兄嫁の物語です。
私は算数から数学になった時(中学生)から、もう落ちこぼれていました。
「中学の授業で、『学』という字がつく勉強は数学だけである」と、先生が意気込んで教えてくださったのに、
-1×-1=1
-1-(-1)=0
というところで、もうわからなくなってしまったのです。(え、どうして?)と、驚き、ずーっと考えている間に、虚数だとか、底数だとか、どんどんわからないことが増えてきました。高校では数三まで進んだらしいのですが、全く記憶がありません。高校の模試では、まぐれで正解になるかもしれないマークシート方式だったにもかかわらず、100点満点で、9点しかとれなかったこともありました。
そんな私ですが、5~6年前に、たまたまラジオで、秋山仁の「高校数学入門」を耳にして、テキストを買ってみたことがありました。テレビじゃないので、目の前に数式が書かれているわけではありませんが、「博士」が言うように、声に出して読む数式のリズムに魅了されました。ラジオから聞こえてくる「エラトステネスのふるい」「カプリカというインドの数学者…」という単語を、ドキドキしながら聞いていました。
この「博士の愛した数式」は、そのときのワクワク感をもう一度、思い出させてくれました。もっとロマンチックな、ファンタジーでした。
大島弓子の漫画の世界のようです。博士が、家政婦の10歳の息子に、ルート(√)と名付け、「どんな数字でもいやがらず、自分の中にかくまってやる、実に寛大な記号だ」というあたりは、『いちご物語』のいちごが、「みんな屋根の中に入ってしまっているのはなぜですか?」と、数学の教師に質問したことを、思い起こさせました。記憶が47歳で止まってしまった博士と家政婦の設定は、『金髪の草原』の「日暮里となりす」のようです。
でもこの本がもっと希望に満ちあふれ、力強いのは、数学のロマンのせいでしょう。博士の記憶が止まる以前の、江夏豊と、数字が、巧妙なトリックのように組み込まれています。
数式を覚えるのではなく、思いつく素数を手で書き出してみる。思いつく数字を書き出して、その中になにかないか眺めてみる。見つけたものが、何百年も前に誰かによって発見されている当たり前のことでも、そのとき自分が初めて見つけたものなら、それはやっぱり感動するものだと思います。
「ミルマスカラス」というプロレスラーと、「ミルフィーユ」というお菓子、「ミリグラム」という単位から、(もしかして「ミル=1000」?!)と気づいた小学生の時の感動を、私はまだ忘れていません。
そして、「分数の横線は定規をあてて書くこと」と言っていた、化学のマツムラ先生や、漫画研究会の顧問で、研究室に遊びに行くと、ビーカーでコーヒーを入れてくれたキタジマ先生、ストーンズ宛のファンレターの、「Dear Guys~」を「Dear gentlemen」に添削してくれて、ストーンズ初来日の時には、わざわざ電話をくださったカイ先生などを思い出しました。
いた私にはどうも「恩師」という印象が
薄いのです。でもとーこじーの学校には
ユニークでいい先生がたくさんいらしたの
ですねぇ。
大島弓子の漫画みたいってのが惹かれますな。
私達世代にはあの世界はたまらんです。
ところで「ミルサー」も1000からきてるのか?
(平日はどうもレス遅め&間抜けな内容でスマン)
ユニークでいい先生がたくさんいらしたの
ですねぇ。
私は子供の頃、「子供になつかれたことがない人」になついて、養女にならないか、という話が出たくらいで、好みの大人のタイプが、他の子供とはちょっと違っていたのかもしれません。
一般的な他の先生方とは、むしろ敵対関係にありました(^_^;)。
映画では、家政婦役が深津絵里だけど、私のイメージぴったりです。
> ところで「ミルサー」も1000からきてるのか?
ミルサーは「mill」…コーヒーミルとかの、「臼」っていうところからきているんじゃないかな。
でも、「臼」も、「ひとつのものを、細かくたくさんに(1000に)砕く」てな語源かもしれませんぞ。