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神さまの話  追記

2024-08-05 13:26:04 | Weblog
「闇に向かってした話」については、長い間書こうと思いながら延び延びになっていた。今回ようやく書きおおせたのは、ドイツ文学の碩学である手塚富雄氏の著作に触れたからだが、まさかこんなに長いものになるとは思わなかった。わたしにもう少し知識と文章力があるならこんなことにはならなかったのかもしれない。
本文中にはとても書ききれなかったリルケの到達点とも考えられる詩をひとつ書き写して、読者の理解の参考になればと思っている。リルケが最後に到達したもの、「世界内面空間」と名づけられた、内面においての全一の実現を見事に表現したものだと言える。
この詩も手塚氏の翻訳による。他の翻訳もいくつか読み比べたところ、やはり手塚氏のものが群を抜いている。
 
  「心の山の頂きにさらされて」

心の山の頂きにされされて。見よ、あそこになんと小さく
言葉の最後の村落が。そしてその少し高みに、
(けれどもこれもなんと小さく)感情の
最後の農園が。おまえにそれが見えるか?
心の山の頂きにさらされて。手を置けば
岩肌の地。ここにもたぶん
いくつかの花は咲こう。無言の絶壁からは
一本の無心な草がうたいながら咲き出る。
けれど知る者は? ああ 知りはじめ
そしていま沈黙する者は? 心の山の頂きにさらされて。

そこには まったき意識をもって、
歩きめぐるものもいる、いくつものやすらかなけものが、
こもごも現れてさまよう。そして大きいまもりのなかにある鳥が
絶嶺の純粋な拒否をめぐって飛んでいる。―けれど
まもりから離されて、この心の山の頂きに……



この詩は後期詩集に収められているものだが、リルケの代表的な詩集である「ドゥイノの悲歌」などは検索してみると手塚富雄訳がまだ手に入るようだ。翻訳の質、行き届いた解説では今でも右に出るものはないという評判がある。
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