人間様の生涯というものは長いようでいて短かなものである。 ここ数年間というもの、身内、同僚、そして先輩達がバタバタと急逝して行く・・・ 身近では、一番頼りにしていた弟が急逝してしまった!!! 昨年暮れには少々気弱に感じてはいたが、正月明けにこの世を去り、いよいよ我にも迫って来たな!!!と痛感した。1歳半離れてはいたが年子で幼い頃から殆どの行動を共に歩んできた・・・ 戦後まもなく母親は病気がちで殆どの歳を床に伏し、この代役を私と弟が熟して来た。 親父さんは能天気で家の事には殆ど触れなかったのでお勝手回りの99パーセントは私と弟が熟していた・・・ 兄の私は、家畜や兎、鶏等の草取り餌遣りを始め、撒き割り、鶏小屋、兎の飼育箱造り等、畑仕事では、開墾起こし、種撒きの中枢として関与していた。親父さんは暢気の父さんで総監督みたいな存在で余り積極的ではなかった。畑への堆肥運びとなると近くの丸通から台車を借り子供達で畑まで飛ぶように運んでいたものだった。戦時中~戦後間もなかったので何処の家も火の玉状態で生きて行く為の戦いだった。年を取るに従い、こういう時代を懐かしく思い出すこの頃である。
このお正月に亡くなった弟は中学生になり掛けた頃から抜群の頭角を現し出し、学業ときたら東京から疎開して来ていた、薬造りの親父さの息子と競うよう学業成績を成し山の中の寂れた学校では学年を問わずして有名だった。薬造りの親父さんは、農協周りの空き地でサッカリンのような甘い薬品を製造していた。餓鬼共は、中身も解らないままこの甘い薬品に惹かれ縄を持って行ってはドラム缶を開け、縄を落としこれに吸わせて、引き上げ、舐めていた・・・ 本当に日本中が、食に困っていた戦後直後で今にして思えば、スポック的な一時期の超貧困時代だった。 田圃を作り出したが、お米は食べられずホンの少々確保するだけで大方は供出を強要され通しだった。苦しかったが今思えば、人生の中で一種の人生観を変えるエポック的存在の時代だった。 餓鬼共がこのような時代だからさぞかし親達は大変だっただろうと想像する・・・芋泥棒、干し柿の盗難等は日常茶判事で一時、遊び仲間の親父がジャガイモを泥棒して捕まり遊び仲間のお小僧さんは皆から村八分され可哀そうだった。
高校に入るころから、幾らか日本中の皆の生活が確保され出した・・・ この時代は、野球が大好きで駅前の広場では三角ベース!!! 家の着物類を盗み出し、これを短冊に切り裂いてグルグル巻きにし布ボールを作り、バットは、盗んで来た櫨棒だった。 グローブは、手造りの布グローブ!!! 父の兄者の義理の姉がミシンで縫ってくれ真っ黒なグローブが出来上がった時は嬉しかった。これを駅前の庭で餓鬼共は真っ暗になる迄遊んでいた・・・ 我家は駅前にあった2階屋だったので、時々、襤褸ボールでもこれが当たりガラスが割れる被害を出していた・・・
こんな遊びの傍ら、夏から秋に掛けては蝉、カブトムシ取り、『スガレ追ひ』の連日で野外遊びには事欠かない最高の時代だった。中学から高校時代、草野球に明け暮れ、高校では野球部に入りたく、野球の出来る高校を選んだ。1~2年は野球部に入るか毎日のように相当苦しんだが、汽車通という大きなハンディーがあり、苦しむだけで勇気が出ずしてモゾモゾ!!!!!! 隣の家の君(きみ)くんは、補欠だったが、華々しく、野球部のピッチャァーを熟していた。何処からの情報だったは知らないが、2年生の時、英語の宮坂先生から呼び出しがあり、庭の連れ出され、野球部の監督の前で「お前、投げて見ろ!!!」と、言われ、トライした事を思い出す・・・ 相当強く、勧誘されたが、汽車通を考え、また、親父さんから「野球で飯は食えないよ!!!!」ともいわれグラついた日々を長い間送っていた。野球部の君君(きみぎみ)が進級単位が取れずザワツイテいた時代でもあった。 そうこうしている内に何とあの有名なピッチャをしていた太田君が野球部を辞めた!!! 詳しい事はわかなかったが、我が授業クラスの文武両道の太田君が辞めたことによって、詳細は解らねど、『そういうもか?』と・・・野球熱が急に冷めて行った・・・ しかし、バレー部に五味君という君が居た。文武両道!!! お勉強もTopクラスでバレーでは全国一を誇る我校に在って2年生の時からセッターをしていた・・・背丈は小さいが凄い子だった!!!後に日本代表のストライカーにもなった田島さんのセッターをやり遂げていたのだから凄い君だった。運動部と学業で両立させていたのはこの二人だけで餓鬼共は皆尊敬の眼差しの何物でもなかった!!!
こう言う浮ついた考えは2年生の3学期までで、運動部への憧れは、消滅の一途を辿って行く・・・ 不思議なものである!!! 親父さんの勧めで大学進学を考えだした・・・3年生になってからだ・・・ ライバルにしていた君が居た。 3年間ず~~~っと一緒で今井君と言う。 非常に大人しい子で勉学もトップクラス。数学が別格強かった。何処からんか良くなったかは判らないが、一期校:東北大学と知り、俄かに親密になる。我は、最初から東京の大学は我家の財政経済は無理だと解って居たのと、近所の1年先輩が東北大学に現役で入って居たのでこれが羨ましかった!!! 我家は貧乏屋!!!私立大学等入学金と聞いただけで到底親爺さんの脛を齧られる様な存在ではなかった。 このような諸々の経緯があり、今井君とは非常に仲良しになった。が、二人とも現役では一期校は敵わなかった!!! また、この時代、両角君と言うとても良い子がいた!!! 学部は違ったが、二人共現役で2期校に入る事が出来、学生時代は、仲良しだった。今はどうしているのだろう? 何十年と時が経った!!! 時々思い出し、会いたい気がする・・・ 晩年、保谷硝子の工場長等していたようだ。とても良い子だった!!!
兄弟の中でも年が近かった所為か?弟はトントンと日本を背負って立つような存在になって行った。世界の学会でも座長等年々務め、我の世界とは全く違っていたが、日本の各財団からも研究費等数回に渡り受け、両親を非常に大事にしていた・・・親父さん、鼻高の息子だった!!! 学者の家系だって所為か? 親子揃った学者だらけ!!! 非常に面倒見の良い弟で、亡くなる寸前まで『姿勢を正せ!!!』『寝る時は水を飲め!!!』と・・・、行動鈍いこの老い耄れ爺:我に言い続けていた・・・
学生時代、今思い出すと不思議な時代だった。 何事も自分で意思決定できぬまま、フラフラと流れ及んでいた不思議な時代だった・・・ それにしても弟の急逝は超急だったので切ない!!!
こんな老い耄れ爺も、愈々、終焉を迎えようとしている。 昨日も、この糞暑い中、庭師に Give Up を宣言された庭先の門被りの松の遅まき手入れをしている・・・ 庭師が急に膵臓癌を言い渡されたのだからお先真っ暗になった!!! 老い耄れて、頼りにして来た庭師の消失!!! 正直、途方に暮れた!!! 今時、今迄の様な庭師師匠等そう簡単には見付けられない!!! 見よう見まねの老い耄れ爺が手を入れるしか使用が無い!!! 痛む足を引きずりながら、セコセコと伸び切って松の剪定に明け暮れている・・・ 果たして出来切れるだろうか? 実に、怪しい所である!!! 悪い時には悪い事が連発する・・・
パソコン師匠と鼻高々に作り上げてきたパソコン: IBMの『 ホームページ・ビルダー 』 の書き込み編集が出来なくなってしまった!!! 作者:師匠も Give Up !!! され、ネット業者も居れ検討中だが、何となく怪しい? また、明日来てくれるというが、回復や如何に? 悪い事は繋がる!!! このカキコが、9月イッパイで廃盤になってしまう!!! 継承サイトもあるようだが、この老い耄れには切り替えも荷が重い!!! 脳味噌の働きに自信が持てないので、今、専門家にSOSを発しこの難問を解いて貰う事にしつつある・・・ 原因や如何に? 再入力も及ばず!!! その原因すら判らない!!! 我が人生を図星で見ているようだ?
脳味噌が働ける限り続けよう!!!と色々な難問に立ち向かっている真夏日の毎日である・・・
ウクライナの人々は、この何十倍、何百倍もの苦役に耐えているのだから克服しなくちゃぁ~とさえ考えても居る・・・