明神公約

広大な宇宙の存在の意味

霊の世界

2013年11月29日 | 神への道案内

 

 

霊の世界


 

死後の世界と言えば、少しおかしい言い方なような気がするけど、

特別に死後の世界が地球上に設けられているわけではない。

幼虫がさなぎに変わり、さなぎが蝶に代わるような感じで、

幼虫から見た世界、蝶から見た世界が違うように、

肉体を介しての魂から見た世界、霊から見た世界の違いである。

 

全て地球の中の世界であり特別な世界ではない。

 

我々の周りに霊が浮遊している、

霊は新たな肉体に入り込もうともがき苦しんでいる。

受精した時点で霊は肉体に結合して魂となる。

 

輪廻転生の繰り返しである。

 

目を閉じてみて現代から遡ってゼロ歳の記憶まで辿り着き、

今度は母親の胎内にいた時の記憶を辿ってみると、

胎内の中での記憶を覚えている人が案外多い。

 

それは暗闇の中、明かりがボンヤリ見え母親の鼓動までも思いだし、

もっと記憶が鮮明な人は母親が何か行動起こした時の記憶を思い出せる。

 

そのあとは、霊の時期まで思い出せる人もいる。

 

でも、、、、それは、

霊の時期の苦しい事ばかりである。

だから中々思い出せない。

思い出すのが苦痛であると言った方が正しい。



 


 

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宗教改革

2013年11月27日 | 神への道案内

 

 

 

イエス・キリストはその時代の宗教権力者によって処刑された。

 その時代の宗教権力者は力があり、

 それらに、刃向う者に迫害、残虐、阻害、屈辱、などを繰り返してきた。

 イエス・キリストは神の御使いとして、

それらの迫害などを受けた人々を救うために宗教権力者と戦い処刑された。

 

言わばイエスの宗教改革である。

 

イエスによって宗教改革が進展し、キリスト教の教えが浸透した。

しかし、

イエスの死後、

今度はキリスト教の乱れにより、色々な聖典がが出来上がった。

色々な間違えの教えのもとに、

あの悪名高き魔女狩りが生まれた。

 

宗教の聖典、

特に聖書は神の言葉と共に悪魔が書き加えた箇所もあり

時代と共に宗教改革しなければ、悪魔が書き加えた箇所を神の言葉と捉え、

間違った教えをそのまま鵜呑みにして、益々争い事が絶えなくなる。


例えば、

詩編にも神は何万人、何千万という人間を殺している事に成っている。

聖書を読んだことがある人なら分かると思う。

神が、

ある民族だけの為に何万人、何千万人残虐する事が無い筈である。


ある宗教団体は、

輸血を禁じている。

何故か?

聖書中に、血の滴る肉を食べてはならないと言う項目がある。

それを、

変な解釈で輸血をしてはならないとして、

輸血で助かる子供も死に至らしめる。


数えたらキリがない。


今この時期に、

キリスト教の宗教改革が必要である。

福音書が250位から現代の4つに振り分けられたように、

福音書も2つに絞る必要がある。

イエス・キリストが自分の死を掛けたように、

今あらたに宗教改革が必要である。

 

 


 

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キリスト教の暗黒時代の魔女狩り

2013年11月23日 | 神への道案内

 

 

キリスト教と言えば魔女狩りである。

 

15世紀から18世紀の3百年間は人類史上最悪残虐世紀とも言える。

「身の毛もよだつ悪夢、もっとも卑劣な犯罪、最大な恥辱」。

 

キリスト教は、まず悪魔崇拝のイメージを練り上げる。

それを迫害の道具にして異端者を抹殺し、個人を権威者に従わせ、女をあからさまに侮辱したのである。

人類史上最悪残虐と言えるのは、いかなる戦争においても、

大人の男から残虐な目に遭うのが通常である。

魔女狩りは絶対的に女の方から残虐な目に遭い、子供大人と続く。

 

処刑の方法は、

最初は女の身体を調べる。

ホクロでもあれば悪魔と契りを結んだと言う証しで鞭打ちの刑。

その日は殺さず5~6日間激しい処刑を行ない最後に火あぶりの刑である。

 

この事実をキリスト教の信者は知っているのだろうか?

多分知ろうともしないし、臭いものには蓋を閉める方式で闇に葬ろうとしているのかも知れない。

 

今でもキリスト教の信者達は祈る時、

魔女狩りで苦しめた人たちの霊を鎮める弔いはしないと思う。

何百万、何千万人とも言われる人たちを、

残虐極りない方法で殺害した事実があるのに何の罪にも問われない。

 

それ故に益々キリスト教の信者の悩み苦しみは増えるばかりである。

 

せめて贖罪しながら祈るべきである。

 

 

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うつ病や精神疾患に勝つ。

2013年11月13日 | 神への道案内

 

 

うつ病は女性5人に1人、男性は10人に1人の割合で発症するとの事。

日本全国で10人に1人が患っているというデーターも報告されている。

これから先もっと増えるでしょう。

 

昔より科学が発達することで、便利な社会の恩恵の裏に激しい仕事をする人も多くなる。

その流れに追いつていけない人は、うつ病や精神疾患を発症することになる。

 

10年前の2倍のうつ病患者が増えたということは、科学もそれ以上に発達したことになる。

科学の発達は良いこともあるが激しい速さに追いつけない人も、いることは確かである。

 

激しい社会の中で生き残るには、

他人のことを少なからず踏みつける心構えで生きないと、

自分が踏みつけられる。

 

そんな事は無いと反論する人間もいるが、

その人は、

知らない間に他人を踏んづけて生活している。

何食わぬと言えば、例えが悪いが、

知らないうちに他人を踏んづけて生きているのも殆どである。

 

他人を踏んづけて苦しめているのに、

私は悪いことを知らない良い人だと、平気に思う人もタチが悪い。

確かに悪口罵詈を言うて相手がその事で自殺しても、罰せられることもない。

それが子供の苛めや大人社会の苛めにも繋がる。

 

現代社会は他人を踏んづけ苛め抜かないと、

自分が踏んづけられ苛め抜かれることになる。

そんな社会で我々は生きている。

 

現代社会では宗教的な道徳も教わっていない。

尚更、大人はそんな道徳的な教えにも目も呉れず、

金が命と金権主義に走っているので、

子供たちも金権主義で生きていく羽目になる。

確かに最近のテレビを観ていると、殆どが贅沢な人間の賞賛番組が多くなっている。

それに何の抵抗も感じなく、金の為ならある程度の、

人の絡みも金に計算する。

 

昔の日本人の偉いところは金儲けの前に技術先行であり、物造りの日本社会構造でもあった。

今は物造りより金儲けである、全ての人が金儲けに走り、

その流れに追いつけない者は、負け組として人間処分である。

 

これから自分の身を守るのに必要なのが、テコでも動かない宗教心が必要である。

昔の人は、宗教社会と現世社会と上手く付き合っていた。

宗教の念仏は成功者と言われる人の名言とと似通っている。

同じ言葉を繰り返すことにより強い精神力を作り上げる効果がある。

 

現代社会を生きる力は、虐待、苛め、悪口罵詈にも負けない強い精神力が必要。

精神疾患に陥たくなければ、祈ることである。

ただ祈るのではない。

 

合掌と瞑想、

 

ごうしんぞうこう、けんしんとうたつ、

そうごうぜんけん、みょうしんこうやく、

こうやくてんしん、おうこうぜんりょう

 

何度も唱えることである。自然と強い精神力が身につく。

信じる信じないの前に、

百考は一行にしかず。

 

 

 

 

 

 

 

 

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救われない魂

2013年11月11日 | 神への道案内

 

 

世の中には救われない魂が存在する。

どんなに手を差し伸べても払いのける。

溺れかかっていても手を払いのけ苦しみ、のた打ち回る。

自分は不幸だと嘆き悲しむのに、人の親切心に唾を掛ける様に振り払う。

自分から不幸を招き入れ、どうしても救われない人がいる。

 

元々不幸をが好きなのかと思いたくなる。

確かに世の中にはSとMが存在するように、

自分の不幸に快楽を見出しているのかも知れない。

 

神が手を差し伸べても払いのける。

神も人間的な表現な言い方だと、

肩をすくめて手をひろげ何とも成らないと言う思いかも知れない。

 

神は常に平等である。

けど、救いを求めず神を罵れば手の施しようが無い。

ヤハリ神は、

救いを求める人を救う。

霊地獄の中でも神は祈り救いを求める人の霊を救う。

 

自分から他人の忠告も聞かず、只不幸を求める人を誰も救えない。


それはそれで良いのかも知れない。

そんな意固地な人の魂を救うならば、もっと苦しみ悩む人を救った方がまだましだ。

地獄へ落ちたいのは、その人の勝手に地獄に堕ちればよい。

 

他人に無関心で、他人の苦しみを、自分の苦しみとして捉える事の出来ない人が、

地獄に陥る事は至極当然である。

自分の不幸を嘆いて他人の親切を唾で返す、エゴの塊の様な大部分の人間が幸せである筈はない。

他人の事や他人の為に出来る人間が貧しくても幸せであることに間違いはない。

これに異論を唱える人間こそ、

エゴの塊で地獄行きの切符を配られてもオカシクナイ。

 

地獄を恐れないと言う人に、

人が死を恐れる意味を考えたらよい、

死後の霊の世界を知ら無いと言う割に死を恐れる。

死を恐れると言う事は、死後の霊の世界の苦しみを知っている事の他にない。

何度か輪廻転生を繰り返す内に、魂が霊の世界の苦しみを知っている証でもある。

死後の恐ろしさは、人の魂に深く刻まれている。

それ故に人は死を恐れる。未知なる恐れとは違う。

この世が苦しいから自殺すると言うけれど、


死後の霊の苦しみはもっと苦しい。

 

 

 


 

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