昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

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転載 縄文人の悠久なる旅2

2012-01-13 12:58:51 | 歴史・神秘
エクアドルで発見された縄文土器
太平洋の遥か彼方日本から1万5000キロも離れた南米のエクアドルのバルデイビアで、多数の縄文土器が出土した。
鑑定の結果6000年前の縄文土器で、西日本から太平洋を渡って導入されたと発掘者のスミソニアン博物館、考古学者K・エバンス、B・メガーズ夫妻とエクアドルの考古学者E・エストラーダ3人が日本各地の縄文土器の調査を行い結論が出された。

縄文土器は1万2000年前、縄文人が日本列島で縄を押し当てて文様をつけた土器で、それまで地球上の人類が土器と言うものを知らなかった。ヨーロッパ最古の土器は7500年前であるから、縄文土器は間違いなく世界最古級の土器で、北は千島列島から沖縄まで、広く日本列島に分布している。

縄文人が、この人類史上画期的な大発明によって、単に温かいものが食べられるようになったばかりか、煮炊きする事でしか得られない栄養素を摂取する事が出来、栄養学的にも飛躍的な進歩を獲得した。
その事は生命維持、体力増進、運動能力、作業効率の向上、長命、病気予防といった計り知れない恩恵をもたらし、豊かな食文化を持ちえた縄文人は、アジア人の中でも長生きであって、その事が中国の人達からは日本を不老長寿の国として憧れられた。

縄文人の土器はユニークなその文様で日本中何処へ行っても同じバリエーションのデザインで、これは縄文人が列島を移動した事を表す。ゴテゴテした縄文土器独特のデザインは縄文人の宇宙観を表しているのであるから、縄文人が直接作るか、直接伝授しなければ真似る事が出来ない。
と言うことは日本列島に留まらず、海を越えてはるかな旅を経て、南米の太平洋側エクアドルまで行っていたと言う事になる。

K・エバンス博士はエクアドルの海岸に流れ着いた日本の木材は3ヶ月前に紀伊方面を襲った台風で熊野川の洪水で流出した木材と判明し、海流に乗ると南米の太平洋沿岸まで漂着する事実で、縄文人が太平洋を丸木舟で渡来した事を確信した。
丸木舟で果たして3ヶ月間も生命が保てたかは、小形ヨットで3ヶ月間単独太平洋横断した堀江謙一氏が証明しているし、復元された古代船「野生号」は太平洋を横断しエクアドルに到達し、縄文人が遥かな航路を乗り切った事は疑いの無い事実であろう。

中国の史書「魏志倭人伝」にそれを示唆するような記述がある。
『女王国の東へ、海を渡って千余里のところにまた、国がある。みな、倭の種族である。また、侏儒(しゅじゅ)国がその南にある。この国の人の背丈は三、四尺で、女王国からの距離は四千里余りである。また、裸国や黒歯国がその東南にある。其処へは船旅一年で着く。』

女王国は卑弥呼(ひみこ)で有名な邪馬台国(やまたいこく)のことで、ここから約千里航行した所(当時の距離を現代の距離に換算すると約434キロ)にも倭の種族が住む土地があった。
さらに南に四千余里(約1736キロ)に侏儒国つまり背丈が72~96cmぐらいの小人国が有り、この国から一年の航海で裸国と黒歯国に行く事が出来ると、倭人の体験を記録されている。

具体的に地名を当てはめて見ると、邪馬台国を北九州説では、東に船旅400キロというと、だいたい室戸岬周辺になり、ここから南に1700キロ航行するとサイパン島の北に位置する。

サイパン島やミクロネシアには実際低身長の人達が住んでいた。現在もサイパン島は太平洋交通の要石として重要な地位を占めている。そしてサイパン島から東南に線を延ばすと、やがてエクアドルやペルーに到着する。

耶馬台国大和説から見ても、奈良から400キロで伊豆諸島周辺になり、南に1700キロでやはりサイパン島に辿り着く。裸国と黒歯国は魏志倭人伝に記述されているように航行すると南米に到達する。
日本列島とエクアドル間には「南太平洋・ポリネシア横断線」と名付けてもいいような丸木船航路が存在していたと推察される。

航海途中に停泊し、水や食料を補給出来る「縄文人の港」が南太平洋の島々に有り、船の修理や休養を執った筈で、その「縄文人の港」にはサポートに当たる縄文人が住んでいたと思われる。
であれば、南太平洋の島にも「縄文人の痕跡」が残ってなければならない。

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