前述のように日本軍の降伏した2日後、1945年8月17日に後の正副大統領スカルノとハッタは急遽インドネシア独立を宣言する。しかしオランダは 再植民地化しようと軍隊を送り込み、インドネシアは4年5ヶ月もの独立戦争を戦わねばならなかった。この中心となったのが、ルビスら日本軍によって鍛えられた義勇軍だった。
日本兵の中にはインドネシアの独立を約束しながら敗北した日本軍に抗議し、日本人を捨てる覚悟で、部隊から離脱してインドネシアの独立を助けようと、日本に帰国する船に乗らなかったのは、スマトラで約500人、ジャワで約300人、軍属・民間人を含めると、残留し独立戦争に参加した日本人は千人とも二千人ともいわれている。
残留日本軍兵士と民間の日本人らが武器をとって、インドネシア人と共に命をかけて独立のために戦った。スラバヤでの戦闘は凄烈なものだった。日本軍人は常に先頭にたってイギリス・オランダ軍に向かっていったので犠牲も多かった。日本人の戦死約400名。残留日本兵の話では約800名とも言われる。
市来龍夫、吉住留五郎もそんな元日本兵だった。東部日本人部隊の指揮官として戦い敵地工作を担当した。
しかし吉住は昭和23年山中転戦の途中に結核で病死、市来は独立直前にオランダ軍により頭部を打ち抜かれて戦死した。この市来の死はインドネシア独立のわずか10ヶ月前のことだった。
彼ら二人の墓はカリバタ国立英雄墓地にあり、東京港区の青松寺にはスカルノが二人に捧げた石碑が建てられている。
市来龍夫君と吉住留五郎君へ
独立は一民族のものならず 全人類のものなり
1958年8月15日 東京にて スカルノ
そしてこの碑文の裏には次の様に記されている。
日本兵の中にはインドネシアの独立を約束しながら敗北した日本軍に抗議し、日本人を捨てる覚悟で、部隊から離脱してインドネシアの独立を助けようと、日本に帰国する船に乗らなかったのは、スマトラで約500人、ジャワで約300人、軍属・民間人を含めると、残留し独立戦争に参加した日本人は千人とも二千人ともいわれている。
残留日本軍兵士と民間の日本人らが武器をとって、インドネシア人と共に命をかけて独立のために戦った。スラバヤでの戦闘は凄烈なものだった。日本軍人は常に先頭にたってイギリス・オランダ軍に向かっていったので犠牲も多かった。日本人の戦死約400名。残留日本兵の話では約800名とも言われる。
市来龍夫、吉住留五郎もそんな元日本兵だった。東部日本人部隊の指揮官として戦い敵地工作を担当した。
しかし吉住は昭和23年山中転戦の途中に結核で病死、市来は独立直前にオランダ軍により頭部を打ち抜かれて戦死した。この市来の死はインドネシア独立のわずか10ヶ月前のことだった。
彼ら二人の墓はカリバタ国立英雄墓地にあり、東京港区の青松寺にはスカルノが二人に捧げた石碑が建てられている。
市来龍夫君と吉住留五郎君へ
独立は一民族のものならず 全人類のものなり
1958年8月15日 東京にて スカルノ
そしてこの碑文の裏には次の様に記されている。
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