昭和は遠くなりにけり この国を愛し、この国を憂う がんばれ日本

昭和21年生まれの頑固者が世相・趣味・想いを語る。日本の素晴らしさをもっと知り、この国に誇りを持って欲しい。

本ブログ終了のお知らせ

2016-06-10 02:25:45 | 政治・世相
事情により、本日をもって新規記事のアップは終了いたします。
永らくのご愛読ありがとうございました。
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You Tube映像の世界6 ブータンを幸せの国にした日本人 ブータン農業の父 西岡京治

2016-06-01 01:49:02 | 日本の素晴らしさ
テレビ番組の転載であるがブータンで農業指導して亡くなった後に国葬までされた西岡京治さんの姿である。
この冒頭で「しろと言うのでなくやってみせた」との場面がある。
私はこの場面で山本五十六元帥の言葉を思い出した。彼は人を動かすのにこう言う言葉を残している。
やってみせて 言ってきかせて させてみて
   誉めてやらねば 人は動かじ

当にそれを地で行っている、こうした人達が日本の評価を高めているのだ。

ブータン農業の父 西岡京治
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You Tube映像の世界5 とてつもない日本

2016-05-31 01:51:58 | 日本の素晴らしさ
「とてつもない日本」とは麻生太郎氏が外相現役時代に出版した本の題名だ(申し訳ない、私は未読です)。

この一部を抜き出したのがYou Tube動画のようです。ODA協力によって造られたインドの地下鉄での、日本人技術者の働き方がインドに大きな影響を与えた逸話です。
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You Tube映像の世界4 外国人が見た大震災

2016-05-30 01:24:43 | 日本の素晴らしさ
いささか旧い話題とも思えるのだが・・・・・・
東日本大震災は不幸な出来事であったのだが、この災害をきっかけにして日本に対する見方が世界中で変わった。
一方で寄せられた各国の好意に改めて人間の素晴らしさと、日本が果たしてきた過去の積み重ねの重みも知った。

外国人が見た大震災

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You Tube映像の世界2 日本に学ぶ10のこと 

2016-05-28 01:12:03 | 日本の素晴らしさ
東日本大震災は、1000年に一度と言われる大災害でした。
その災害に見舞われた日本人の態度に世界中が驚愕しました。
「なぜ、日本では略奪がおきないのか?」
「なぜ、日本人は冷静に他の人の事を思いやることができるのか?」
今から1300年以上前、聖徳太子が十七条の憲法で、「和をもって貴しとなす。」と唱­えて以来、日本には、和の文化が根付いています。
ここ百年余りの西洋化、個人主義の洗礼を受けても、大和魂のDNAが、脈々と息づいて­いることを、大震災に対応する日本人の態度で実感します。
「日本に学ぶ10のこと」は、世界銀行や国際通貨基金のスタッフの間から世界中に広ま­ったチェーンメールです。それを、動画にしてみました。
以上が作者の解説です。

日本に学ぶ10のこと 
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You Tube映像の世界 日本人が知らないニッポンの魅力 外国人が選ぶ“イイトコ”世界一

2016-05-27 02:23:21 | 日本の素晴らしさ
しばらくYou Tube動画を紹介していきましょう・・・・・・
このYou Tubeって時々宝物のような動画もある。それらの中から厳選して・・・・・

【解説】日本人が知らないニッポンの魅力 外国人が選ぶ“イイトコ”世界一(2022年10月18日)
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日本はどんなによい国か4 こんな言葉・記録が残っている

2016-05-26 03:33:21 | 日本の素晴らしさ
英国のBBC放送が平成18年(06年)世界33ヶ国で4万人を対象とした世論調査に「世界に良い影響を与える国」で日本が最も高く評価された。
33ヶ国で31ヶ国が日本の影響について肯定が否定を上回り、その内で20ヶ国が肯定で50%を上回った。
全体的に見ると半数以上の55%が肯定で、否定したのは18%と言う結果だ。
否定が肯定を上回ったのは、当然反日国家の中国と韓国だ。

最も日本を高く評価してくれたのがインドネシアの85%で、次がフィリピンの79%でした。
アジア諸国に多大な迷惑をお掛けしたと言う菅直人や村山談話は何処を差したのだろうか?

この調査が行なわれた平成18年は、5年5か月間の長期政権の小泉総理が退任した年だった。
彼の靖国参拝で「日本は国際的に孤立する」とマスコミが騒ぎ立てたが、まったく彼らの主張を否定するように、国際的に最も高く評価され、戦禍に巻き込んで多大な犠牲を引き起こしたと言われている東南アジアから、絶大な支持を受けている。

この調査は、引き続き19年、20年と3年連続で第一位に選ばれている。
21年(09年)には、ドイツ、カナダ、英国に続き、日本は四位に順位が下がったが、この年は、むしろ5年間で最も日本を肯定する比率が高いと言う結果だった。
そして昨年22年は、ドイツに続き第二位に評価されている。

世界最大の震災に対し義捐金を送ってくれた台湾で、日本の対台湾窓口機関の交流協会が、「台湾における対日意識に関する調査」の結果が発表された。
台湾の人たちが最も好きな国が日本である事がわかりました。
調査対象には約1千人の男女で、「あなたの一番好きな国(地域)は何処ですか?」と言う設問に対し、中国の2%、米国5%、自国の台湾が31%などを差し置いて38%が「日本」と答えている。
この種の調査では通常自国こそ「最も好きな国」になるはずなのだが、何と自国よりも日本が好きとは驚く他はない。

交流協会は翌年(平成22年)にも、同様の調査結果を発表し、今度は「台湾を除き」としたところ、「日本が最も好き」との回答が、前回に比べ14%増の54%となった。
過半数の人が「日本が好き」であると言う事実は驚くべき事だ。
同じ調査報告によると62%の人が日本に「親しみを感じる」と答え、「親しみを感じない」の13%を大きく引き離している。

「親しみを感じる」と答えた人を、世代別にみると、65歳以上が58%と言う結果だが、20代で72%、30代が77%となっている。
日本の統治時代に日本語教育を受けた70歳以上の世代が親と考えられる世代よりも、むしろ若い世代が最も親日的であると言う事が判った。
また、学歴が高いほど、日本に親しみを感じている事も判った。

日本に対するイメージは、「自然が美しい」が最も多く、「経済力・技術力の高い国」「きまりを守る」「豊かな伝統と文化を持つ国」が続いている。
全体の51%が「伝統文化」、49%が「現代文化、ポップカルチャー」の分野に興味があると答えています。
これ等の調査の評価を、多くの日本人は知らない。
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日本はどんなによい国か3 こんな言葉・記録が残っている

2016-05-25 04:01:44 | 日本の素晴らしさ
107年前に日本海海戦が行われ、この戦いでの勝利が決定打となり、日本は大国ロシアを相手にした日露戦争に勝利する事となり、近代以降、アジアの国で初めて欧米の国を打ち負かすという快挙を成し遂げた。
現代において、私達日本人はこの事実を意識する人はあまりいないかもしれないが、日露戦争においての日本の勝利という事実は、私達の予想以上にアジアの国々に大きな影響を与えている。

スリランカと日本というとあまり結びつきにピンとこない人も多いかもしれないが、スリランカは日本にとって大きな恩人でもある。あるスリランカ人の言葉が、自国の歴史を知らず誇りを失った日本人の胸に深く突き刺さりました。
20紀初頭、セイロン(現スリランカ)建国の父ダルマパーラをして「欧米人のアジア人に対する差別的偏見をなくし、植民地支配という悲劇の中にあるアジアを救う事こそ日本の役目なのだ」と言わしめた日本は、2年後日露戦争勝利によって”白人絶対優位”という幻想から非白人種を解放したのだった。

スリランカ人は日本人に対して同じアジアの民族、同じ仏教国として大変親近感を持っている。
それは日露戦争の日本勝利以来のものであり、その感情は大東亜戦争中の日本軍によるスリランカ空襲によっても変わる事はなかった。
そして、スリランカの独立は日本がこの戦争を戦ってくれたお陰と評価してくれている。

1951年、第二次世界大戦で敗戦した日本に対する処遇を決定するサンフランシスコ対日講和会議おいて、多くの国が日本に賠償金を求め、中には日本の主権制限を求める国もある中で、唯一対日賠償の一切を放棄し、日本の完全な独立を求め、さらには自衛の為の軍事力保持も認めるべきであると演説を行い、世界を動かした人物がいた事を知る日本人はどれ位いるだろうか。
それはスリランカの初代大統領であるジャヤワルダナ氏でした。

大統領は演説で、「憎悪は憎悪によって消え去るものではなく、ただ愛によってのみ消え去るのである」という、お釈迦様の教えを引用して日本の完全に独立した自由を訴え、世界中の人々を感動させた。
この日本擁護の演説も、日本への感謝の気持ちだった。

彼はそう考える理由の一つとして、「あの当時、我々アジア諸国民の中で唯一自由であり、かつて保護者として盟友として尊敬した日本が掲げたアジア共栄のスローガンに私達は希望を持った」と演説の中で語っています。

これは私達日本人が戦後教え込まれた「日本はアジアで残虐の限りを尽くし、アジアの人々は皆日本を恨んでいる」という情報と180度違うものです。
しかし、この演説がサンフランシスコ講話会議において行われ、多くの国を動かしたのは紛れもない事実です。

1996年、ジャヤワルダナ大統領が亡くなりました。
その大統領の角膜が日本国内で移植されました。
死去に際し、「日本で角膜を生かしてほしい」と希望していました。
その遺志は実現され、彼が日本に提供した1個の角膜は1999年に2つに分割され、うち一つはその年に移植、もう一つが翌年移植されたのです。

日本は1954年10月6日に事務局はスリランカのコロンボにある「コロンボ・プラン」に加盟した。
それは戦後最も早期に組織された開発途上国援助のための国際機関で、主に技術協力を通じてアジア太平洋地域諸国の経済・社会開発を促進し、その生活水準を向上させる事を目的としており、この加盟により被援助国から援助国への仲間入りを果たしました。
これを記念して日本では10月6日を「国際協力の日」と定めています。
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日本はどんなによい国か2 こんな言葉・記録が残っている

2016-05-24 02:12:31 | 日本の素晴らしさ
『ハインリッヒ・シュリーマンはトロイの発掘に取り掛かる少し前に、まだ江戸と呼ばれていた東京に来たそうだ。彼の訪日記はとても興味ある日本の分析をしていて、鋭い観察力、感性が感じられる。(シュリーマン旅行記 清国・日本 講談社学術文庫)

ここでは彼が示した役人の事を紹介したい。
横浜に上陸して彼は二人の税関官吏に会う。彼らは深々とお辞儀をしてから、荷物を吟味するから開けろと言う。荷解きをして拡げたら後が面倒だ。
よその国でそうしたように賂(まいない。ワイロ)の金を渡すと、彼らは怒って拒んだ。
「我らの尊厳に悖る」と・・・・・彼らのプライドをいたく傷つけた。

仕返しにひどい嫌がらせをされるかと思ったが「形だけの検査で、大変好意的で親切な対応だった」と言っている。
この時代の官吏は・・・・そう、武士だった。だから潔癖さと誇りをもって振舞っていたのだ。』

『日本は江戸時代は鎖国していたが、オランダとは交易があり、黒人が奴隷として売買されている事を知っており、オランダ人を軽蔑していた。
18世紀にスウェーデンの植物学者ツンベリーが来日し、「さざんか」をヨーロッパに紹介してるが、彼は日本にきてオランダ人の格好をしていたため、日本人から受ける視線が冷たいのに気付き困惑したという。
日本に出入りしたオランダ人を「日本人は憎悪した」と本国に報告している。
何故なら「彼らは奴隷売買をし、同じ人間を不当に扱っているからだ」と。
ツユンペリは、また日本の家族に着目し、「朝鮮では夫人は家に閉じ込められ奴隷状態にあるが、日本の夫人は夫と同席したり、自由に外出したりしていた」とも書いている。
 
幕末の頃も「奴隷制度を廃止しない連中は犬畜生」というのが書にあるそうだ。
明治5年にペルー船籍の奴隷船マリア・ルス号が日本に寄港した時、支那人奴隷が脱走し、助けを求めて来たため日本政府は保護し、支那人らを救助し、国際仲裁裁判で争い、勝訴している。
日本には有史以来、制度としての奴隷制度はありませんから、伝統的に人種差別を嫌っていたわけです。』
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日本はどんなによい国か こんな言葉・記録が残っている

2016-05-23 03:17:11 | 日本の素晴らしさ
1992年マレーシアのマハティール首相が香港で「日本の成功が東南アジア諸国に自信を与えた。
日本がなければ欧米の世界は永久に続いたはず・・・」と演説した。
「もし日本なかりせば」として有名だ。

(マハティールの演説の概略)
「日本は、軍国主義が非生産的である事を理解し、その高い技術とエネルギーを、貧者も金持ちも同じように快適に暮らせる社会の建設に注いできた。
質を落とす事なくコストを削減する事に成功し、かつては贅沢品だったものを、誰でも利用できるようにしたのは日本人である。
まさに魔法も使わずに、奇跡とも言える成果を次々に創り出したのだ。

日本の存在しない世界を想像してみたらよい。
もし日本なかりせば、ヨーロッパとアメリカが世界の工業国を支配していただろう。
欧米が基準と価格を決め、欧米だけにしか作れない製品を買うために、世界中の国はその価格を押しつけられていただろう。

南側の幾つかの国の経済開発も、東アジアの強力な工業国家の誕生もありえなかっただろう。
多国籍企業が安い労働力を求めて南側の国々に投資したのは、日本と競争せざるをえなかったからにほかならない。

日本との競争がなければ、開発途上国への投資はなかった。
また日本と日本のサクセス・ストーリーがなければ、東アジア諸国は模範にすべきものがなかっただろう。
ヨーロッパが開発・完成させた産業分野では、自分たちは太刀打ち出来ないと信じ続けていただろう。
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トルコについてを終了いたします

2016-05-22 03:21:15 | 親日国
さて思わぬほど長く連載になってしまいましたが”トルコ”は今回にて終了させていただきます。

偉そうにエルトゥールルの経緯を書き連ねましたが、私自身がこの顛末を知ったのはここ10年程のことです。
また、トルコ航空機による日本人救助の概略は知ってはおりましたが、今回改めて森永さん、沼田さんの詳細を調べてその実態に触れたのはごく最近です。特に沼田さんのイランを脱出する緊張感あふれる顛末には、思わず涙を禁じ得ない場面もありました。
また森永さんのご活躍、それに応えていただいたオザル首相には敬意を表したいです。

さて、沼田さんの手記は一部を割愛しましたが、その中には『なぜ、日本は救援機を出さなかったか?その真実を知る』というページもあります。
今回の救出に力を発揮したのは民間人であり、政府や官僚は結局なにもできなかった。続々と自国民が救出される中で日本は置き去りにされたと言ってもよい。
自衛隊機の救出に反対するバカ左翼、紛争地帯で安全が保証されねば飛ばないという航空会社・・・・取り残された人の気持ちは沼田さんの手記でよく分かる。


さて今一つはエルトゥールル号の顛末だ。
こうした事は学校で教えるように義務付けられないのか?私自身、たまたま観ていたテレビでこれらに触れたものがあったのを経験はしているが、なんとも歯がゆい!!

さて、最後は私自身のトルコとの関わりだ。
こうした色々を知った私はある旅行社のトルコ旅行のツアーの説明会に行き、十分納得して手付金を払う段取りまでした。
北京オリンピックの年の秋の旅行予定であった。
そうしたらオリンピックに入ってからロシアがグルジアに侵攻した。年老いた義母が心配、反対するであろう・・・・・
泣く泣くこのツアーをあきらめた!
結局は行ったとしても何も起きない事態であった、できればここ数年の内に行ってみたいと心底思っている。

この件に限らないが、日頃に起きる様々な事態には当事者にしか分からない経緯や背景がある。
昨日に新聞で報道された一事件も同様だろう。
しかし、全ての事態の背景を詳細に掴むのは不可能だ。
私はトルコ機によって日本人が救助された事は知ってはいたが、今回に紹介した森永さん、救出された側の詳細を語った沼田さんの事はこのブログを書くにあたって初めて知ったのだ。

そもそもトルコとの関わりを知った(エルトゥールル遭難事故)のはネット、You Tubeであった。
今回の森永さん、沼田さんもネットで詳細を掴んだ。
ネットは時に膨大な情報量で辟易とすることもあるが、こうした貴重な材料をも与えてくれる。
私達は幸せな時代にいるのかもしれない・・・・・・・
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トルコによって救出された日本人の手記6

2016-05-21 04:08:48 | 親日国
ここからも沼田さんの手記は続くのですが、一部を割愛して数点を転用させていただきます。

第10話 『在日トルコ共和国大使館で初めてトルコの人に直接お礼が言えた』 

 エルトゥールル号遭難事故の事を知って、何としてもトルコの人に直接お礼を言いたいという気持ちを抑える事が出来なくなり、在日トルコ共和国大使館に連絡を取らせてもらいました。

私の様に全くトルコに友人も知人も居ない一個人が連絡を取っても、相手にされないか、応対してくれても誰かの紹介を求められると考えていました。しかし、私が想像していた事とは全く違って、私の簡単な自己紹介と1985年にトルコ航空で助けられた日本人であることをお伝えしただけなのに、数日後の12月10日に大使館に来て頂ければ参事官が会いたいという事で、その日に大使館に来られるかどうかという事でした。
考えられない事です、勿論私は即座に返事をさせて頂きました。会って頂けるだけでも私にとっては大変有難い事なのに、大使館に招いて頂けるという、これ以上の嬉しい事は有りません。

 私にとって外国の大使館を訪問する事は初めての経験なのでどの様な事を準備すれば良いのか判りませんでした。
私が考えている外国の大使館は門を一歩入ればそこは外国、だから当然その門を通れば外国に足を踏み入れる事なので、厳重なチェックが有るだろう、少なくともパスポートチェックは必要だろうし、その他にも自分の身分を証明する物が必要であろう、例えば、写真が入っている自動車運転免許証とか健康保険証、しかし、大使館に確認したところその様なものは全く必要無くただ正門を入ってセキュリティー担当者にアポイントを頂いた参事官のお名前と自分の名前を告げれば良いと云う事でした。
本当に驚きました、こんな事で大使館の安全が守れるのだろうかと私の方が心配する程簡単に入館させて頂けるとの事でした。

 2008年12月10日、お約束の時間少し前にトルコ大使館に到着し入館しました。
正門を入り、少し行った左手に大使館に入る入口が見えました。そこを入ったら、守衛室が有りましたので、事前に言われていた通りアポイントを頂いていた参事官のお名前と自分の名前を名乗りました。直ぐに大使館に入るオートロック扉のロックを外してくれて「どうぞ中へ」と促されて扉を開けて入りました。そこは大使館の敷地の中です。玄関を入って直ぐの所に受付が有りそこに日本人の女性が訪問者の対応をしています。

 訪問者記入リストに記入し、ロビーの椅子で待たせてもらいました。待っていると間もなく右手の扉から女性が出て来て参事官室に案内してくれました。
参事官は待っていてくれて、私が入って行くと直ぐに立ち上がり握手を求めて来ました。握手をしながら名前を告げお時間を取って頂いた事にお礼を言うと、接客用ソファーをすすめられました。参事官と私がテーブルを挟み座り、秘書の方は私の隣に座ってくれました。

 早速、25年前テヘランからトルコ航空で助けてもらった事を手短に話し、心からのお礼を言いました。秘書の方がトルコ語に訳してくれて私の気持ちが直接参事官に伝わり、逆に参事官からわざわざ感謝を言う為に来た事にお礼を言われてしまいました。
 
暫く、25年前のその時の状況などを話した後、1999年8月のトルコ北西部大震災の復興状況をお聞きし、復興支援の募金を申し出ましたら、トルコ政府としては義捐金の受付は既に終了していて、折角の申し出ですが、お受け出来ませんとの事でした。それではそれに関する事で寄付をする事が出来ないものかお聞きしましたら、兵庫県のある団体が活動をされている事を教えてくれました。具体的な名前は判らないという事でしたのでお時間を取らせた事へのお詫びとお礼をして大使館を後にしました。

25年経ってやっとトルコの方に直接お礼が言えた瞬間でした。私は何と幸運なんだろう、こうやって直接トルコの方にお礼が言える日が有るとは考えてもいませんでした。

第14話 『25年後再び天国・イスタンブールを訪れる』 

串本町での2010年6月3日から5日の「日本トルコ友好120周年事業」に出席させて頂いて、帰宅して間もなく、和歌山県海南市の作曲家・指揮者の向山精二さんから連絡がありました。
向山さんは和歌山県の「北六班の歌」「幻想組曲粟嶋神社」「高野山の四季」「紀伊の国交響組曲」等を作詞・作曲された方で和歌山県、関西地区に於いてコンサートを開催している方だと言う事でした。

向山さんは最近になって、エルトゥールル号事故の事を知り、これはすごい事だ、和歌山県の先人がした素晴らしい人間愛の行動を音楽にしたいと思い立ち、「紀伊の国交響組曲第四楽章」に「エルトゥールル号の乗員に捧げる曲」「友情・エルトゥールル号の軌跡」を追加作詞作曲し、関西地区を中心にコンサートを開いていました。エルトゥールル号の出来事について勉強するうちに、このエルトゥールル号の事故が日本・トルコ両国を深く結びつける事になり、それから95年後の1985年3月にトルコ航空によるテヘランからの日本人救出劇が有った事を知りました。

これが両国の「友情」を更に深めた事を知り、この事を音楽にして日本とトルコの友情を広く伝えて行きたいと考え「友情」その1「九死に一生」を作詞・作曲したそうです。

 そんな折、たまたま私が串本町の「日本・トルコ友好120周年事業」に参加し、私達がトルコ航空で助けられたのは、エルトゥールル号の事故の時、串本町大島の人達が中心に献身的な救助活動をしてくれたお陰でしたので会場においでの皆さんにお礼を言わせて頂きました。
その事が後日、和歌山県で報道されましたので、向山さんは私がトルコ航空でテヘランから助けられた日本人の一人である事を知り、コンサートの休憩時間に音楽の好評と当時の事を話してもらえないかとの依頼が有りました。
私としては、トルコが私達日本人にして下さった家族愛にも勝るとも劣らない友情で助けてくれた事を多くの人に知って頂けるので有ればとの思いからこの申し出を受けさせて頂きました。
 
このコンサートは大阪・ザ・シンフォニーホールを皮切りに東京・サントリーホール、トルコ・メルシン、アンカラ、イスタンブール・アヤイリニ教会で行われました。私はこのうちの東京・サントリーホールとトルコ・イスタンブール・アヤイリニ教会のコンサートに参加させて頂きました。

 イスタンブールへの訪問は実に私がトルコ航空で助けて頂いてから25年経った2010年7月27日でした。
向山さんのお陰でトルコへのお礼をさせて頂く機会を頂いた訳です。会場には1200人を超えるトルコの方が来られている中でお礼を述べさせて頂きました。こんな幸運な事は滅多に有るものでは有りません。
更にサプライズとして、1985年3月19日私達を助ける為に来てくれたトルコ航空の機長だったオルハン・スヨルジュさん、機関長のコライ・ギョクベルクさん、キャビンアテンダントのアイシェ・オザルプさん、デニス・ジャンスズさん、ナーザン・アキュンレルさん、そして、森永さんが壇上にお上がりになり私と握手をしてくれたのです。余りの突然の事で私の頭の中は真っ白になってしまいました。

 翌7月28日には、在イスタンブール日本国総領事公邸でオルハンスヨルジュ元機長他何名かの元トルコ航空の方々とお会い出来る事になっていましたので、まさかコンサート会場でお会いする等とは夢にも考えていませんでした。
コンサートの翌日には予定通り日本国総領事公邸で元トルコ航空関係者の方々、森永さんとお会しました。正に私達の命の恩人達です。

この夢の再会は、在イスタンブール日本国総領事館総領事と副領事で、私の様な者の為に公務でお忙しい中、色々奔走して開催して下さいました。何とお礼をしたら良いか判りません。私はこんなにも多くの皆さんに助けて頂いて、命の恩人の方々にお礼を言える場を作って頂いたのです。この日は日本に帰国する日です、ここで感じたこの思いをしっかりと心に刻み決して忘れない様にしなければいけないそんな思いを強くしたイスタンブール再訪問でした。

 皆さん本当に有難うございました。

沼田さんのトルコに対する思いが伝わってくるページです。
大使館に御礼に出向き、ついにはトルコにも再訪します。その切っ掛けとなったのは、エルトゥールルに端を発する串本町との関わりでした。ご本人は語っておりませんが、串本町に「ふるさと納税」を続けておられるとの事です。
沼田さん、本当にご苦労様でした。


なお、沼田さんの手記全文は次のサイトで閲覧できます。
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トルコによって救出された日本人の手記5

2016-05-20 02:29:49 | 親日国
第7話 『帰国』 

イスタンブールでは久し振りの休日を過ごしました、その上、命の洗濯をと云う事でパリで一日を過ごさせて頂くという粋な計らいをしてくれました。
こんなに も平和で楽しい時を過ごすと、これは夢ではないか、夢から覚めるのではないかと不安がちらっと頭をよぎりました。それならそれでいいや、この命は拾った様なものだから、そんな気持ちでパリでも思いっきり楽しみました。

夢の様に過ぎた2日間も終わり、いよいよ今日は日本へ帰る事が出来ます。人間これ程迄も変れるものなのでしょうか。3日前までは不安と恐怖で押し潰されそうな重苦しさで先の事等考えられない程だったのに。

パリからの飛行機の中で、私は、五輪真弓の「恋人よそばにいて・・・・・」を繰り返し繰り返し何度も何度も聞いていました。あの時は何でも良かった、何は ともあれ日本のものに触れていたい、そんな気持ちだったのだと思います。このカセット・テープは今も大切に私のCDラックの奥にひっそりと眠っています。

3月21日長い長い飛行機の旅の末成田に着きました、工場から出張してくれていた4名の家族の出迎えが有りました。出掛ける時は意気揚々と胸を張って出掛けたのに、意気消沈して今は何も言う事が有りません。ただ、今回の出張は結果として私が皆を巻き込んだ形になったので、ご家族の皆さんにお詫びを言わせて頂きました。
成田空港の時の事を振り返って仲間の一人は次の様に話してくれました。
「私の妻は当時6ヶ月になった長女をかかえ出迎えに来てくれました。会社の総括の方が同行してくれていましたが子供が乳児だったので家から成田まで大変だったと言っていました。その他の皆さんもそれぞれ家族に会って嬉しそうでした。たしかMさんは新婚ではなかったかと思います。Aさんも奥さんが出迎えました。

日本ではテヘランは戦火という報道がされていたので無事に帰って来た事を喜んで 泣いているご家族の方もいました。」
私は「こんな結果になって本当に申し訳ないと心から思いました」ただ、幸いな事に全員が無事に日本に帰って来れた事、ご家族に元気なまま返してあげる事が出来た事、これは私達と行動を共にし、最後まで私達を助ける為にテヘラン中を駆け回り、在りとあらゆる手を尽くしてくれたN商社の皆さん、そして、日本の商社、日本大使館そしてこの人達の誠心誠意に応えてくれたトルコのお蔭なのです。

「さあ、家に帰って家族共々、生きている事の喜び、平和で有る事の喜びをかみしめよう」ようやく私は家に帰って来ました、でもイランで起きた事、トルコに助けられた事も含め詳しい事は一切話しませんでした。
何故だろう「私の気持ちの中には、日本に見捨てられた自分が情けないという想い、家族にもその事を知られたく無いという気持ちが有りました」

日が経つにつれて、少しずつはあの不安、あの恐怖は薄れては行ったものの心の傷は簡単には癒されませんでした。会社に行ってもやはりこの事は言わずにいました。怖かったとか、不安だったとか言うのは男として恥ずかしい事だという気持ちが有ったからでした。
だから結局、トルコが私達を命がけで助けてくれた事も言わないまま月日が過ぎて行きました。色々有ったけれど今はこんなにも平和で安心して生活が出来る、あの時の不安、恐怖を早く忘れたいそんな気持ちが支配していました。でも、今でもこの時の事を話すと涙が出て来てどうしようも有りません。

第8話 『衝撃の歴史を知る、エルトゥールル号の遭難』 

どうしてトルコが私達を助けてくれたかの真相を知らないまま23年が過ぎた2008年10月17日、つけっ放しのテレビに偶然目が行った時、そこに放送さ れていた番組は「世界を変えた100人の日本人」でした。私の目はそこに釘づけになりました。

その内容は、私達がテヘランから助けられた95年も前の 1890年に和歌山県串本町大島の沖合で台風に遭遇したトルコの軍艦「エルトゥールル号」が沈没し、581名の乗組員が死亡、69名が救出されたというものでした。
この時大島の人達を中心に献身的な救助活動をした事、当時、大島は必ずしも裕福ではありませんでした。その大島の人達は救助した69名の為に医師は治療費は取らず、村の人々は生活用品を集め怪我の治療や体力回復に並々ならない苦労をし、自分達の生活をも犠牲にしたという事でした。
この大島の人達 の献身的な救助活動の恩儀を感じていたトルコが、95年後の1985年3月19日、テヘランに取り残されて、身動きが取れなくなっていた日本人を救出する為に救援機を派遣して、トルコ人よりも優先して助けてくれたというものでした。

恥ずかしい話ですが、私はこの「エルトゥールル号遭難事故」の事を全く知りませんでした。
1985年3月20日の日本の新聞では日本経済新聞が、「イラク の一方的警告の期限切れ直前、日本人二百十五人らを乗せた二機のトルコ航空機が緊張高まるテヘランのメヘラバード空港を飛び立った。エールフランス、ルフトハンザなど外国航空会社の特別機が次々飛び立つ中で、搭乗を拒否され続けた邦人がイラン脱出の最後の望みを託した救いの翼。」と辛うじてトルコの日本人に対して特別の対応をしてくれた事を報道。その他の新聞は救出の事実だけを伝えているだけで、どうしてトルコ航空が日本人を救出したのかは触れていない。

3月21日になって一部の新聞は報道してはいるものの、“日本とトルコは「安部外相が一昨年、訪問したほか、今年前半にはエザル首相(オザル首相の間違い)の来日が予定されるなど友好関係が続いているが、日本側は「友好関係の成果」としてトルコの対応を評価している。“と上から目線の報道がされていました。この報道からみても多くの日本人は何故、テヘランからトルコ航空が日本人を救出してくれたのか、その真実は知らなかった様に思われます。

私はこれを機に、日本とトルコの関係を知りたいと思い色々な資料を集めて読みあさりました。
そして自分がいかにエルトゥールル号の事故の事を知らないかを思い知らされました。それと同時に、特定の地域の人達がその歴史を必死に後世に語り継いでいた事が判りました。そうした、一部の人達の努力が私の命を助けてくれたのだと判り、何としてもその人達へ恩返しをしたいと思いました。
それと併せて、テヘランの地獄の淵から私を救出してくれたトルコ航空の事を多くの 日本人にどうしても知ってもらう為の努力をしなければいけないと思いました。

いよいよ沼田さんがエルトゥールルの事を知りました。
沼田さんは”恥ずかしい話”と言っておりますが、何も沼田さんが特別ではありません。この私の数年前の姿でもあります。
ここでシリーズで採り上げたポーランド、ウズベキスタン、パラオ共和国、インドネシア等についても同様です。
さすればこれは・・・・・「教育」の問題かもしれない。
日本は侵略をした、迷惑をかけた・・・こうした方面だけ教育する(当に自虐史観)方向は間違っていて、こうした誇れる面も是非に教えてほしいと私は思う。
これらを知れば日本に誇りを持てるはずだ。

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トルコによって救出された日本人の手記4

2016-05-19 03:33:27 | 親日国
第5話 『WELCOME TO TURKEY』 

テヘラン・メヘラバード空港を飛び立ちホッとしました。
しかし、何時イラクが空爆をして来るか判らないのです。空軍が勝手に航空機撃墜をするかも知れないし、イラク・フセインの気が変わって攻撃して来ないとも限りません。何しろイラクにはアメリカもソ連も後ろ盾になっているのだから怖いものは無いのです。

機内はシーンと静まり返って話声もしない。何時撃墜されるか判らない、そんな恐怖で身体を強ばらせて身動きもしませんでした。どれ位の時間が経ったのだろう、私にはとてつもなく長く感じられました。
その時、機長の機内アナウンスが響き渡りました。
「WELCOME TO TURKEY」
次の瞬間、機内に「わあっ」という歓喜の叫びと、大きな拍手とが起こりました。
この時ほど生きている事の喜びを感じた事は有りませんでした。「ああ、これで助かった」これ迄凍りついていた血が身体中を駆けめぐりました。そして涙が止めどなく溢れて来ました。周りの人達も皆泣いています。一緒に脱出して来た仲間も皆おそらく泣いていたでしょう。
今、私達はトルコ航空機の中にいるそして、まぎれも無く生きているのです。 こうして、仲間は誰一人戦争の犠牲に成らずに無事日本に帰れるのです、良かった、本当に良かった。言葉では言い表せない安堵の気持ちがこみ上げて来てホッとしている自分がそこにいました。

イスタンブール・アタチュルク空港に到着し、ここでもまた、タラップをどうやって降りたのか、到着ロビーまでどうやっていたのか覚えていません。
到着ロビーの荷物受け取り場に降りる階段の上に立った時、ものすごい閃光が走り、その光の多さに驚き一瞬足がすくみました。その光の方を良く見ると、大勢の人がカメラで私達の方を撮っていたのでした。涙でかすむ 階段を一歩一歩降り乍ら、「ああ、私達はこの国の人達に助けられたんだ」「私達の無事を喜んでくれているんだ」有難う、本当に有難うと心の中で繰り返しながら荷物受け取り場に降りて行きました。

荷物を受け取り、ロビーに出ると日本の商社の皆さんや大勢の関係者の方が我々の乗るバスに案内してくれました。バスに乗っても今自分がどうなっているのか判らないでいるとホテルの玄関前に停まってくれました。ホテルに着いたので直ぐにチェックインし、部屋に荷物を置いたらレストランに集合するよう確認し、夫々の部屋に行きました。荷物の重さは全く感じませんでした。

第6話 『イラン戦友会の結成』 

イスタンブール・エタップホテル、そこは私達にとっては天国でした。つい半日前迄の地獄から救い出してもらい、今は天国にいるのです。
私は部屋に荷物を放り投げる様に置き、そそくさと皆のいるストランに向かいました。テーブルを囲むどの顔も喜びと安堵感で晴れ渡っていました。さあ乾杯「イラン戦友会」の結成です。

ここからは、誰も彼もが浴びる様に飲みました。
皆生きている事の喜びを噛締めながら。私も後にも先にもこんなに沢山のアルコールを飲んだ事は有りません。先ずはビールで乾杯、そしてトルコのワイン、その他手当たり次第でした。
朝気が付いたらベッドに寝ていました。どうやって部屋に帰って来たのか、どうやってベッドに寝たのか全く記憶が有ません。しかしここはまぎれも無く、トルコ・イスタンブール。

ゆったりと朝食を済ませイスタンブール観光に出かけます。見るもの聞くものみな平和で楽しい、この私達の命の恩人の国、でも良く知らない土地だけど思う存分羽根を伸ばそう。皆と一緒に近くを歩きまわりました。
気がついたら川の様な所の近くに来ていて橋が掛っています。何か大型トラックが渡ると壊れそうな橋です。
そんな橋を見ても唯もう嬉しいんです。今日はもう何の心配もしないで思いっきり喜びをかみしめよう。そして明日はパリ経由で日本へ帰れるのです。

暫くイスタンブールの街の中をぶらぶらしていて気が付いたのは、トルコの人達は皆私達に笑顔を向けてすれ違う。
トルコの人達はどうしてこんなにも私達に優しいのでしょうか。(この疑問を23年後の2008年10月17日に知る事となりました)
イラン人もまた優しい人が多かった。私達がテヘランに取り残された事を本当に心配してくれたし、一生懸命私達が被害に合わない様に気を使ってくれました。 でも、イラン政府は日本人をイラン国外への救出はしてくれませんでした。
トルコもイランも同じイスラム圏では有るが政府が全くと言って良いほど違う。トルコは政教分離なのに対して、イランはイスラム教政府なのでイスラム教の トップが最高指導者となっているのです。然もこの人が言う事は絶対で誰も異を唱える者はいないのです。私にとってのイランは友達も多いし思い出の多い国ですが、トルコは私の命の恩人です。

海(ボラポラス海峡?)が見えて来た、沢山の船が行き駆っている、何と平和なんだろう。ここ、イスタンブールは自然が多く木々は生い茂り、直ぐ近くには海が見られました。という事は、さっき川の様な所と思ったのは海峡なのだろうか。 ああ、私達はこの国に助けられたんだ、何と幸運なんだろう。この事は一生忘れてはいけない、そう深く心に刻み込みました。
このトルコに命を助けられ、「イラン戦友会」を結成する事になったのはこの上ない幸せな事に思いました。

「WELCOME TO TURKEY」の案内にあがる歓声、こぼれてくる涙。乗客の安心感が激しく伝わってきます。
ホテルでの食事、浴びるように呑んだ酒。森永さんのページにもありましたね「生牡蠣をぺろっと平らげていた」と。
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トルコによって救出された日本人の手記3

2016-05-18 03:51:37 | 親日国
第3話 『早く脱出したい、しかしどうにもならないこの焦燥感の中、3月17日が』 

3月12日の空爆のミサイルはN商社のオフィスのすぐ近くにも着弾したので、N商社の社員が出勤途中にそこを見に行ったそうです。
歩いていたら少し小高くなっていた所が有ったので、その上に登りミサイルの着弾した所を探してきょろきょろしていましら、近くにいた人がミサイルが着弾したのは、お前が乗っているそこだよと教えてくれたそうです。
そう言われて良く見るとそこはビルディングが建っていた所で、そのビルディングが跡形も無く崩れ落ちてがれきとなって 少し小高くなっていたと言うのです。これじゃ人間はひとたまりも無いと思ったと言う事でした。

もう工場に行くのは危険という事でN商社社宅に待機する事にしました。しかし、社宅は部屋数が足りなく全員がここに一緒に住居する事が出来ない上、もしミサイルの直撃を受けた場合、全壊となり人的被害は避けられないと思いました。
そこで、皆で話合って、全員を収容出来、地下室が有る所を捜そうと云う事になりました。地下室なら直撃を避けられるのではないだろうかと考えたからです。この条件に合う所として下町に有るラマテア・ホテルが良いだろうという事になりました。

翌3月13日になって、16日か17日のアエロフロートだとチケットが取れるかも知れないという情報が入って来ました。
この機会を逃すともうチャンスが無いかも知れないという不安が有りましたし、それとヨーロッパ航空便よりアエロフロートが安心ではないだろうかという考えが有りました。
それは如何にイラクと言えどもソ連の航空機を撃墜したら何をされるか判らないからやらないのではないかという期待の考え方が根底に有りました。そこで、アエロフロートのチケットも入手する方向でN商社が動いてくれました。

12日の爆撃でベッドからはじき飛ばされた日産の技術者はもう限界になっていました。
夕食をN商社社宅で済ませ、皆一緒に移動し、午後7時にはホテルに落ち着きました。これで全員が一緒にいるので、何時でも一緒に行動出来る状況が出来ました。
しかし、これで問題が解決した訳では無いのです。飛行機の空席が取れなければ国外に脱出できません、相変わらず、N商社の社員はテヘラン中のヨーロッパ航空会社のオフィスを駆けずり回り空席を捜してくれていました。

こうしている間にも時間はどんどん過ぎ、3月17日になってしまいました。
この日の夕方、イラク・フセイン大統領は戦局の硬直状態に苛立ち「3月19日 20時30分以降イランの空域を飛ぶいかなる航空機も安全を保証しない」という悪魔の警告を出しました。在テヘラン日本大使館からは直ちに在住日本人に知らされました。

しかし、我々はどうする事も出来ませんでした。飛行機の空席が取れる事を待つしか無いのです。イラク・フセイン大統領の警告は関係の無い国の民間機迄撃墜すると云うもので、普通考えられない事でした。
これを聞いて我々はヨーロッパ航空会社は欠航してしまうのではないかと思いました。もはや航空便での脱出は不可能かと思い絶望感に追い込まれました。

第4話 『友情の翼・トルコ航空』 

タイムリミット一日前の3月18日になっても乗せてもらえる飛行機は一向に見つかりませんでしたが、思いもしなかった朗報が入って来たのです。
それは、私達が技術指導していたKD工場の一社、ザムヤッド社の技術指導に来ていたスエーデェン・ボルボ社の技術者がバスでトルコに脱出するので皆さんも一緒に行きませんかと誘ってくれたのです。 私達は直ぐに荷物をまとめて、待ち合わせ場所に駆け付けました。

しかし、私達は車では国外に出る事は出来なかったのです。それは、私達は飛行機で国外に脱出する事ばかり考えていましたので事前の出国手続きをしていなかったのです。ですから、このバスでトルコに脱出しようにも国境を越える事は出来ないのです。折角のチャンスを泣き泣き諦めるしか有りませんでした。

そしてとうとう3月19日、タイム・リミットの日がやって来てしまいました。
それでもN商社の社員はその日もヨーロッパ航空会社に私達の為に席を分けてもらえる様頼みに回ろうと、夜の明けるのを待って起きていてくれたのです。
すると、夜明け前に日本大使館からトルコが救援機を出してくれるとの情報が飛び込んで来たというのです。皆小躍りして喜びました。しかし、冷静になって考えてみると、どうしてトルコなのか判らない、日本からの救援機は来ないし、ヨーロッパの飛行機にも乗せてもらえないし、信じられない、そんな気持ちでした。

しかし、考えていても仕方が無い、兎に角行ってみようと云う事になり、N商社の社員の一人がトルコ航空テヘラン支社にチケットを買いに走りました。

その間私達は何時でも空港に行ける様に荷物をまとめ、玄関横に並べて、トルコ航空に行った人からの連絡を待ったのです。しかしなかなか連絡が来ません。
朝6時にホテルを出て、10時半ごろようやくチケットが買えそうだという一報が入ったのです。

早速N商社の社有車で空港に向かったのですが、日本人が空港に 向かった丁度その頃、各国の取り残された人達は自国の救援機に乗る為に空港に押し寄せたのです。空港敷地内はかなり広いのですが、ものすごく多くの人が集まって来たので、大混雑に成り、空港ビルに辿り着くのは容易では有りませんでした。
やっとの思いで空港ビルにたどり着いたのですが、肝心のチケットを買いに行った人が帰って来ません。結局、チケットを買いに行った人が空港に着いたのは午後2時過ぎです。

ここからようやく荷物チェックです、ここでもまた時間が掛りました。それは一人一人のスーツ・ケースを開けては中に手を入れ確認するのです。それが終わると次は、ショルダーバッグ、そしてハンドバッグと、全部中をのぞいて確認するのだから時間が掛る事この上有りません。
やっと荷物チェックが終わり、トルコ航空チケットカウンターでチェックイン、この時はイランでは今迄になかった位素早く処理してくれて、搭乗券を渡してくれました。

搭乗券さえ貰えばもう直ぐにでも飛行機に乗れる、そう思いました。ところがパスポートチェックが一向に進まないのです。
ここでも又とんでもないトラブルが起こっていたのです。なんと、アエロフロートに乗ろうと空港に駆け付けた、ロシア人が事も有ろうにパスポート・コントロールの窓口2か所のうちの1か所を 占拠してしまったのです。

こんな暴挙を許してはいけない、N商社の自動車部責任者が猛抗議をしてくれたのですが、多勢に無勢、全く聞き入れてくれませんでした。 結局、もう1か所の窓口に並んでパスポートチェックを受けるしか有りませんでした。
トルコの様に外国人の日本人の為に救援機まで出してくれる人達がいる一方、手続き窓口を占拠し、自分達だけが脱出出来れば他の人はどうでも良いと云う人達がいるのです。
私はこの時以来、ロシア人は大っ嫌いになりました。今も嫌いです。

こうした苦難を乗り越えて搭乗待合室にようやく辿り着いたのです、その時、爆弾かミサイルが爆発する様な「ドォーン」という音がしたのです。私はイラクからの爆撃が始まったと思い、ここ迄来て「だめかぁ!」と身体から力が抜けて行きました。 空港ビル内には悲鳴が上がり近くのテーブルの下に身を伏せるなど一時騒然となりましたが、爆発音は一回だけで、直ぐに場内アナウンスで子供と女性が搭乗ゲイトに案内され、皆ゲイトに走って行きました。

私はこの時、何で飛行機まで行ったか記憶に残っていないのです。タラップを駆け上がり機内に入り、座席に座って唯じっと出発を待ちました。機内はシーンと静まり返っていました。 暫くすると、滑走路に入り、そして滑走前のエンジンテストの音が「ゴー」と鳴り響き、滑走を始めました、ぐんぐんスピードを上げて、ふぁっと機体が浮き上がり離陸しました。
機内に歓声と拍手が起こりました。飛行機はぐんぐん高度を上げて行き、眼下にテヘランの明かりが小さくなって行くのが窓越しにちらっと 見えました。「ああ、助かるかも知れない」そう思いました。

トルコ航空の乗務員が語っていましたね”「飛行機に駆けて乗り込んでくる乗客を初めて見た」と。
そして、乗り込んでもシーンと静まった機内。これだけで乗客の緊張感、緊迫感が伝わってきます。

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