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私の闘病日記

胸腺カルチノイドの患者です。人生を振り返ったり、日々の出来事、考え事を書いて行きたいと思います。

一時退院と、保険見直しのお勧め

2011年08月23日 | 日記
 みなさん、こんにちは、お久しぶりです。

 5月3日に某大学病院を退院し、つぎの治療に入るために血小板などの血液数値の改善(骨髄抑制から来る)の改善を待っていましたが、痛みのコントロールが段々と思わしくなくなってきたため、6/29~8/22の間、横浜の病院の緩和ケア(いわゆる)ホスピスにお世話になっていました。
 臓器への転移の場合、あまり痛みが出ないそうですが、私の場合は臓器の他に全身の骨にも転移が見られるため、あちこちが痛みます。 これは避けられないようです。
 従来より、麻薬系の貼り薬、飲み薬を使ってきましたが、ついにモルヒネ系の飲み薬、皮下注射を試すところまできてしまいました。 また、肺への転移が進んだのか、やや息苦しさが増したため、酸素療法が強化されました。 足腰が弱っているのはしかたないですが、できる限り、家内の
 買い物に酸素ボンベをひつずりながらでも付いて行ったりしています。
  
 実は今回の入退院の前後でできなくなったことが沢山あります。 
 でも、これまで、しなければならないと思っていた、旧宅の処分や新宅への準備、経済的な準備の一部が努力の結果、進展したので、だいぶ精神的に楽になってきました。
 まだまだ、家族のためにしてやらねばならないこともありますが、少し気力も相乗効果で出てきたので、いい傾向だと思っています。

 8/22ですから、昨日退院してきたばかりです。明日、24日には、某大学病院で今後の治療のことを相談することになっています。 血小板の数値が、まだ目標に届いていないので、私の予想では、すぐに治療開始とはならず、つぎの外来である9月中旬に決定が持ち越しになるのではと、見ています。 それから、薬の手配になりますから、実際の治療が始まるのは、10月下旬くらいかも。 その間は、自宅療養が続くと思っています。

 退院前に、ホスピス病棟で、70過ぎのおばぁさんに会いました。話は地デジになったが、BSが入っていないくて、見る番組がない、ということで意気投合。 

 また、互いに保険に入っていてよかったということでも意気投合しました。 
 特に私の場合は、世帯主ですから、治療と生活を支えるだけのものに入っていなければならなかったわけですが、偶然ながら、入っていて、今は本当に胸を撫で下ろしています。
 私から何か言うことはおこがましいですが、その年代、立場で、保険の見直しをしていくということは、実に大切なことだと思っています。
 
 うちでは、数年前には、全員ががん保険には入っていましたが、他には私と妻が医療保険に入っているだけでした。 その妻の分は1口(特約があるので実質、2口に近い)しかなく、また子供たちについては入っていませんでした。私が働いていれば、必要に応じて、借り入れもできるので、敢えて子供たちの分までは入っていませんでした。 しかし、私が病気でこういうこととなり、子供たちを医療保険に加入させました。 また、妻の生命保険について検討中です。
 長男、次男を加入させたのは、一般のアフラックですが、後に長男には、大学の生協経由の安い掛け金で有利なものがあることが分かり、今はそれにも入っている次第です(アフラックの方は切がいいところで解約しても良いかとも思っています)。 本年になって、次男は軽病ですが、入院治療を受けることなり、そのアフラックの保険を使いました。 何だか、保険に入ったから、病気を呼び寄せてしまったようで、気持ち悪いのですが、入っていてよかったという感じでした。軽病でしたので、健康保険で十分だったかもしれません。 4泊くらいの入院してたが。

 私の死亡後前後に、妻の生命保険を増額することを検討しています。
 今、病気でない方には、その立場、年齢で、保険の見直しをされることをお勧めします。
 一度入っていて、それきりになっている方も、現在の家族のニーズに合っているのかを検証されることをお勧めします。

 保険の外交のおばさんのようになってしまいましたね。
 ついでにいうと、最近のはやりは、高度先進医療特約。 私の保険にも付いています。
 しかし、実際に使える人はごく一部。 転移のためにあるようなものなのに、実際にはなかなかやってくれません。 また、高額で、私は効果が期待できないと思ってい樹状細胞治療などに患者を振り向けている病院があるようにも思えます。 りっぱなクリニックにはご注意です。

 ともかく、備えに越したことはないってことです。

それでは、また
8月23日 夜
松澤

障害年金

2011年07月03日 | 日記
 サラリーマンをしていた(正確に言うと、現在も休職中なのでサラリーマンです)ので、障害者となった今、障害年金を受け取ることができるようになりました。
 サラリーマンだったと断ったのは、障害厚生年金と、障害基礎年金の両方をもらえるということです。
 酸素療法を理由に障害者3級認定を受けましたので、それに見合う金額として、支給を受けることになりました。
 2月の末に申請をしたので、3月分からに遡って支給されます。

 ただ、残念なのは、物価スライドなのか、制度が変わったからなのか、4月以降の支給額が減額になっていることです。  しかし、以前に想定していたように、総額で120-130万円程度/年なのかと思っていたところ、厚生年金と国民年金が別々に支給されるために、大幅にそれを超える金額になることが分かり、それについては嬉しい誤算でした。
 
 退職後、生存しているとすると、個人的に入っている保険や、減り続ける預貯金の他には、この年金が頼りになります。 がん患者の場合、がんそのものについて、障害年金が出るわけではないので、どういう障害に当てはまるかを注意深く観察して行き、それに当てはまったときに、医師と相談されて、書類提出をされるとよいと思います。
 肺がんなどで、酸素療法をされる方は、肺機能が一定以下になると対象となるようですが、酸素療法が始まったことから、障害者認定のことまでを想像できる方は、少ないようです。 私の場合も、医師の方から積極的に「障害者対象になったから、年金が受けられる」とは言ってもらえませんでした。 しかも、その用紙を書く資格があるのは、その病院では呼吸器科の特定の医師のみであり、私に何らコンタクトをせずに書かれたので、状況が大幅に違い、相当等級についても誤った記述までされてしまいました。 私の場合、行政側で誤りに気付いてくれて、その医師の想定等級より1つ高い等級に異例の変更をしてくれましたので、事なきに至りましたが、そういう実事例もありますので、お気を付けください。 自分や家族が、行政その他からどういうサービスが受けられるかを、アンテナを張ってリサーチしておく必要があります。 失明、両上・下肢を失った場合、透析など、がんとは関係はありませんが、そういう病気の場合には、病気と直接リンクしているので、分かりやすいです。

 本来、がん患者に対しても、こういうこと(周知を積極的にしないということ)ではいけないと思いますが、実際には、自分から申請してこない人に、行政はサービスをしようという気持ちは微塵もありません。  
 制度が分かりにくいこともありますが、がん患者の場合、がん宣告を受けてから、対象となる障害者となって、死亡するまでの時間が短いことが多いというのも一因かもしれません。 後に、初診時に遡って、遺族が受け取ることもできるで、知っていて損をすることはないと思います。 医療保険や、がん保険のパンフレットなどにも触れられていたらいいのにと、私は思います。

 現在、私が行政とねんきん機構からサービスを受けているのは、下記のもので、私と家内で、一所懸命「お宝探し」をしてかき集めたものです。
 それら以外にも、会社や組合の見舞金(自動的に出るもの、申請しないとでないものがありました)や、入っている保険の総ざらいなどをしてきました。 まだ、生存しているから関係ありませんが、子供の学資保険なども、支払い者が死亡すると、掛け金を払わなくてもよくなります。 

 ・ 介護保険 要介護3 (5まであって、5が一番重度) 昨年度より、等級が1つ上がりました。(深刻になった)
   ベッドなどのレンタル品の利用、病院に行く際のタクシー利用に使用。級が上がったので、依頼できる内容が増えま   したが、1割は自己負担なので、今のところ、他のサービスは頼んでいません。 家内の負担が今後増えるようなら考   えますが、家内はパートで働いているので、本末転倒にならないようにしないと。
 ・ 身体障害者手帳 3級 (3級まであって、1級が一番重度)
   電車・バスなどの公共料金が本人と、介護者の両方が半額。 高速道路利用が半額。 タクシーが10%減額。
   自動車税免除。 その他、自主的に出すことで、割引きをしてくれることがある。
   自治体から、障害者手当てがもらえる。 私の場合は、4000円/月
   家内だけが病院に見舞いにくるときには使えないので、その点が難点です。 特定の人が、特定の病院に行くときも   認めてくれると、とても助かるんですけどね。
 ・ 身体障害者基礎年金 2級 (2級まであって、1級が一番重度)
 ・ 身体障害者厚生年金 2級 (3級まであって、1級が一番重度) 報酬比例部分あり。
   上記それぞれが100万円を超える金額/年

  死亡すると、上記がなくなり、障害遺族年金になっていき、家内(が家族分とともに)取るくのだと思います。

 実は今、私は、つぎの治療待ちの時間(血液数値の改善を待っている)、を利用して、横浜市内のある病院で緩和治療を受けています。
 7月3日(日)の日中には、高校の1-2年次のときのクラス会が横浜市内であるため、家内に病院前からタクシーで連れて行ってもらい、ほんの短い時間ですが、参加してこようと思っています。 身障者手帳を見せることで、10%の減額になりますので、たいへんありがたく思っています。 病状からすると、あと何回使えるか分かりませんけどね。

 さて、疼痛緩和を目的として、入った病院ですが、一旦、強い薬を使ってでも疼痛を緩和してから、違う弱い薬にもできるということで、今は一気にモルヒネを皮下注射で使用しています。 それでも、今までの薬を徐々に切り替えるという慎重な方法を取っているので、適量や適切な用法がまだまだ見つかっておらず、しばらくは試行錯誤が続きそうです。
 皮下注射で、一定時間内に一定量が出る特殊な注射器を使っています。 たぶん、3日の外出時には、一時的に、それは抜いてしまい、薬で代用することになるとは思いますが。

 今までも麻薬系の薬を使ってはきましたが、一時的にせよ、モルヒネを使うことなり、ここまできてしまったかという、感慨もありますが、発症から10年、同じ先生に診て頂いていて、全幅の信頼を寄せていますので、その先生の処方に診立てに従って、進めていただこうと思っています。 その先生は、元々呼吸器科にいらっしゃいましたが、今はそちらも兼任はされていますが、緩和内科の部長となられています。 また、この病院では、20床ありますが、スタッフ不足や、スタッフの経験値を上げるために長らく10床程度で運用されてきました。 しかし、この7月から新しい先生が2名と、看護師スタッフ数名が加わり、秋には20床に持っていきたいそうです。 普通の病棟と異なる面が多々あるので、以前に入院させていただいたときに比べると、明かにスタッフが忙しそうです。 

それでは、また
7月3日 早朝
松澤









母の納骨、近況

2011年06月21日 | 日記
 少し、間が空いてしまいました。 
 6月12日(日)に、母の納骨をしました。 他界したのが5月17日でしたので、仏教的には早いそうですが、あまり宗教に拘りのある家ではないので、他の都合と併せて、この日と致しました。 
 この日の前後は、嵐のような風雨の日々が続き、天候を一番気にしていましたが、納骨の前後の約40分間のみ、奇跡的に雨が上がり、滞りなく済ませることができました。 母は、「私は晴女」と、生前によく言っていましたが、「恐れ入りました、1本取られました!」というのが、正直なところです。 

 他の都合というのは、私の家族写真を親族を交えてスタジオで撮っておこうと計画していたもので、元々は、母も参加予定でした。 母が参加できなかったことは残念ですが、仕方ないですね。

 家内は家族写真の方ではお気に入りの着物(私も気に入っている)を着ることになっていたため、納骨後、先に写真館に行き、他の人たちが会食している間に、美容師さんを呼んでもらい、髪のセットアップをしてもらっていました。幸い、着物は、人に教えることができるほどなので、自分で着て、待っていてもらいました。 フォローアップがたいへんだったことは言うまでもありませんけれど(苦笑)

 写真は、私の家族中心ということで、私のXデーも意識してのことですが、長男の大学入学祝いの筋目ということもありました。 長男は海洋系の大学に進学したので、セレモニーのときに着る、夏用と冬用の式典「正服」というものがあります。 「馬子にも衣装」というように、着せてみると、ちょっと、かっこよかったです。 しかし、帽子は1種類で、白地なので、紺色の冬正服に、その白帽子を組み合わせると、田舎のハイヤーの運転手に早代わり! 
(運転手さん、ごめんなさい) 元々、オヤジ体型なので笑えました。

 私自身の体調に大きな変化はありません。 ただ、赤血球、白血球、血小板などといった、ごく基本的な血液数値の改善が遅れていて、これまでと違う薬をつぎの治療から使おうとしている中で、支障となっています。 また、同じ痛み止めの処方量で、痛みの頻度が増していることもあり、元々の主治医がいる病院の方で、疼痛緩和の治療を先に受けることとしました。
 もちろん、現在の病院の主治医も積極的に同意してくれております。
 
 ただ、緩和治療をして頂く方の病院も、現在は万床とのことなので、空くのを待っている状態です。 最初は少し強い薬を点滴で使い、その後、現在のような貼り薬とレスキューの頓服に戻す方法をとるようです。 今は、中途半端に疲れて、いつでも眠くて困っているので、一旦、そのようにして疲れを取り去るのが、精神的にもいいような気がしています。
 
 7月3日(日)の日中に、高校のときのクラス会があります。 ぼくだけのためではありませんが、明らかにぼくが参加しやすいように幹事さんが色々と気配りをしてくれているので、支障がない限り、出席しようと思っています。 治療が最初は点滴で始めると聞いているので、今からなら、一層のこと、入院が4日以降だといいんだけどと、思っています。 でも、何となくですが、その前になってしまいそう。 その日だけ、貼り薬にしてもらえるかなぁ(何とも自分勝手ですが)

 1月も書いていないと、近況といっても色々あるなぁ...。

 最後?の無駄遣いとして、中古車を買いました。 明日納車です。 入院するのに、いつ運転するんだ、と言われるに決まってますよね。 
 家内は入退院の荷物があるとき以外は、病院へは電車・バスを使う方が楽で安いと言っていますし。

 ちょっと海辺の木陰に車を停め、窓を全開にして、Sea Breezeに酔いしれながら、読書したり、FMを聞いたり、昼寝がしたいと思っています。 運転の中心はやはり家内になりますから、家内の協力は不可欠です。 
 色々なフォローアップは避けられませんけど、例え長続きしないとしても、ぼくの気力維持に半年でも、いや3ヶ月でも貢献してくれればありがたいということを、家内は理解してくれているので、とても嬉しく思っています。
 
2011年6月21日(火)午後
松澤
 

 






















母の死

2011年05月22日 | 日記
 10年来、心臓を患っていた母が5月17日夜に他界致しました。 享年77才。
 先行きの分からぬ息子としては、順番を守ってくれたことで、少しホッとしたところもありますが、女性の平均寿命からすると、まだ若い部類であり、色々なことに興味を持っていた母にとっては、まだ悔まれる死だったことでしょう。
 私たちは3人兄弟でして、私が長男、そして長女、次女がいます。 私が病気のため、また母はずっと、独身の長女と同居していたため、その長女が喪主を務めました
 母の交友関係については、私は一切知らないので、ただただ、ご参列頂いた方に頭を下げるのみでした。 宗教とは縁のない家なので、好きな音楽と、献花によって執り行わせていただきました。 小さな葬式でしたが、それはそれでよかったのではないかと思っております。
 今回、火葬場として指定されたのは、、横浜市の北部斎場というところで、長津田にあります。 私は初めて訪れました。 外観、内装とも、近代美術館を思わせるような建物で、とても明るく、火葬場とは思えないようなものでした。 動線もよく考えられていて、恐らく、厳しいコンペの末に選ばれたデザインなのではないかと思われました。 今回は喪主ではなかったので、少し余裕で、そんなところに目が行ったのかも知れません。 焼却された骨が出てくるときも、いきなり全身が入ったときの形で出てくるのではなく、別の口から出てきて、ごく身内が確認し、そこで頭部、上部、下部に分けてくれます。 それを、一般の皆さんが待っているところにお出しし、骨上げをしていただきます。 ですから、入ったときに足を組んでいたものが、そのまま出てきてしまうといったことで、ショックを受けない工夫がされています。 建物だけでなく、設備も最新のものが入っているようで、実に丁寧に焼き上げられていました。 
 私が死亡すると、横須賀市の場合は、浦賀にある、古くて実に陰気で、人気のないか火葬場を指定されるらしいので、その前に、この火葬場が指定される地域に引っ越したいものだと、思ったくらいです。

 私と母の間には、小家庭史の中で、いくつかの確執があり、必ずしも仲がよかったというわけではありませんでしたが、父、母のおかげで、3人兄弟は私立大学を出させてもらい、曲がった道に進むこともなく、1人前の社会人に育ててもらったことに、今は、率直に感謝したいと思っています。

 私自身の体調は、退院直後よりはだいぶ改善して疲れにくくはなってきたものの、今回の通夜、告別式と2日連続の緊張したイベントとなりますと、やはり、少し疲れが出ました。 今日は、寝たり、起きたりしながら、静養させていただいておりますが、母の急逝から改めて学んだことは、やはり、私も色々なことをもう少し急がねばということです。 言葉には出してはいませんが、私の家族も、同様に考え、また「慣れ」には要注意だということを再認識してくれたのではと、思っています。 5/3に私は一時退院をし、つぎの治療に取り掛かれるまで、血液数値の改善を待っているところです。 そういうタイミングでなければ、葬儀にも出席できなかったかもしれません。 偶然とはいえ、タイミングも、そして暑くも寒くもない天気にも恵まれ、よかったと思っております。


5月22日午後
松澤雅人

死線を少し彷徨ってきました

2011年04月26日 | 日記
 前回書いたときと、今日の間には個人的には大きなギャップがあります。
 ずっと罹患していた風邪が暴れだし、ついに肺炎となり、気づいたときにはICUでした。
 そして。聞くところによると、そこで2泊を過ごし、その後、特別個室に移されました。
 かなり高いのですが、多少割引きをしてくれるそうなので移りました。

 そして、その個室であっというまに2週間が経ってしまいました。 数日前から、ようやく食事ができるようになり、今日の午後、栄養点滴のチューブなども抜け、ようやく生きかえりました。 数日間寝たきりになると、日にちどころか、時間の感覚もなくなります。 その上、食欲もないので、生きてるのか、死んでるのか自分でも分からないような不思議な状態が数日続きました。

 メールなどを見たり、書いたりする気力もようやく戻りつつあります。 

 その間にも、新高3、新大学生の新しい生活は始まり、それぞれ大変ではあるが、希望に満ちた1年を迎えたようです。 長男の方は久里浜から都内まで通っていて、1限目が8:30からだそうで、とてもきついようです。 しかし、自分が好きな学科の勉強をしているため、どの授業も楽しいらしいです。 次男は高3となり、いよいよ受験の臨戦態勢。

 私自身は4月末か5月連休明け程度までに一時退院できそうです。 恐らく、1ヶ月くらい在宅療養をし、また入院して、つぎの治療に入ることになりそうです。
 どこまで、治療で行くか、緩和ケアに移るかは、そろそろ決める時期でしたが、現在の病院の医師の協力が得られそうなので、もう少し治療は継続しようと思っています。
 
 こういう旦那をもった奥さんというのはたいへんですね。 まずは一所懸命尽くしてはくれますが、何をしたらよいのか分からない。 私の没後は家長として、家計内のことを全部把握して決定してくれなければなりません。 日頃から、ライフプランなどに強い奥さんには大した負担ではないのかも知れませんが、うちの家内のように、衣食くらいの管理しかしてこなかった人に、将来お金がかかることについて、引き当てを取っておくと言っても、なかなか通じませんし、未来家計簿ができてきません。 何しろ、現在の家計簿が、私が最近ひな形を作るまで、銀行からの引き落としや入出金にも連動していなかったので、正確には毎月いくらで生計を営んだかが家内には分かっていませんでした。 昨年、それではだめだと思い一念発起。 私がいくつもの銀行の引き落としや出し入れに連動した家計簿と、銀行ファイルを作ってやりました。 そして、今は、私の死亡後、もらえる一時金がいくらで、遺族年金収入がどうなるかなどを入れた未来家計簿を作っています。

 私がいなくなることで、まず、収入構造が大きく変わります。 また、家計の中で支出として保険金の多くが減りますが、一部家族用にかけているものについては、団体扱いが個人扱いになったりするので、その分が増えたりします。 食費も変わるでしょうし、私の小遣いもなくなります。 また、住むところが一番変わります。 今は会社社宅扱いマンションに住んでいますが、死亡後は退出しなければなりません。 高額なので、個人で継承は難しい。 そこで、賃貸をするか、購入するかという選択があり、それぞれの場合について、シミュレーションをしています。 今、家内は月に10万円くらいになるパート仕事をしていますが、いつ切られるか分かりません。最低10万円、できれば20万円くらいの収入を得てほしいところですが、これは現在の、景気状況ではとても難しいです。 たいへんだが、需要があり、15万円くらいは得られるものとして、介護ヘルパーがありますが、
昨年、その資格取得をしてくれました。 今のパートの仕事を切られてしまったとき、ひとつの選択肢になってくれるとよいと思い、そうしてもらいました。 急な収入減や支出に出くわすと、パニックに陥るのは目に見えているので、具体的に書いてやっているつもりです。

 子供たちが大学生だったり、これから大学に入る時期だったりする訳で、入学金や授業料などの支出が想定されます。 
 私が在職可能期間満了までに死亡することが、保険的には一番良く、あまり深く考えなくて済むのですが、万一そうでない場合、すなわち存命だが、仕事はできないという最悪の場合も考えておかないといけないと思っています。 子供たちにはひとまずは奨学金を使ってもらうつもりですが、2人ともマスターまでは行くつもりなので、先は長いです。
 家内には、子供たちが就職するまでの行程について、色々なパターンで未来家計簿を作ってやり、迷いがないようにしてやろうと思っています。 (一緒にやっいますが、家内に理解させるのは一苦労。実に時間がかかりっていて、間に合わなくなるのではないかというのが、もっぱらの懸念です)

 実際には土地の処分など、生臭いことをいくつかこなさないといけないのですが、とにかく、一旦退院したら、少しのんびりしたいです。 一日、釣り糸を垂れていたいような気分です。 4/29-5/2清里で天体観察を予定していましたが、退院が延びたため、こちらはキャンセルにしました。 この敗者復活戦もせねば。 また、回路シュミレーションの趣味もありましたし、生きかえったところで少しずつ復活していきたいです。 

しばらく、ご無沙汰でご心配をおかけしました。

4月26日 夜
松澤