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11月12日

神奈川県・平塚界隈


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11月4日

数年前の上海界隈
ここ15年ほどの間に上海には3回行っている。勿論、街の中心部の変わり様はすさまじいばかりである。しかし一歩裏に回れば近代的なビルの建ち並ぶ繁華街とはうって変わって、懐かしいと思えるほどの古い町並みが残っている。
昨日のフジテレビの金曜プレステージ「泣きながら生きて」は、15年以上前35才の時に上海から日本へきた男性と、離れて暮らす家族を、中国人の女性監督張 麗玲さんが10年以上にわたって丁寧に追ったドキュメンタリー番組であった。
文化大革命の中で育ち、学びたくても学べなかった丁尚彪さんは、入学金と半年分の授業料の42万円を親戚、知人から借金して、1989年6月北海道阿寒町の日本語学校に入学し、大学進学を目指したものの、過疎化の波が押し寄せる阿寒は到底働きながら学べる環境などではなかった。
北海道から逃げるように東京に移動、不法滞在を続けながら、借金を返済する為に、そして自身が果たせなかった大学進学の夢を娘に託し、教育を受けさせる為に、昼夜を問わず、時には3つの仕事を掛け持ちで働き続け、送金し続ける。
やがて医師になる夢を叶えるための第一歩、娘はニューヨークの大学に合格する。合格して米国へ向かう途中、トランジットの24時間の短い間に日本で再会するのだが、それは実に8年ぶりであった。
そしてまた別離、さらにその5年後、12回目のビザ申請がやっと通った妻が上海からニューヨークの娘に会いに行く際の72時間のトランジットの間、東京での13年ぶりの夫妻の束の間の再会である。
その後、娘が米国で産婦人科医師として一本立ちするまでになった、
2004年、自身の為にではなく、家族の為に、特に子供の夢の為に苦労し続けた15年間の日本での生活に終止符を打つ。
日本に対して感謝しながら中国に帰国した。上海に向かう機上での丁さんの止まらない涙に、こちらも涙が止まらなかった。
父、母、娘3人が、それぞれ並々ならぬ思慮深さ、希望を捨てない我慢強さを持ち続ける姿に圧倒され続けた。
自分自身が上海に行き始めた15年前を、思い出す。丁さん家族が、夢に向かい、それぞれが思いもよらぬ人生になることは想像もせずに、父親である35才の丁尚彪さんが日本での生活を始めた、ちょうどその頃なのであった。
凛として、どこまでも実直なまなざしで「こんな人生も捨てたものではない」最後のインタビューの答えには胸が締め付けられるほどであった。


数年前の上海界隈
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