「見ぬ世の人を友として」 ~徒然草私論~

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(八) 十一年間の空白の後に

2006年01月21日 | 徒然草
 さて、安良岡説によれば、次の第三十三段との間には十一年間の歳月が横たわっているというのだ。
『徒然草』全体の底を流れているものは、やはり「無常観」ということになるだろうか。初期の文章は、どちらかといえば情緒的にそれを受けとめ、それがゆえに一層美しい文章を創り出しているといえるのかもしれない。
 しかし、兼好法師にあっても、「いきしに生死」の問題をより深く掘り下げてゆくためには、己の実人生を懸命に生き、歳の功を重ねていかなければならなかったにちがいない。十余年間の空白を破って再び筆を執ったとき、この文業に賭ける彼の決意は不動のものとなったのではなかったか。
 三十三段は、趣向をガラッと変えて、内裏造営にまつわる話。清涼殿の鬼の間おと殿上の間との仕切り壁に設けられた覗き窓に切り込みの部分があって、木で縁がしてあったのをほんとうは丸いだけで縁もないはずだと改めさせたというのだ。
 いわゆる「有職故実」に関わる話は、この後全編にわたって八十余り。二十一世紀に生きる私という読者からすれば、正直どうでもいいことであり、それよりなによりチンプンカンプンのことだらけ。スキップ読みしたくなるわけだが、兼好さん本人は大まじめ。どんな些細なことだろうが、良いものは良い、悪いものは悪いと鑑定を怠ることはない。細部にこだわる彼の執念には圧倒されてしまう。
 ある意味では、彼は復古主義者・伝統主義者のようである。永い年月を重ねることで初めて見えてくる物事の真贋の相。今風の流行にふり回される軽薄な輩に騙されてはならない。もしかすると、当時の京の都にあって、隋一の「目利き」としてのプライドがこういう事象をねばり強く記録しつづけさせたのかもしれない。
 これはたとえ難解でも手抜きして読み飛ばすわけにはいかない。
 私たちの読書会にはルールらしいルールはないが、不文律のように「簡単にわかってしまってはいけない。」という戒めがある。まさにこの種の文章に対する読者の姿勢として、さまざまな疑問や謎をまだまだ追究しつづけなければならないという課題は残されていくにちがいない。
 ともあれ、兼好法師の真贋を峻別せんとする「目利き」の鋭い眼光は、もちろん、「人間存在」そのものにも向けられていく。

(七)序段から再読

2006年01月11日 | 徒然草
 
もう一度、序段から読み直してみよう。
「つれづれなるままに」は、「ひまにまかせて」ということだから、まさに今の自分の境遇そのものということになる。隠者だの、世捨て人だの、遁世だのというけれど、現代の人間だったら、定年退職をすれば否応なくセンデー毎日を送ることを強いられるわけだ。岩波文庫の安良岡註では、「することもないものさびしさにまかせて」となっていて一入実感をそそられる。
 そこで「日くらし、硯にむかひて」筆を執るということになる。人によって趣味はさまざま、庭いじりをする人もあれば、ウォーキングを楽しむ人があってもいい。中に、なぜか机に向かい読み書きに熱中する、私のような人間もいるのだ。そして、ペンを執っているうちに、心の中にもさまざまなできごとや想いがとりとめもなく浮かんでくる。「心に移りゆくよしなし事」とはそういうことだろう。すると不思議に、表現者たるものは知らず知らずペンを走らせ、きりもなく言葉や文字を紡ぎ出さずにはいられなくなるのだ。「そこはかとなく」は通説は特に定まったこともなく、あてどもなく」だが、日ポの「際限もなく」と合わせてみると、質量ともに豊富になってゆく過程が見えてくる。
 さて、一番の問題は、自分の書いたものを読み返してみたときの何ともいいようのないあの感覚?…それを兼好法師は「あやしうこそものぐるほしけれ」と結んでいることだ。あたかも見ず知らずの人間の書いたものを読んでしまったかのように、奇妙な想いにとりつかれ、これは正気の沙汰ではないと断じているのだ。
 この序章は文字通り最初に書かれたものか、後から付け加えたものか、おそらくは永遠の謎といっていいだろう。序段だから『徒然草』という総体を規定しているにちがいないと窮屈に考えることもなかろうが、謙遜ととるにしても、「正気の沙汰ではない」と断定していることは、私には異様に思えてひっかからずにはいられない。
 とにかく第一段に入る。
「いでや、この世に生れては、願はしかるべき事こそ多かンめれ。」
 かくあってほしいこと、ほしくないことを挙げている。清少納言を引用しているくらいだから、法師の頭の隅には、最初から『枕草子』がちらついていたにちがいない。女性とちがって、男性だったから、あるいは世捨て人だったらこんなふうに思うんだよといいたげである。家柄にはじまって、容貌にもふれ、「ありたき事は、まことしき文の道、作文、和歌、管絃の道、また有職…」とつづき、最後に、「いたましうするものから(一応、迷惑そうに辞退しながら)下戸ならぬこそ、男はよけれ。」と言ってくれているのが、酒呑みにはまずありがたい。
 こうして改めて読み進めてゆくと、やはり名にたがわぬ名文だなあと感心せずにはいられない段が続く。
「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん、世は定めなきこそいみじけれ」(第七段)
「飛鳥川の淵瀬常ならぬ世にしあれば、時移り、事去り、楽しび、悲しび行きかひて、はなやかなりしあたりも人住まぬ野らとなり、変らぬ住家は人改まりぬ。桃季もの言わねば誰とともにか昔を語らん…」(第二十五段)
 数行の短い文章に過ぎないのに、ハッとさせられる発見があったり、その真情のあまりに清らかなのに、しばし言葉を失うような読書体験ほど冥利に尽きるものはない。
 第三十一段・三十二段は満場一致で感無量に浸った場面である。
「雪のおもしろう降りたりし朝」用件をしたためた文を送った返事に、「今日の雪のことに一言もふれないような不粋な人の頼みごとなど聞いてやれるものですか。」と言われて相手の人となりに感心したという話。行換えの末尾の一言。「今は亡き人なれば、かばかりのことも忘れがたし。」
 亡くなってみて、改めて知る人の情!
第三十二段では、月の美しい夜、訪れた家を辞去いたものの去り難く、物陰より見ていると、すぐには戸を閉めずに、しばらく月を眺める様子。まさかこちらに見られているとはご存知あるまい。女主人の日ごろの心がけあればこそと感心した話。こちらも「その人、ほどなく失せにけりと聞き侍りし。」で終わっている。
 現代の人間が忘れ果ててしまった美しい感性の持ち主。又、そのみずみずしい心をひそやかに受けとめる兼好法師のしなやかな精神。ほんの数行の文章でありながら、これほど清冽な読後感を残すことのできる喜びは久しく味わったことがない。



(六)読書会に加わって

2005年12月26日 | 徒然草
 
教壇を下りてから、再び『徒然草』を学ぶ立場に戻ることができたことは私にとってなんと幸運なことだろう。
 読書会に加えてもらえて、何よりうれしかったのは「三人寄れば文殊の智恵」しかも人生経験も読書経験もはるかに豊富な先輩たちの発想や情報が、自分の視野を拡げてくれ、さまざまな刺戟を与えてくれることだ。
 まずは、だれかが音読する。口語訳を確かめてから、疑問や感想を出し合う。段によってはすぐに次ぎへ進むこともあるし、一時間も二時間も、ああでもない、こうでもないととどまってしまうこともある。前回課題として残ったことをどなたかがいろいろ調べたり、研究した成果を披露してくれることもある。方法としては至って単純だが、これが永続きする秘訣かもしれない。
 お恥ずかしい話だが、国語教師でありながらこれほどの代表的な古典ですら全文を通して読んでいないのだ。もちろん何度かは試みてはいるのだが、万葉集などといっしょで、どうしても途中で投げ出してしまうことになるのだ。物語や小説ならストーリイの展開を追ってゆくうちに知らず知らず結末に辿り着いてしまうのに、随筆や歌集となると小刻みすぎてかえって永続きできないのだ。
 しかし、読書会では仲間の支えがあるから一段一段、たとえスロー・テンポでも着実に読みを進めていくことができる。
 特に「音読」が入るのがいい。自分が読み手になるときは、仲間のみんなが聴いていてくれるから張りが出てくる。逆に、他人の読むのを耳にしながら注意深く文章を受けとめていくこともできる。文章を味わう、ことに名文を味わうには音声に置き換えることがどうしても必要なのだ。「黙読」に慣らされてしまっている現代人にとって、こうした読書の場を持つことは貴重な経験かもしれない。

(五)「神無月のころ」の授業

2005年12月17日 | 徒然草

『徒然草』の授業といえば、なんといっても第十一段「神無月のころ」の思い出が一番印象深く、忘れることができない。
 あまりにも有名な段ということもあるが、自分なりに意欲的に取り組んだということもあるかもしれない。
 文章としても歯切れがよく、少しの無駄もない、まさしく達意の名文に違いない。「読書百篇意自ら通ず」とするにはピッタリの段であり、暗誦にまでもっていける手ごろの長さでもある。
 私は、難語句の取り立て学習を最低限度に抑えて、あまり細部にとらわれることを避け、むしろ前後関係から話の大意を自力で把握していくような授業にしたいと考えた。生徒たちの感性と想像力に大いに期待したかったからである。「庵」「懸樋」「閼伽棚」などはどうしても視覚的に理解しておく必要がある。しかし、文末の助動詞など詞に対する辞の方は、いちいち気にしているとかえって全体が見えにくくなってしまう。
 まずは「神無月のころ」という季節感の受け止めから入る。旧暦十月といえば晩秋から初冬の時期。天気はいいだろう。でも風は結構出てくることだ。稲も刈り取られた後、柿の実なども残り少なくなってきているだろう。「寂しい風景…」「でも、なんとなくロマンチック…」という声も上がる。
 栗栖野を横切って山里に入り込み、「はるかなる苔の細道」を上っていったのだから、かなり山深い、人のあまり通らない所まで来たにちがいない。すると「心細く」だから、たった一軒だけ草庵が立っていたのだ。
 「いおり庵」という字を見ると、蕎麦屋の屋号に「知久庵」などとある、あれだねというような情報もとび出す。でも、もともとは草ぶきの小さな粗末な家。きっと一人暮らしだろう。お坊さんかな? 囲炉裏なんかありそうだな…。
 落葉でつまってしまっているのだから、懸樋の水の通りもよくはないだろう。落ちていく雫も「ポトーン、ポトーン」ぐらいかな。それが聞こえるぐらいだから、さぞや辺りはしーんと静まりかえっているにちがいない。「閼伽棚の菊、紅葉」は、仏様に供えるお花として採ってきたのだろう。だれか亡くなった人がいたのかな。それとも、この家の主人は信心深い人なのかもしれない。主人はどうやら留守のようだ。薪でも拾いに行っているのかな?
「かくもあられけるよ」は「このようでも生きてゆけるものだな」と脚注の口語訳で確かめればいい。問題はその後の「あはれに見る」とは、兼好さん、どう見たのかな? これは取り立てて考えさせたい。
「やっぱり、寂しい山奥の独り暮らしだからかわいそうと思ったのじゃないかな。」
「でも、兼好さんも世捨て人だっていうのだから、同じ境遇とちがうかな…」
 国語の学習は、こういう時こそしっかり辞書を引かせなければならない。「あはれ」は、同情を寄せる。②しみじみとした味わい、趣などとある。
 生徒たちの語いの中には「趣」などという高尚なものは入っていないが、②の方を当てはめてみると、人里離れた、静かな自然環境の中でひっそりとつつましく暮らす人の姿が浮かび上がってくる。
 そして、その上で「かなたの庭に」大きな蜜柑の木に実がいっぱいなっているのをみつけたとき、いや、その周りをきびしく囲いがしてあるのを見つけた瞬間、「少しことさめて」「この木なからましかば=この木がなかったなら…」と思ったという兼好さんの感想は「…」の部分はどんなものだったのか主発問を提示してみる。
「きびしく囲うのは蜜柑を取られたくないからだろう。そんなことをしなくても、こんな山奥で取られっこないのに、全くの取越し苦労だよ。」と取る者もいる。「独り暮らしなら食べきれっこないのに。独り占めする気かな」と非難する者もある。
 もちろん、こちらは、地味な草庵生活をしているはずの主人にも「もの」に執着する心を捨てることができないのか! という兼好の失望の念を読みとってもらいたいのだが…。
 ところが生徒たちの純朴な眼は、意外な方に向いてしまう。
「先生、この囲いがなかったら―というのならわかるけど、この木がなかったらってどういうことなんですか?」
「? ? ?…」私もグーの音も出ない。
 そもそも、この「柑子の木」は何を象徴しているのだろうか。当の主人が留守で姿を見せないのにもなにやらひっかかるところがあるではないか?
 かくして「神無月のころ」の授業は、肝心の所で行きづまって、大きな課題を残したまま終わらざるをえなかった。…

(四)摩訶不思議なる人間存在への探究へ

2005年12月14日 | 徒然草
 生徒たちに人気のあるのは、やっぱりストーリー性のある文章だ。
 第四十五段「公正の二位のせうとに」などは落語の正解そのものといっていいくらいで、生徒たちは大喜びとなる。短気でおこりん坊の良寛僧正の話。坊(住まい)の横に大きな榎の木があったので、人々は「榎の木の僧正」と呼んでいた。これに腹を立てた僧正は榎の木を切らせてしまう。すると、人々は「切りくい株の僧正」と呼ぶようになった。いよいよ頭にきた僧正は、その切り株ごと堀り取らせてしまう。これでもうあだ名はつけられないだろうと思いきや、その跡が大きな堀になったので今度は「堀池の僧正」と呼ばれてしまった。どうやらこれで勝負はついたようである。どんなに偉いお坊さんも庶民の意地悪なのにはかなわない。とはいえこの僧正様、憎めないところのあるほほえましいキャラクターといえないだろうか。
 隠者文学というとなにか抹香くさい、じめじめしたものに考えがちだが、『徒然草』の作者の眼は何ものにもとらわれない、まっ直ぐで、しかも大らかな受けとめ方のできる眼なのだ。一旦「世間」と縁切りしてしまえば地位も権威も常識さえも気にならなくなるのだろうか。全く自由な立場でもの事を見通すことができるようだ。
 例えば、「高名の木登りといひしおのこ男」の話を聞いて、「あやしき下なれども、聖人の戒めにかなへり」とまで賞賛できる兼好法師の人間観は、封建社会の中にあって一人抜きん出ていたとしか思えないぐらいだ。
 生徒たちと『徒然草』を読み合っていくうちに、どうやら私の関心事も「この摩訶不思議なる人間存在」探究の方角へと向かっていったようだ。
 第五十二段「西大寺静然上人」は日野資朝の話である。高齢ゆえに腰もまがり、眉も白くなった上人のお姿を拝し、「なんと尊いことか!」と感じ入った内大臣に対して、「いとも簡単に「ただ歳をとっているだけではないか。」と突き放す。しかも、それだけに終わらず、後日、老いさらばえた犬を引かせて、「この犬も尊くお見えになることでしょう。」と献上したという。
 この話につづいて百五十三段、百五十四段と資朝を登場させているが、激動の時代を強烈な個性のままに走り抜けたこの男のいきざまを兼好も驚きをもって見つめていたようである。

(三)国語教師となって

2005年12月09日 | 徒然草
 
やがて、国語教師の端くれとなったおかげで、学ぶ立場から教える立場に自らを転換させるという新たな体験を重ねることになった。それは私にとってやはりとても幸運なことであったと思う。教えるとは結局は共に学ぶことになるのだけれど、とりあえずは初心者の生徒たちを前に何らかの働きかけをしなければならないのだ。
 在職三十八年の間、『徒然草』をはじめ、さまざまな古典教材を取り上げて授業をやってきたけれど、そのできばえの方は勘弁してもらうとして、私自身としてはとても楽しく充実した時間を持つことができたと思っている。
 第一に、なんといっても古典は永い時代を生き抜いてきた一級品なのだ。初めのうちこそ取っつきにくいということはあっても、外側の邪魔もの(?)―難解語句や文語表現―さえ取り除いてやれば、その中身のすばらしさはかえって一層生徒たちの心にくいこんでいけるものなのだ。
 第二に、言葉の障壁もむしろ読みの歯応えとなって学習意欲をそそることになる。一見易しいはずの現代文は、一読しただけでわかってしまった気にさせるという弊があるが、古文の方は、初めはまるきり見えないものが、学ぶにつれて少しずつヴェールがはがれて明らかになってゆく、スリリングなところが実に楽しいのだ。
 第三に、声に出して繰り返し読み、できうるならば暗誦する所まで持ってゆくのにこれ以上にふさわしいものはない。俗に言う詰め込みなどとんでもない。生徒たちは暗誦に挑戦するのが大好きだときている。彼らがそのすべてを覚えきったときのうれしそうな表情ときたら、こちらまでが相好をくずしてしまう。
『徒然草』の文章は、中学二年か三年の教科書に必ず載っている。教科書に組み入れるには、長さからいってもちょうど手ごろの段が多いのだろう。見直してみると、序段を別にして十そこそこの段がとっかえひっかえ引用されているに過ぎない。いわゆる「中学生向き」と見なされた段はそんな所なのだろう。
 教える立場に立たされてみると、『徒然草』の文章の特色はどの辺にあるのか一応こちらの押さえを持っていなければならなくなる。『徒然草』即随筆の典型ととらえ、いささか乱暴ながら、教科書に採られているいくつかの段から帰納すると、「見聞きしたこと、もしくは体験したことプラスそれに対する感想・批評」というパターンが見えてくる。
 第十一段「神無月のころ」がそうだし、第五十一段「亀山殿の御池に」第百九段「高名の木登り」もそうだ。
 第五十二段「仁和寺にある法師」の話は、老法師が年来の夢だった石清水八幡参詣(これも神仏混合思想のあらわれか)に出かけたのだが、麓にある極楽寺・高良神社だけお参りして、肝心の山上の八幡宮へは行かずに帰ってきてしまったという失敗談である。兼好は最後に一行、「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。」としめくくる。何事にも道先案内はほしいものだというわけである。何かにつけ教訓を垂れたくなる教師にとっては思うツボ、自分の体験談まで持ち出して得意の絶頂に至る。こうなるといつの間にやら『徒然草』も修身読本になり下がってしまいかねない。
 ところが生徒たちはどう受けとめたか? 彼らはそうした教訓よりも、「骨折り損のくたびれ儲け」に終わった老法師に同情を寄せ、「ご本人は念願がかなったつもりでいるのだから、むしろそっとしておいてやった方がいい。」などと言い出すのだからおもしろい。

(二)中世文学の魅力

2005年12月03日 | 徒然草

 昭和三十一年、私が大学に入ったころ、国文学界は、中世文学研究黄金期と言っていい活況を呈していた。西尾実、風巻景次郎、永積安明、石母田正といった壮々たる顔ぶれが、雑誌『文学』や『日本文学』に次々と論文を発表していた。専攻の国文学の道に入ったばかりの私とはいえ、その息吹を感じないわけにはいかない。
 とりわけ『平家物語』が脚光を浴びていて、「平家」でなければ中世文学ではないかのごとく思い入れたものだった。それまでは文学といえば近代文学しか眼中になかった私が、夏休みには朝日古典全書の『平家物語』(富倉徳次郎校正)を曲がりなりにも読破していたのである。
 あるとき、中世文学の植松先生が、「君の発想はなかなかおもしろい。」と学内の国語国文学会で発表するようチャンスを与えて下さった。それが、原「平家」の序章は、「祇園精舎の鐘の声…」ではなく、平氏興隆の基を築いた忠盛の智恵と勇気を描いた「殿上の闇討ち」こそがこの一大叙事詩にふさわしいプロローグだという、今思えばなんとも幼稚な論を真顔で展開したのだから、穴があったら入りたい限りである。
 ただ、こうした発想のもとになっているのは、「無常観」という既成の枠組みで古典をとらえるのではなく、変革期の文学として、その積極的なエネルギーを発見していこうとする当時の国文学界の潑剌とした姿勢である。
 中でも、永積安明の論考は甚だ刺戟的で、例えば、「全体として深刻な悲哀の文学でありながら、一方ではその悲しみを行動によってのりこえようとする。このような矛盾・衝突を統一的にとらえたところに、『平家物語』の文学的な構想力の本質がある。」(「日本文学の古典」六より)というような論述は、生かじりながら弁証法をわがものにしようとしていた当時の学生の一人としては、わが意を得たりとするに充分であった。
『平家物語』一辺倒に終わったわが学生時代だったが、古典の深さを垣間見ただけでもかけがえのない収穫を得たといっていいだろう。

(一)『徒然草』との出会い

2005年12月02日 | 徒然草
 そもそも『徒然草』との出会いは、はるかな昔、わが中学時代に遡ることになる。
 同じ年代の人なら国語の教科書に載っていた『徒然草』の文章といえば、第五十三段「これも仁和寺の法師…」あの鼎法師の話であることを思い出すにちがいない。宴の座興に、その場にあった鼎を頭からかぶって踊り出した一法師。ヤンヤの喝采を浴びたはいいが、抜こうにも抜けなくなってしまい大変な目に遭ってしまう。異様な格好の法師の姿が挿絵にも描かれていた。この短い話が、少年の私の脳裏になまなましい残像をもたらしてくれたのである。
 いくらお調子に乗りすぎてしでかしたことにせよ、鼎の中にはまり込んでしまった己の頭部をどうすることもできたいでいる法師の閉塞感に同情しないわけにはいかないではないか。しばしば意地悪な兄たちにフトン蒸しにされたことが想い起こされ、真っ暗な中、息もできたくなってしまうあの恐怖感・絶望感がストレートに伝わってくる!
 私にとっての『徒然草』は、まず忘れようとしても忘れられない、異常な話としてたち現れたのである。この種の、いわば説話的な世界は、中学生レベルの好奇心を刺戟するだろうという理由に違いない。今日の教科書にもよく見受けることができる。
 古典教材として正式に学習したのは高校生になってから。薄っぺらな副読本ながら、わが師北岡先生から教えていただいた。
「ゆく河の流れはたえずして、しかももとの水にあらず…」で始まる鴨長明の『方丈記』そして、「つれづれなるままに日ぐらし硯にむかひて…」の『徒然草』の二冊は、中世随筆文学の代表作であり、しかもわが国随筆文学の傑作だとまず解説された。「無常観」というキー・ワードもこのとき初めて知った言葉である。
 そして、当時の授業を想い起こそうとするとなぜか最初に口をついて出てくるのが、「花は盛りに月は隅なきをのみ、見るものかは。…」で始まる、(下)の冒頭=第百三十七段なのである。今でこそ名文の代表として賛嘆を惜しむことはないのだけれど、十代のころの好みとしてはいささか首をかしげたくなるのであるが…もしかすると、北岡先生自身がお気に入りの文章だったのではなかったか? そうだとすれば、あこがれの師の好みは即ちわが好みとなっていたとしても不思議はない。
 今も耳元に囁いてくる、なつかしい先生の範読のあの声調! それを真似して何度も何度も声に出して読んだものだ。そんなことがあったからこそ、この一節を忘れることができないのではないか。もはや天上の師に聞くわけにもいかないけれど。
 はんご反語という表現法のあることも先生から教えてもらった。「見るものかは」は「見るものであろうか、いやそうではない」ことをもっと強調した言い方なのだという。世間の常識をひっくり返してしまう兼好の論法には、生意気ざかりのころだけに、実に痛快に思えたものだった。
 しかし、その自然観や死生感などを深く読み取るには、まだまだ年輪を重ねなければならなかったのは当然のことである。それにしても、古典観賞の基本を手ほどきしていただき、文語分を声に出して読む醍醐味を伝授してくださった先生の御恩を忘れることはできない。


はじめに

2005年12月02日 | 徒然草
 根っからの甘えん坊ゆえ、しかたないのだろうが、私は格別に寂しがり屋である。
 老母が存命の間は、寂しくなると実家に帰ってゆくのが何よりの救いであった。慕う師の、我を迎えてくれる微笑を恃みにその門を叩いた時期もあった。何かあれば無二の朋と酒を酌み交わす手が残っていると信じていたが、彼の方があまりにも早く先立ってしまった。子煩懊の挙句の果てに孫におぼれていればすべては忘れられるのかと思っていたが、あっという間に賢くなって、近ごろは相手をしてくれなくなってきたのにはいささか参っているのが正直なところ。
 そんなわけで、私は依然として寂しがり屋のままである。そして、寂しさが昂じてくると知らぬ間に机に向かっている自分に気づいてはひとり苦笑いしている。鉛筆を握れば、とりとめもないことを文字に置き換えたり、その辺に書物があれば、ページを繰っては、どこぞに寂しさを癒してくれる特効薬でもありはしないかと一縷の望みをかけるのである。つまり、そうした行為こそが私にとっての作文であり読書に他ならないのだ。
 読書といえば、目下『徒然草』にはまっている。兼好法師の方は迷惑至極かもしれないが「ひとり、燈のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。」(第十三段)とお書きになっているのだから、私ごとき愚者だとて友の一人に加えてもらえないとは言えますまい。悪女の深情というやつかもしれないが、寂しがり屋が解消しない限り、当分はこの縁を切る気にはなれそうもない。