「見ぬ世の人を友として」 ~徒然草私論~

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はじめに

2005年12月02日 | 徒然草
 根っからの甘えん坊ゆえ、しかたないのだろうが、私は格別に寂しがり屋である。
 老母が存命の間は、寂しくなると実家に帰ってゆくのが何よりの救いであった。慕う師の、我を迎えてくれる微笑を恃みにその門を叩いた時期もあった。何かあれば無二の朋と酒を酌み交わす手が残っていると信じていたが、彼の方があまりにも早く先立ってしまった。子煩懊の挙句の果てに孫におぼれていればすべては忘れられるのかと思っていたが、あっという間に賢くなって、近ごろは相手をしてくれなくなってきたのにはいささか参っているのが正直なところ。
 そんなわけで、私は依然として寂しがり屋のままである。そして、寂しさが昂じてくると知らぬ間に机に向かっている自分に気づいてはひとり苦笑いしている。鉛筆を握れば、とりとめもないことを文字に置き換えたり、その辺に書物があれば、ページを繰っては、どこぞに寂しさを癒してくれる特効薬でもありはしないかと一縷の望みをかけるのである。つまり、そうした行為こそが私にとっての作文であり読書に他ならないのだ。
 読書といえば、目下『徒然草』にはまっている。兼好法師の方は迷惑至極かもしれないが「ひとり、燈のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。」(第十三段)とお書きになっているのだから、私ごとき愚者だとて友の一人に加えてもらえないとは言えますまい。悪女の深情というやつかもしれないが、寂しがり屋が解消しない限り、当分はこの縁を切る気にはなれそうもない。