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~豪に入っては豪に従います~

金澤攝さんのこと

2007年01月18日 | 音楽
音楽家の金澤攝氏にお会いする機会に恵まれた。

氏の音楽活動についてはこちらでその一端が紹介されているし、著作「失われた音楽~秘曲の封印を解く」(龜鳴屋、2005年)でも知ることができるが、実際お会いすることで一層彼の活動の意味や方向性に対する認識を強めることができたように思う。


19世紀の作曲家たちの星の数ほどある作品を、探し出しては紐解き、次々と音にしていくという果てしない活動。自らの足を運んで行ってきた収集作業とその演奏。そうした数十年にわたる氏の活動はきっと、「見えるべきもの」を最初から恣意的に設定してしまったとしたら、一歩も先へ動けなくなるような、気の遠くなるものだろう。


作曲家の創作の中で、「傑作」としては扱われなかった、
無数の作品をすくい上げることで見えてくるもの。

後世において、時代の顔、巨匠として扱われなかった、
無数の作曲家をすくい上げることで見えてくるもの。


そうした「結果として見えてくるもの」を、真摯に追い求めることによって19世紀の音楽の姿を追求していこうとするその姿勢は、極めて「実践的」とも言えるだろう。実際、15歳で渡仏し、アカデミズムとして音楽を「学ぶ」ことなく、氏は独自にその研究過程や方法を体得されてきた。音楽学の領域においてはすでに、作曲家作品研究に重点的に集中するばかりでなく、ある作品や作曲家が投げ込まれている社会や時代、「文化」としてくくられる枠組み全体を捉える必要性が叫ばれて久しい。しかし、そうした必要性へのアプローチとして、金澤氏はむしろ作品の側から、それも「傑作」として残ってきたものではなく、すでに埋もれつつあり、忘れ去られつつある個々の音楽作品そのものから照射させていく方法を取っているのである。

そのような氏の活動は、ある作曲家や時代に対し我々が抱く「像」を、つねに更新可能性に晒し続ける。そしてまた更新可能性は、絶えず「作曲家の『個性』とは何か」という問いを我々に差し向ける。
お話を伺う中で氏の口から「個性の粉砕」という言葉が現れた。私はその言葉を聞いた瞬間、「ああ、これこそがこの人の創造性に他ならないのだろうな」と感じた。

連載や著作、そして伝え聞いていたところからの私の氏のイメージは、「直向(ひたむき)で厳しい孤高の人」といったものであったが、実際お会いしてみると随分と私の印象は変わった。もの静かだけれどどこかお優しく、お話の内容からはそこはかとない明さとしなやかさが漂い、芯のしっかりした声でよく笑い、話の受け手であるこちらの興奮具合を感覚的に受け取って下さる方だった。

話が次第に盛り上がり、ご自身の自作のスコアを次々と見せて下さった。チェレスタ・ピアノ・オーボエといった独特な編成の小品、19世紀イタリアの作曲家の作風を徹底的に用いて作曲されたもの、十二音技法によるもの、メシアンの鳥の声を彷彿とさせるもの、かといえば古神道秘説に寄せた合唱曲や、稲葉之白兎の物語を題材にした歌曲(編成におもちゃのピアノやウサギの太鼓が入っていたりする!)(いくつかはすでに初演され、録音も聴かせていただいた)。
一方で、棚の奥から出してきてくだった中には、完璧に浄書された十代の頃の複雑なオーケストラ作品や二十歳のころの実験的な作品もある。これらは混沌かつ静謐なテクスチュアが多く見られたが、不意に長三和音へと収斂される音運びなどはきっと美しく響くだろうと想像されるものも多かった。

これらのスコアを手にし、私はすっかり興奮してしまった。これらの作品どれ一つをとっても、「作曲家金澤氏らしい」とくくってしまえるようなものはすぐには見当たらない。どの一曲もそれぞれにあまりに個性的。それにゆえにこそ、一人の作曲家としての「個性」が「粉砕」されてしまう。やはり、これこそこの人の創造性。しかしあえて言うならば、どの作品にも、「不必要な深刻さ」みたいなものは見えない。これはこの人の根の明るさに起因するのだろうと思う。
作品に漂う迫力はしかし、いつの日か作曲者の手を離れ(今はご自宅から持ち出すことはお考えになっていないとのこと)、いつか恣意的に深刻に読み込まれてしまう危険性を、私は憂慮してしまう。


上記著作に見られる丹精な日本語は、一見して格調高いものだが、ポストリュードに著者自身が「何よりもまず、楽しい本であってほしい」と書いている。氏の音楽活動そのものもまた、いかに「世の中の人々が、いい音楽を楽しんでくれるだろうか」ということが根底にある。つまらない「こだわり」からは程遠い姿勢。反権威主義的。著作の最終ページにある言葉こそは、この人の明るさだ。

「独善に陥らず
 練習を怠らず
 自らの天命を信じ
 不安の機微を制し
 損得を考えず
 楽観主義を標榜し
 自然体に徹すれば
 どうにかなるであろう

 OSAM N. KANAZAWA」

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2 コメント

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Unknown (eiko)
2007-01-21 02:15:48
明るさとしなやかさ、そして勤勉さ。自らの信じる「道」をコツコツと歩んでいかれる金澤さんの姿勢に、大げさですが生きる勇気をいただいている気がします。更新可能性を提示し続ける「実践的」な活動。目指していきたいものです。
もうすぐシドニーへお戻りですよね?寂しいですが、私も密かに「ネットワーク感」を抱きつつ、ajskrimさんの「道」を応援させていただきたいと思っています。またお会いできる日を楽しみに…。どうぞお元気で!
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>eikoさん (ajskrim)
2007-01-21 16:02:01
金澤さんは、演奏家は今私たちが生きる現代の作品を演奏することの責任のようなものも訴えておられます。そのような意味でも、私はeikoさんの活動は本当に素晴らしいと思っていますし、陰ながら応援しております!
お互いにがんばりましょう☆
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