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「生活は守るけど命は?」 大飯再稼働を決断した野田首相の“誤解”

2012-06-14 09:26:53 | 騙マスメディア

「生活は守るけど命は?」 大飯再稼働を決断した野田首相の“誤解”

市民の声も聞く真のリスクコミュニケーションの実現を

  • 2012年6月14日 木曜日
  • 河合 薫

 

 いかなる組織であれ、リーダーには責任がつきまとう。だが、時にその責任を果たそうとすればするほど、その責任感が傲慢さに化けることがある。いや、傲慢とは言い過ぎかもしれない。ならば、リーダーが陥る「誤解」だ。

 関西電力大飯原子力発電所の3・4号機の再稼働を「自らの責任」と称した野田佳彦首相などは、その誤解に陥った典型と言えるかもしれない。あの頬を紅潮させた様子は……、オッと、冒頭から一国のリーダーに対して「誤解」という言い草は申し訳ない。けれど、今回ばかりは言わせてもらいます。だって、黙ってはいられないほど、事態は深刻なのだ。

 ということで、原発再稼働を巡る問題から、リーダーの大いなる「誤解」について考えてみようと思う。

安心どころか不安を増幅した野田首相の発言

 「皆さんの生活は絶対に守りますが、命はちょっと……」

 今月8日に同原発再稼働に関して行われた野田首相の記者会見は、そう言っているようにしか、聞こえなかった。

 生活があってこそ命があるのか? いやいや、命があるからこそ生活があるのではないのか? 何だかよく分からない。

 しかもその2日後。都内で行われた講演会で、野田首相は次のように語ったそうだ。

 「精神論だけでやっていけるのかというと、やはり国民生活、経済への影響を考えて、万が一ブラックアウト(停電)が起これば、大変な悪影響が出る。1年前の(東京電力福島第1原子力発電所の)事故の生々しい記憶が残っている中で、国民は複雑な思いを持っていると思うが、(再稼働の)判断が迫られている時期だった。(世論が)二分している問題について、しっかりと責任を持って結論を出すというのが政治の役割だ。私の責任の下で判断をさせていただいた」

 う~む。「福島第1原発と同様の事故が起きるのでは」と案ずるのは、精神論なのか? そうではないだろう。

 原発を動かすことに対して多くの人がアレルギーを抱いているのは、自然の猛威に人間が太刀打ちできない恐ろしさを東日本大震災で思い知らされたから。仮に福島第1原発の事故が人災であったとしても、だ。

 確かに電力は必要かもしれない。万が一大規模な停電になったら、大変な事態になることも理解できる。原発に代わる発電手段が十分に確保できていない状況で、今すぐに「原発を全廃します!」とは言えない事情も、その大きな問題を、「私がリーダーとして決断をしなければならない」と、批判を覚悟の上で決意した野田さんの心境も分からないではない。

 でも、恐らく私も含め多くの人たちが、大飯原発再稼働という決断に釈然としないのは、「安全だ!」とか、「私の責任だ!」という言葉を聞けば聞くほど、「信じられない」という疑念が深まるからではないだろうか。

 「責任を取る」と豪語し、「万全だ」と強調すればするほど、「何か裏があるのでは」、「何か隠しているのでは」、「どうせ自分たちには関係ないと思っているのでは」と勘繰りたくなる。そして「一体、誰の味方なんだ!」と声を荒げたくなるほど不信感が急速に沸点に到達する。その結果、緩やかな原発反対派だった人たちまでもが、「ノー」を突きつけたくなってしまったのだ。

 だって、どんなに安全基準を見直そうとも、リスクはなくならないわけで。どんなに安全だと言われようとも、どんなに「すべては私の責任ですから」と頬を紅潮させても信じ切ることなどできないのだ。

一方通行ではないリスクコミュニケーション

 そもそも「動かす」「動かさない」の二者択一の選択では、どっちに決めたところでしょせんリスクはなくならない。しかも、そのリスクがいかほどのものなのかを正確かつ具体的に知らされない以上、一般の国民は神頼みでもする以外に手がなくなっていく。

 「動かす」と決められたら、「神様、どうか大地震も、大津波も、富士山噴火も、起きませんように!」と天を見上げ、「動かさない」と決められたら、「神様、どうか猛暑になりませんように!どうか節電で乗り切れますように」と、そのリスクが現実のものとならないように祈るしかないじゃないか。

 リスクコミュニケーション――。

 これは個人、集団、組織などに属する関係者たちが情報や意見を交換し、その問題について理解を深め、互いにより良い決定を下すためのコミュニケーションである。専門家から素人への一方的なリスク情報の伝達ではなく、素人の側からも、疑問や意見を受け付ける相互作用のプロセスを意味する。

 言い換えれば、リスクコミュニケーションとは、一般の人たちの「知る権利」であり、リスクに対する彼らの不安や被害をできる限り減らすための唯一の手段、でもある。

 リスクコミュニケーションという用語が広く使われるようになったのは、1万人以上の死者を出して史上最悪と言われたインド・ボパール事故がきっかけだった。

 1984年にボパール北端にある有限会社インド・ユニオン・カーバイド(米ユニオン・カーバイドの子会社)の工場で、操業中にメチルイソシアネートという化学物質の貯蔵タンクに水が異常に流入し、その結果生じた化学反応によってタンク内の圧力が急激に上昇。ところが安全装置が作動せず、メチルイソシアネートが大気中に大量に放出され、いわゆる有毒ガスが工場周辺の市街地に流出する事態に発展したのだ。

 ボパール市民健康病院の発表によると8000人以上が瞬時に死亡し、50万人以上の人が被害を受けたとされている(東京海上火災保険編『環境リスクと環境法〈米国編〉』=有斐閣=では、死者約3000人、その他の被害者約20万人の甚大な被害をもたらしたと記載)。

 そこで1986年に米議会は、「緊急時行動計画と市民の知る権利法」(Emergency Planning and Community Right- To-Know Act =EPCRA)を制定した。これによって、地域住民が化学物質のリスク情報を知ることができるようになり、環境に影響を及ぼす可能性のある施設を設置する場合、一般市民との対話プロセスが必須となったのである。

置き去りにされたままの「住民の声」

 その後、災害心理学や災害社会学などの研究領域でもリスクコミュニケーションが着目されるようになり、災害のリスクコミュニケーションの知見が世界的に広がった。

 例えば原発を推進しているフランスでは、チェルノブイリ原発の事故をきっかけとして、2006年に「原子力安全透明化法」(正式名称は原子力に関する透明性及び安全性に関する2006年6月13日の法律2006-686 号)と呼ばれる法律が制定され、リスクコミュニケーションが積極的に行われている。

 「原子力安全透明化法」が制定されたことで、国は地方公共団体、発電事業者および住民に対して、常に原発に伴うリスクに関する情報を円滑に伝達しなければならなくなった。そして、情報を共有することで、相互に意思疎通を徹底し、住民のニーズを正確に把握し、必要とあれば事業方針を見直し、行政や事業者に対する住民の信頼を醸成することが不可欠となったのである。

 そうなのだ。今の日本でもっとも置き去りにされているのが、「住民」の声。情報が透明化されることもなく、相互作用のプロセスも徹底されないまま、「精神論」と言われたのではたまったもんじゃない。

 ホントは野田さんだって、「安全を100%担保することなどできない」ことくらい、分かっているはずだ。でも、その一言をリーダーが口にすることは、「国民を不安にさせる」と考えた。あるいは、リスクを正直に伝えたら、「国民がパニックに陥る」と懸念したのではないだろうか。

 だから、やたらと「安全を確認した」と繰り返したにもかかわらず、「安全基準にこれで絶対というものなく、政府の安全判断の基準は暫定的なものであり、新たな体制が発足した時点で安全規制を見直す」などと、内容に矛盾が目立つちぐはぐな会見になってしまったのだろう。ん? 私は少しばかり野田さんを好意的に見すぎだろうか?

 だが、リーダーがリスクを言いたがらない傾向は往々にしてある。多くのリーダーが、リスク情報の公開をひどく嫌う。どんなに「情報公開は大切です」と断言した人でも、ひとたび責任を伴うリーダーになった途端、口を閉ざす。まるで魔法使いに魔法をかけられたように、だ。

 例えば、自分の会社が倒産したことや大規模なリストラが行われることを、「ニュースで初めて知った」なんてことは、決して珍しいことではない。だが、青天のへきれきで企業が倒産するなんてことは現実には滅多になければ、ある朝に突然リストラが始まるなんてこともない。

 いや、よほどノー天気でおめでたい超楽観主義のリーダーであればその可能性もゼロではないかもしれない。でも、フツーは、倒産しそうなリスクや、リストラに至るようなリスクが、少なからず事前に顕在化しているはずだ。

人間は簡単にパニックには陥らない

 ところがリーダーは、「こんなことを伝えたらパニックになる」「こんなこと知ったら士気が落ちる」「正直に話した途端、優秀な人材から先に会社を辞めてしまうのではないか」などと危惧する。

 実は、これこそがリーダーの大きな誤解なのだ。そもそも人間は、そんなに簡単にはパニックに陥らないし、1つの情報だけでやる気を失うほど単純ではない。

 以前、業績のV字回復を果たしたある企業のトップにインタビューをさせていただいた時のことだ。このトップは、踏みとどまることができた理由について次のように語ってくださった。

 「社員を信じることが、危機を脱するには欠かせないんです。私は、社員に会社の危機的状況をさらけ出す覚悟をした。それを知って辞める社員もいるかもしれないとも思ったし、士気が落ちるんじゃないかって不安もありました。いや、それ以上に、そんな事態になるような経営をしていた自分への羞恥心もあった」

 「でもね、こっちが恥や外聞を捨てて、正直に良いことも悪いこともあからさまに話すと、相手もそれを誠心誠意受け止めてくれる。社員はこっちが思っている以上に、よく見ているし、受け入れてくれるんです」

 リスクを正直に言うことが、実際にはパニックを起こすどころか、好意的かつ冷静に対処する人間の行動特性を引き出すことは、危機管理の専門家である米国の社会学者ミレッティらも指摘している。彼らはスリーマイル島の事故などから、「情報提供者が陥る誤解」を次のように説明している。

情報提供者が陥る5つの誤解

誤解その1:人々はパニックを起こす

 パニックは映画のプロデューサーが作り出した幻想。現実にはいかなる危機的情報であっても、そのことで人がパニックに陥ることはない。

誤解その2:警告は短くすべし

 短い警告では、その事態の緊急性が人々に伝わりにくい。緊急時ほど詳しいメッセージが必要。

誤解その3:誤報にならないように慎重に

 たとえ結果的に誤報となったとしても、その情報が問題となることはない。なぜ、誤報になったかを説明すれば済む話であり、誤報を恐れず、すべての情報を即座に開示せよ。

誤解その4:情報源は1つにすべし

 危機に面した人は様々な情報源を求める。多様な情報源からの一貫した情報を得ることで、緊急事態の意味と、その内容を信じるようになる。

誤解その5:人々は即座に防衛行動に出る

 人は防衛行動を取る前に、それに関わる確かな情報を求める。情報が持つ正確な意味が分かるまで、具体的な行動は起こさない。

リスクを隠すことが不安を過剰に増幅する

 人が危機情報でパニックに陥ったり、自分を守るために無謀な行動に出たりすることは滅多にない。むしろ、リスクを隠すことが不安を過剰に増幅し、リーダーに対する不信を招く。その不信感こそが、誤った行動のトリガーになりかねないというわけだ。

 つまり、もっとシンプルに、先述の経営者の方が語ったように、「社員を信じる」ことを何よりも優先させた方がいいのである。

 たぶん、人間って、愚かな動物かもしれないけれど、愚かじゃないのかもしれない。利己的であり、利己的じゃない。弱そうであり、弱くない。

 そんな人間の持つプラスの部分が、危機になればなるほど発揮される。当然それは100人いれば何人かはパニックに陥ったり、勝手な防衛行動を即座に起こしたりするかもしれない。でも、その極めて少数の行動を信じるのではなく、人間の持つプラスの力を信じ、覚悟することが、リーダーにとって必要なんじゃないだろうか。

 NHKが大飯原発の周囲30キロ圏内の自治体にアンケートを行い、「原発事故に備え、住民の避難などで実効性がある対策が取れるか?」と聞いたところ、57%の自治体が「取れない」と答えた(「どちらかと言えば取れない」を含む)。

 一方、「取れる」「どちらかといえば取れる」という回答の合計は29%。地元の福井県やおおい町は回答せず、別の原発がある福井県の美浜町や高浜町は「どちらかといえば取れない」と回答していた。

 この自治体を対象にしたアンケートの自由回答欄には、「県や町の防災計画の見直し作業が進んでいないのが現状」、「いまだに避難場所が決まっていない。国が責任を持って、広域行政に対して避難場所の選定に協力することを指示すべき」など、福島第1原発の事故から1年余りがたつ中で、国に対する不満が多く寄せられていたそうだ。

 この結果を、我が国のリーダーは知っているのだろうか? 周辺地域の自治体の「声」をしっかりと受け止め、意志の疎通を図っているのだろうか?

 もし、野田さんが、大飯原発を再稼働することに伴うリスクを徹底的に公表し、政府関係者や専門家、一般市民と同じ土俵で、同じ目線で、互いにより良い決定を下すための合意を目指すリスクコミュニケーションに取り組んでいたならば、本当の意味での責任を果たすことができたはずだ。

 避難場所や避難経路の確保、避難訓練、実際に災害が起こりつつある時の注意報や警報の伝達方法のシミュレーションを徹底的に行い、いくつかの災害リスクシナリオを作成する。それを行うことがリーダーの責務だと思うのだ、違うのだろうか?

リーダーも人間、伴走者にしかなり得ない

 ちなみに、災害リスクコミュニケーションには、(1)災害が起こる前、(2)災害が起こりつつある時、(3)災害が起こった後──の3つの段階がある。

 今の私たちが置かれている状況は、「災害が起こった後」であり、「災害が起こる前」でもある。何もまだ終わっていないのに、次が始まろうとしている最も危険な状況なのだ。

 真実を知らされない不安の方が、リスクを知らされる恐怖よりもはるかに大きい。

 どんなに優秀で、有能なリーダーであっても、リスクをゼロにすることはできやしない。もっと言ってしまえば、メンバーの生活を守ることも、命を守ることも、リーダーだからといってできるわけじゃない。

 リーダーができることは、メンバー1人ひとりができるだけ満足のいく生活が送れるように、メンバーたちに寄り添う伴走者になることだ。

 だって、リーダーもまた、私たちと同じ1人の人間なのだから。もっと私たちのこと信じてよ。まさか本気でドジョウは、「地震が予知できる」と思っているわけじゃないですよね?

このコラムについて

河合薫の新・リーダー術 上司と部下の力学

上司と部下が、職場でいい人間関係を築けるかどうか。それは、日常のコミュニケーションにかかっている。このコラムでは、上司の立場、部下の立場をふまえて、真のリーダーとは何かについて考えてみたい。

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著者プロフィール

河合 薫(かわい・かおる)

河合 薫博士(Ph.D.、保健学)・東京大学非常勤講師・気象予報士。千葉県生まれ。1988年、千葉大学教育学部を卒業後、全日本空輸に入社。気象予報士としてテレビ朝日系「ニュースステーション」などに出演。2004年、東京大学大学院医学系研究科修士課程修了、2007年博士課程修了。長岡技術科学大学非常勤講師、東京大学非常勤講師、早稲田大学エクステンションセンター講師などを務める。医療・健康に関する様々な学会に所属。主な著書に『「なりたい自分」に変わる9:1の法則』(東洋経済新報社)、『上司の前で泣く女』『私が絶望しない理由』(ともにプレジデント社)、『<他人力>を使えない上司はいらない!』(PHP新書604)

 


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