弁当日記

ADACHIの行動記録です。 
青年海外協力隊で2006年4月からバングラデシュに2年間住んでました。

バングラデシュのニュース(2016/2/28) その1

2016年02月28日 | バングラデシュのニュース
◆イベント情報◆
◯【2/29(月)19:00開催】
 社会起業家支援プログラムLINK報告会・シンポジウムのご案内
 http://orinuspartners.com/2016/02/156
◯学校給食プロジェクト報告会のお知らせ 3/5
 http://www.jbcea.org/
◯第12回 行事のお知らせ 平成28年3月28日(月)
 http://goo.gl/1Wj72T

■見出し(2016年2月28日) No2016-9
◯バングラデシュにラジオ体操 元HTB記者の安藤さん考案
◯玉野でドテキリグルメ満喫して 複合施設 3月1日開業
◯丸久、バングラに営業所 アパレル製造の受託めざす
◯YKK、バングラ工場でハイブリッド発電 CO2削減
◯進出メリット紹介 大商がバングラデシュ説明会
◯なぜマザーハウスはジュエリーを始めたのか
 「外れ値」を見つめる目差しの原点にあるもの
◯マザーハウスは"外れ値"からパリを目指す
 ファッションには世界を動かす力がある
◯バングラデシュに対する無償資金協力「第三次初等教育開発計画」に関する書簡の交換
◯浜松の女性 バングラの貧困女性支援へ
◯写真から考える、ストリートチルドレン・児童労働。
◯バングラデシュで教育支援 活動団体が報告展
◯バングラデシュ国スンダルバンス地域周辺における零細蜂蜜収集人の生計向上プロジェクトが開始しました!
◯バングラデシュ、総人口の92.5%がネット未利用 政府は調査に反発
◯3Kを避けるマレーシア人労働者、適切な賃金が解決策
◯外国人労働者の新規受け入れ、一時凍結へ
◯バングラデシュからの労働者受け入れ計画は凍結!1日前に合意したMoUは破棄?
◯バングラデシュの「樹木男」、イボの除去手術成功
◯ヒンズー教の僧侶が斬首される、バングラデシュ
◯六本木で途上国のビジネスアイデアコンテスト最終審査会 一般観覧者も募集
◯バングラデシュが中国協力の深海港建設中止か、背後に印日米の影
◯中国の兵器輸出が88%増、国産開発進み輸入減少 SIPRI
◯地域女性とICT活用の遠隔医療 バングラデシュで実証実験





■バングラデシュにラジオ体操 元HTB記者の安藤さん考案
 http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/area/sapporo/1-0237131.html
 (北海道新聞 2016年2月20日)

元北海道テレビ放送(HTB)記者の安藤恵理子さん(28)=岐阜県瑞浪市=
が、青年海外協力隊員として2月上旬まで2年間活動したバングラデシュで、地
元の人たちとラジオ体操を考案した。ラジオ局の番組づくりを支援する中で、生
活習慣病や肥満が社会問題化していることを知ったのがきっかけだ。体操は国営
テレビでも紹介され、現地で広がりつつある。 

 両手を伸ばしたり、両足を広げて跳びはねたり―。約3分間のバングラデシュ
版ラジオ体操を披露する現地の子供たちを、安藤さんが撮影した映像が動画サイ
ト「ユーチューブ」で楽しめる。安藤さんは「体操をすると子供も大人も笑顔に
なる」とほほ笑む。

 岐阜県出身で北大を経てHTB入り。大学時代から国際協力に関心があり、入
社3年目の2013年に退職し、青年海外協力隊員となった。14年2月にバン
グラデシュ北西部のチャパイナワブゴンジ県に赴任。放送記者の経験を生かし、
地元ラジオ局の番組制作に携わった。

 現地で取材していると、糖尿病や肥満に悩む住民が多いことを知った。脂分の
多い食事などが理由という。解決策として思い付いたのが、日本のラジオ体操だ
った。「国民的に親しまれる体操ができれば、運動が習慣化される」。首都ダッ
カの体育学校・国立スポーツ学院を訪ね、体操の指導者に振り付けを依頼した。


 体操の音楽は国民的な行進曲で軽快なリズムの「チョルチョルチョル」。チョ
ルはベンガル語で「進め」の意味だ。「若者たちよ、立ち上がれ」という歌詞に
合わせて力強くこぶしを振り上げる動きを入れるなど、親しみやすい振り付けに
なった。

 15年7月に、ラジオ番組で動きを解説して体操を初めて紹介した。国内の小
学校や保健施設などで体験会も開催。「チョルチョル体操」と親しまれ、今年1
月には国営テレビで紹介された。「赴任期間の最後は『体操のお姉さん』になっ
ていた」と安藤さん。「現地の人たちと心が通じ合えてうれしかった」と振り返
る。安藤さんの帰国後は、国立スポーツ学院が普及活動に取り組んでいる。

 安藤さんは赴任中に厚別区の地域FM局の番組に月1回、電話で出演していた。
20日午後7時から、番組関係者が企画した帰国報告会が中央区南4西3の飲食
店「ニューキルケ」で開かれる。参加費は1人3千円(飲食代含む)。当日直接
会場へ。問い合わせは主催者代表の大井さん(電)080・6096・2734
へ。



■玉野でドテキリグルメ満喫して 複合施設 3月1日開業
http://www.sanyonews.jp/article/306348/1/
 (山陽新聞 2016年2月27日)

 かつて玉野市内に数多く生息していたワタリガニの一種・ノコギリガザミ(通
称ドテキリ)を使った料理が味わえる複合商業施設「フードスタジオDoTeK
iRi(ドテキリ)」の落成式が26日、築港の現地で行われた。市内商工業者
ら出資のまちづくり会社が運営し、地域の新たな特産品化を目指す。市中心市街
地活性化基本計画の事業で、オープンは3月1日。

 同施設は、既存の和食レストランをリニューアル。鉄骨2階延べ約450平方
メートルに、日本料理店(78席)、カフェレストラン(38席)、ラーメン店
(7席)、地元産の野菜や魚介類を扱う地産地消市場の4店舗を整備した。総事
業費は1億6400万円で、このうち9400万円は同基本計画に基づく国の補
助金を充てた。

 主なメニューは、ドテキリ鍋(コース5千円)▽ドテキリカレー(1600円)
▽ドテキリラーメン(1350円)―など。ドテキリは1キロ5千~1万円の値
が付く高級食材だが、まちづくり会社が2014年4月にバングラデシュに設立
した現地法人での養殖物を使うことで、コストを縮減した。今後はバングラデシュ
から輸入した稚ガニを市内の休耕田で育て、「玉野産」として提供することも検
討している。

 各店ではドテキリのほか、鹿肉料理やすし、デザートなどもメニューに加える。


 落成式には商工、行政関係者、地元住民ら約40人が出席。まちづくり会社ゼ
ネラルマネジャーの吉本誠さん(53)が「観光客らに『玉野でドテキリを食べ
よう』と思ってもらうことで、地域活性化に貢献したい」とあいさつし、テープ
カットで祝った。

 年末年始を除き年中無休。営業時間は店舗により異なる。問い合わせは同施設
(0863―21―2200)。



■丸久、バングラに営業所 アパレル製造の受託めざす
 http://www.nikkei.com/article/DGXLZO97498170Z10C16A2LA0000/
 (日本経済新聞 2016年2月20日)

 アパレルメーカーの丸久(徳島県鳴門市)は、欧米など海外向けの販売を本格
化する。バングラデシュに新設した営業所を拠点に、同国に事務所などを置く各
国のアパレルブランドからの製造受託を目指す。世界各地で開かれる商談会にも
出展する。これまでは国内企業との取引が中心だったが、日本市場の成長性には
限界があるとみて海外市場の開拓を急ぐ。

 同社は首都ダッカ郊外に工場があり、紳士・婦人服や子供服を生産している。
新設した営業所はダッカ市に立地し、従業員2人が営業活動に専念する。企画か
ら生産まで一貫で手掛けられる点や、多品種少量生産に対応できる点を売り込む。
機能性素材の扱いに長けた日本企業とのつながりも強みになるとみている。

 バングラデシュは人件費の安さから衣料品の輸出大国に成長した。国際的なア
パレルブランドが多く拠点を構え、工場を探しに訪れる場合も多い。「今や顧客
はダッカにいる」(平石雅浩社長)といい、営業拠点を置くのに最適と判断した。
商談などで商品サンプルが必要な時は工場から取り寄せることができる。

 海外で開催される商談会にはバングラデシュの営業所から出展する。すでにロ
シアやフランス、香港などに出展。今後も英国や米国などの商談会に参加する。
流行を素早くとらえて安価に提供する、欧米などの大手SPA(製造小売り)ブ
ランドとの取引を目指す。

 バングラデシュ工場は今後も増設を続けていく計画で、現在2500人の従業員を
3~4年後に約2倍に増やす。増強した生産能力のうち、半分を海外市場向けに
振り向ける。現在は5%程度の海外向け販売を、2年後には25%前後に高めたい
考え。

 同社は子供服や紳士・婦人服を手掛け、カットソーに強みを持つ。バングラデ
シュとタイに工場を持ち、日本の本社は開発工場の役割を担っている。2016年3
月期の連結売上高は100億円強の見通し。海外向け販売を伸ばすことなどで、19年
3月期の連結売上高は150億円程度を目指す。



■YKK、バングラ工場でハイブリッド発電 CO2削減
 http://www.nikkei.com/article/DGXLZO97343660W6A210C1LB0000/
 (日本経済新聞 2016年2月16日)

 YKKはバングラデシュの工場に太陽光発電とディーゼル発電を組み合わせた
ハイブリッド発電システムを導入する。太陽電池を新たに設置してディーゼル発
電の一部を代替、燃料費と二酸化炭素(CO2)の排出量を減らす。同社が同シス
テムを導入するのは初めて。発展途上国でも環境対応への需要は高まっており、
他の海外拠点にも広げていく考えだ。

 導入する発電システムは京セラ製で、電力を制御する燃料削減コントローラー
と太陽電池が一体となっている。ディーゼル発電と太陽光発電のバランスを最適
化できる。現在太陽光パネルを設置中で、年内の稼働を目指す。投資額は公表し
ていない。

 同システムは既存のディーゼル発電機に取り付けるため、初期投資を抑えられ
る。好天時は太陽光発電を優先的に活用、太陽光発電量が急減した時にはディー
ゼル発電機でバックアップ体制を維持する。ディーゼル発電量を抑えることで初
年度で燃料を年間9万リットル、CO2排出量を年間265トン削減できる見込み。


 中国の人件費高騰を受け、国内外の衣料品メーカーはバングラデシュでの生産
を拡大している。YKKは縫製業の有力生産拠点であるバングラデシュで、普及
価格帯の衣料品向けのファスナーを生産している。

 電力インフラが不安定なバングラデシュの工場では、工業団地供給の系統電力
からの購入に加え、自社のディーゼル発電を併用して電源を賄っている。だがデ
ィーゼル発電は燃料費がかさむほか、CO2排出量が多く、少しでも稼働を抑える
ことが課題だった。

 新システムを使った発電には、途上国に導入した技術や製品で削減できたCO
2排出量の一部を日本国内の排出削減量と見なせる「2国間クレジット制度」(J
CM)を適用する。同社の現地法人にシステムを導入するため、制度の適用対象
になるという。事業費の半額について、日本政府から補助を受ける。

 YKKは海外70カ国・地域に拠点がある。インドでは農業廃棄物からできた固
形燃料を使用するバイオマスボイラーを導入するなど、各拠点で環境への取り組
みに力を入れている。太陽光発電は米国や中国に設けているが、ディーゼル発電
と組み合わせて自動制御するシステムを導入するのは初めて。同社はバングラデ
シュでの導入を皮切りに「他国への展開も検討していく」という。



■進出メリット紹介 大商がバングラデシュ説明会
 http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/160218/20160218035.html
 (大阪日日新聞 2016年2月18日)

 親日的とされるバングラデシュに進出を検討する企業向け説明会が17日、大
阪市中央区の大阪商工会議所ビルで開かれた。講師の現地駐在員が労働力が豊富
な魅力を紹介する一方、課題として過激派組織「イスラム国」(IS)の脅威を
挙げた。

 東京コンサルティングファームの北口実加氏は、バングラデシュ国内を走る自
動車の大半が日本の中古車である現状を説明。昨年10月に邦人男性が殺害され、
IS関連グループが犯行声明を出した事件の影響については「撤退した(日系)
企業はないが、現地視察をやめたり、延期した企業はある」と語った。

 ブランパートナーズの大谷知裕氏は進出メリットとして「人件費が安い。人手
を集めるのが容易」と紹介した。

 説明会は大商が開き、繊維メーカーや商社、機械卸会社などから約30人が受
講。府内の医療機器商社の担当者は「ISはカントリーリスクの要素。ただ危険
度が高まるほど競合相手は少なく、ビジネスチャンスは広がる」と話していた。



■なぜマザーハウスはジュエリーを始めたのか
 「外れ値」を見つめる目差しの原点にあるもの
 http://toyokeizai.net/articles/-/104931
 (東洋経済オンライン 2016年02月17日)

「マザーハウス」社長、山口絵理子。バングラデシュの天然素材ジュート(黄麻)
やレザーを使ったバッグを中心にアパレル事業を展開する女性起業家、あるいは
“社会起業家”として、言わずと知れた存在だろう。そのマザーハウスが昨年10
月にはインドネシア産のジュエリーの取り扱いを始めた。
なぜジュエリーを扱うのか。その原点には、彼女がアウトサイダーとして歩んで
きた道のりがある。元いじめられっ子が明かす「これまで」と「これから」を前
後編に分けてお届けする。


2006年3月、山口絵理子が24歳のときにたったひとりで立ち上げたファッションブ
ランド、マザーハウスはこの10年で大きく成長を遂げた。

現在、国内に17店舗、台湾と香港に計7店舗を構え、創業時からの主力商品である
バングラデシュ産バッグのほかに、ネパール、ラオス、インドネシアの固有の素
材や伝統技術を用いた商品の製造販売も手掛ける。バングラデシュでは160人の従
業員が働く自社工場を運営し、ネパールでは家庭内手工業が中心ながら、100人を
超える人が生産に携わる。

いまや新進のアパレルブランドとしての地位を確立したように感じるが、驚くの
はいまだに現地に出向いた山口が素材や技術、職人を発掘することから、すべて
の商品が生まれていることだ。彼女は経営者、チーフデザイナーとしてすべての
プロダクトの製作にかかわり、埋もれた可能性を求めてアジアの途上国の僻地を
歩き回っている。

“外れ値”の人に感じるシンパシー

「何か計画ありきというより、まずは現地に行ってみるのです。そこで眠ってい
た光を見つけて、その素材がいちばん輝ける形って何だろうって方程式を考える
のがすごく楽しい」と笑顔で語るが、山口が求めているものは、途上国のなかで
も近代化から取り残されたような地域にあるため、コンタクトするのも簡単では
ない。おまけに、方程式の解を得ても、ビジネスにするまでの間には幾多の困難
が待ち構えている。頻発するトラブルや取引相手の裏切りに泣き明かしたことは
数知れない。

なぜ、そこまでして途上国の人々や技術にこだわるのか??何に惹かれているのか
?回答は、正義感や義務感といった “社会起業家”らしいものではなかった。山
口は、「シンパシー=共感」だと答えた。

「インドネシアのジョグジャカルタの空港から2、3時間、離れた村にいる人は、
インターネットもつながらないし、世界のアクセスから除外されていて、地球上
ではいわゆる外れ値の人たちです。よくメディアには『社会のために』というこ
とがフォーカスされるけど、私は自分の幼少期の体験から、個人的に彼らのよう
な外れ値の人たちに強いシンパシーを感じてきました。そして、外れ値で生きな
がらも、世界に通用する技術を持っている人たちを尊敬しています。だから、彼
らにスポットライトをあてたいのです」

「シンパシー」という言葉を聞いて、納得がいった。いまでこそ、グローバルで
活躍する先駆的な女性起業家として数多くのメディアに取り上げられるようにな
ったが、振り返ってみれば山口自身がつねにアウトサイダーとして生きてきた。
途上国の「外れ値の人たち」は、彼女にとって仲間なのだ。

自らの意志でいじめを克服

いじめが始まったのは、小学校1年生の2学期だった。今でも、はっきりとした理
由はわからない。ただ、心当たりはある。「朝礼のときにどうして『前倣え』を
しなきゃいけないのか納得いかないし、授業でも同じ答えじゃないといけないと
いうことに、すごくストレスを感じていました。そうやって思ったことを発言し
ているうちに、みんなの輪の中に入れなくなったのです」

自分が、周囲から浮いているという実感はあったが、気持ちを曲げてまで輪の中
に入りたいかというと、そうでもない。迎合を拒否した山口に対するいじめは徐
々に激しさを増し、間もなく不登校になった。

当時、不登校は社会的に許容されていなかったから、ある人は山口を問題児だと
いい、ある人は心の病かと疑った。大人からも理解を得られなかった山口は、公
園でひたすら絵を描きながら「この白い紙は、すごく自由だな。私みたいな端っ
この人間だって生きていたっていいじゃん」と思っていたそうだ。

しかしあるとき、母親が自分の不登校について深く思い悩んでいることを知り、
「このままじゃダメなんだ」と改めて学校に足を向けるようになった。最初は1限
目だけ、次は2限目までと、自分のなかで課題を設定して、少しずつ学校で過ごす
時間を伸ばしていった。そしてついに、終業時間まで学校にいることができるよ
うになった。その達成感は、後の山口の歩みに大きく影響している。

「今まで生きてきた34年間のなかで、いちばん大きな成功体験でした。学校に行
けちゃったよ私、こんな自分でもいいんだって。自分のなかの尺度では、ものす
ごく大きなことでした。それからずっと、外れ値であることの意味や意義を考え
るようになりました」

小学校を卒業した山口の人生は、一変した……悪い方向に。中学に入ると髪を金
色に染め、タバコを吸い始めた。いじめられっ子が、尖がることで身と心を武装
したのである。

いわゆる「不良」になり、荒れた生活をしていた山口の転機は、突然、訪れた。
道場で女の子が男子を投げ飛ばしているのを目撃して、「カッコいい!?私も強く
なりたい!」と勢いで柔道部の門を叩いたのだ。もともと、グレたくてグレてい
たわけではないから、不良を卒業して柔道に打ち込んだ。

すると、もともと素質があったのか、あれよあれよという間に強くなり、中学3年
生のときに埼玉県大会で優勝。元いじめられっ子の不良が一躍脚光を浴びる存在
になり、初めて自信と手応えを得た山口は「いい意味で注目を浴びるのって、気
持ちいいな。今度は全日本の舞台に立ってみたい」と本腰を入れて柔道に取り組
むことを決意。女子柔道の強豪校からのスカウトもあったが、「その学校のエリ
ートを倒したい」と、あえて男子柔道で50年間埼玉一という超名門の工業高校に
進学し、「入部させてほしい」と直談判した。

ここでまた、アウトサイダーになった。

その高校には女子柔道部がなく、部員の保護者から反対の声も上がるなかで、監
督から「絶対に優勝するなら」という条件付きで入部を許可されたのだが、女子
部員は山口ひとり。練習相手は全国を狙うような男子しかいないため、まるで歯
が立たない。立ち向かっては力で押さえつけられるということを繰り返している
うちに自分の柔道を見失い、地区大会ですら勝てなくなった。それならと、女子
大の柔道部に出稽古をしたり、練習量を増やしたりと思いつく限りの手を尽くし
ても結果が出ず、山口の中学時代を知る柔道関係者の間では「終わったな」とさ
さやかれ、気づけばかつての自分と同じように孤立していた。

「男子柔道部に入るという意思決定自体が、そもそも間違っていたと後悔しまし
た。さらに靭帯が切れたり、鼻が折れたりとケガも相次いで、本当に真っ暗でし
たね」

県大会を制し、全国7位に

何をやってもうまくいかないまま迎えた、高校最後の大会。ここで山口は突然、
吹っ切れた。「なんのために、この学校に入ったのか。誰よりも練習してきたの
は私だ」と開き直ると嘘のように体が動き、向かってくる相手をバタバタとなぎ
倒して、終わってみれば県大会で表彰台のいちばん高いところに立っていた。

これで勢いがつき、全国大会でも7位入賞。3年間、容赦のないスパルタ指導をし
てきた柔道部の顧問も「やっと目を覚ましたか」と胸を撫で下ろしたことだろう。


しかし全国大会で負けた瞬間、山口は柔道から離れることを決めていた。
「敗者復活戦で負けたんだけど、それまででいちばん自分らしく戦えて、気持ち
よく負けたんです。それがすごく嬉しくて、そのときにふと、やりきったなと思
いました。私はいじめられっこじゃなくなったぞって、自分のなかでマルをつけ
ることができたのです」

山口にとって、柔道はいじめられっこではない自分になるための手段だった。そ
の目的を果たしたことで柔道への情熱が昇華され、代わりに何年浪人してもいい
から大学に入り、子どものときから違和感があった教育について勉強したいとい
う気持ちが芽生えた。

柔道を辞めると決めたとき、顧問からは「ここまで育て上げたのに、オリンピッ
クを目指さないのか」と叱責され、一部の保護者には「柔道を続けないのは裏切
り」とバッシングされたが、やる気に火がついたときの山口は、目の前のことに
しか意識がない。高校3年生の秋から怒涛の受験勉強を始めて、翌年の春には慶應
義塾大学総合政策学部に入学した。

運命を変えたバングラデシュ訪問

ずいぶん遠回りをしながらも、世間一般的にはエリートコースに乗った山口だが、
卒業後には「また小学校のときに戻っちゃった」と後悔することになる。

大学に進んだ山口は、しだいに国際援助と途上国の開発に関心を抱くようになり、
関連するゼミに入った。そのゼミ長を務めていたのが、2007年にゴールドマン・
サックス証券を辞めてマザーハウスに参画した副社長の山崎大祐だ。山崎は、大
学時代の山口を「ファッション業界とはまったく無縁な感じの人だった」と笑う。


「いまでこそスタイリッシュですけど、当時はジャージで学校に来ていました。
すごく内気で、ひたすら寡黙にやるタイプですね。でも彼女の問題意識を知って
いたし、こんなに勉強するんだと驚いて、すごいなと思っていました。それで、
わからないことがあったら持ってきなよと話をしたのが、問題意識を共有したき
っかけです」

高校時代に柔道に没頭していたように、大学で猛烈に勉強をした山口は、大学4年
生の時、ワシントンにある米州開発銀行でのインターンを経験。そこで現場と乖
離した援助の在り方に疑問を抱き、インターネットで「アジア?最貧国」というキ
ーワードでヒットしたバングラデシュに飛ぶ。

当時、1日1ドル以下で生活する人々が人口の半数近くも存在したバングラデシュ
では、目にするものすべてがカルチャーショックだった。想像を超える貧困のリ
アルに、ただただ圧倒される日々なかで、「なんとかしないと!」という思いが
募り、なんと2週間の滞在中にバングラデシュBRAC大学院を受験。合格すると、大
学卒業後、周囲の反対を押し切ってバングラデシュに渡った。



■マザーハウスは"外れ値"からパリを目指す
 ファッションには世界を動かす力がある
 http://toyokeizai.net/articles/-/105331
 (東洋経済オンライン 2016年02月19日)

「マザーハウス」代表、山口絵理子。バングラデシュの天然素材ジュート(黄麻)
やレザーを使ったバッグを中心にアパレル事業を展開する女性起業家、あるいは
“社会起業家”として有名だ。しかし、その道のりは決して平坦なものではなか
った。バングラデシュで待っていた過酷な日々とは?

使命感に燃えてバングラデシュの大学に入学した山口絵理子を待っていたのは、
孤独な日々だった。

山口は、この大学院で初めての外国人留学生で、ほかは講師も生徒も全員バング
ラデシュ人。入学前は英語で授業をすると聞いていたが、いざ学校に通ってみる
と、当たり前のようにベンガル語で授業が進められていた。
クラスメートは、ほとんどがNGOで働いているエリートの社会人で、「国際援助万
歳!」という感覚の人たちだった。山口と気が合わないという以前に、ベンガル
語を話せない外国人は、友達の輪に入れてもらえなかった。

とにかく、ベンガル語を学ぼうと日本大使館に教わった語学学校を訪ねたら、授
業料が高すぎて断念せざるをえなかった。

仕方なく、道端のお茶屋さんで10タカ(20円弱)のお茶を飲みながら、お店の人
に話しかけてベンガル語を学んだ。

山口は当時を「最初は、いじめられっ子時代のコンプレックスがぶり返してしま
って、つらかったですね」と振り返る。

おまけに、どこに行っても賄賂を要求されて、断ると罵られ、バングラデシュで
の生活に辟易していた。

バングラデシュのポテンシャルに懸ける

それでも逃げ出さなかったのは、いじめを乗り越え、柔道で鍛え抜かれた負けず
嫌いの性格があったからだろう。山口は小学生のときと同じように少しずつ自分
の居場所を作り、広げていった。そうするうちに、徐々にバングラデシュの人々
の本音に触れるようになり、ポテンシャルを感じるようになった。

「客観的に見て、この国は酷いなと思っていました。汚いし、臭いし、汚職度も
いちばんで、誇るところがない。でも心のタフネス、生きる力は尊敬できる人た
ちばかりなんですよ。他人と比較してどうこうではなく、ひとりの人間として逞
しく生き残っていくぞ、という強さを教わりました。洪水で学校が休校になると
思っていても、彼らは足にビニールを巻いて学校に行くし、先生たちも来る。休
校なんて一切なくて、テロでもなんでも学校はある。クラスメートに、親戚中の
おカネを集めて学校に来てるいんだから、と言われたとき、すごいなと思いまし
た。彼らのハングリーさは、今の日本にはないものだと思います」

この感覚が、山口の意識を変える。

当時のバングラデシュは、国自体が「外れ値」だった。しかし、そこに生きてい
る人たちは、やる気と可能性に満ちていた。

一方で、莫大な国際援助や寄付が必ずしも狙いどおりの効果を発揮しておらず、
国の発展に寄与していない、本当に必要な人の手には届いていないというもどか
しさも感じていた。

このギャップをどうにか埋められないか。考え続けた日々の先に、道が拓けた。


「私は、ワシントンで途上国に学校を作ることは善であると教えられたけど、バ
ングラデシュでは大学院の仲間でも、仕事の受け皿がありませんでした。その現
状を見て、私は小学校の時の経験から学校を作りたいという夢があったけど、働
く先を作ることが先決だと思いました。しかも、中国の代替工場ではなくて、付
加価値のあるモノを作らないと意味がない。だったら、バングラデシュにしかな
い素材を見つけようというなかでジュートと出会って、これでバッグを作ろうと
閃いたんです」

ジュートはバングラデシュが当時世界の輸出量の90%を占める特産品だが、珈琲
豆を輸出する際に使われるような運搬用の麻袋としてしか活用されていなかった。
誰も見向きもしないようなこの安い素材で、デザイン性と付加価値の高いバッグ
を作る。そのバッグを世界に売って、一流のブランドになる。これが、山口の新
たな挑戦だった。

こうして、人生の第二幕が明けた。

「端っこの人間」と「外れ値の人たち」

山口はそれまで、こうと決めたら譲らない頑固さと、怖いもの知らずの無鉄砲さ、
脇目もふらぬ突進力で壁をぶち破ってきたが、振り返ってみればいつも孤独な戦
いだった。いじめへの抵抗も、柔道も、受験も、留学も、ひとりでは成し遂げら
れなかったかもしれないが、基本的には個人の頑張りで乗り越えた。

それがバングラデシュで初めて、「途上国から世界に通用するブランドをつくる」
という、決して自分のためだけではない夢を抱いた。

すると、彼女が経験したこともないほど高く、ぶ厚い壁にぶち当たり、もうダメ
だと諦めそうになるたびに、手を差し伸べてくれる人が現れるようになった。

実はバッグを作ったこともなかったが、やると決めたら一直線の山口はまず、ブ
ルドーザーのような突進力で職人を探し当て、貯金をはたいていきなり160個のバ
ッグを製作。何の計画性もなく作ったこのバッグが、山崎を惹きつけた。

「とりあえず作っちゃったけどどうしたらいい?という相談があったんですが、
当時の僕にプロフェショナルとしてバッグを評価できる力がなかったので、バッ
グを見ても全然手応えはありませんでした(笑)。でも、24歳の女の子が160個の
バッグを作っちゃったことは事実で、おカネもないし、ビジネスプランもないけ
ど、160個のバッグを作れたことのすごさは感じましたね。それですぐ、一緒にや
ろうと言いました」

バングラデシュでも同じように、ひとりで七転八倒していた山口と共に闘おうと
いう仲間がひとり、ふたりと増えていった。もちろん、きれいごとばかりではな
かったが、「端っこの人間」と「外れ値の人たち」が手を組むことで、道を切り
拓いてきた。

副社長として二人三脚で歩んできた山崎は山口をこう評する。「彼女のすごさは、
突破力です。走りながら考えるのではなくて、走ってから考える。まず、やって
みる。そして、恐れない。前近代の戦争では、大将が自ら敵陣に乗り込んでいく
でしょう。まさに先陣を切って仲間に戦う姿を見せて引っ張っていくタイプです」


山口は、バングラデシュへの同情やマザーハウスへの応援の気持ちではなく、ほ
かのアパレルブランドと同じようにファッションとしてバッグを買ってもらうた
めに、クオリティには徹底的にこだわった。そうすることが、「援助」ではなく
ビジネスとして発展的に「働く先を作る」こと、そしてバングラデシュ人が誇り
を持つことにつながると信じたからだ。

「本当に自分の手を動かすことが好きで、もっといいモノを作ろうと思って体を
動かしてきただけ」と山口は言うが、バングラデシュ人にとっても、日本人にと
っても、その小さな背中は守るべきものに見えたのだろう。

彼女の想いと行動力に共感する日本人も増え、人材が人材を呼び、今では日本だ
けで80人の社員を抱えるまでに成長した。そして、今も山口が多くの時間を過ご
すバングラデシュの自社工場では、妥協のないモノ作りをするマザーハウスの評
判を聞きつけて腕利きの職人が集うようになり、「自分たちはバングラでナンバ
ーワンのモノを創っている」と自負するほどになっているそうだ。その職人たち
こそまさに、10年前に山口が思い描いた理想が実りつつある証だろう。

そこでしか作れない「オンリーワン」がある

"アジア最貧国”でも、アイデアと信じる力、めげない心があれば、ファッション
を通じて価値と多様性を示すことができる。

この成功体験によって、山口は確信した。

どんなに貧しい地域だろうと、どんなに社会的にマイノリティの存在だろうと、
そこでしか作ることができない「オンリーワン」があり、いい職人がいれば、バ
ングラデシュで得た知見を応用できるはずだ。バングラデシュを飛び出した山口
は、途上国でオンリーワンを探す旅に出た。その旅は山口にとって、もはや社会
貢献というよりも、宝探しであり、仲間探しだった。

「現地で、この人すごいなって尊敬できる職人さんと出会ったときにすべての物
事が動き始めるんです。たとえば、インドネシアで作っている線細工のジュエリ
ーの場合、金で作りたいと思ったらゴールド職人がいなかったので、シルバーの
職人を探して、その職人がいたであろう村をひとつ、ひとつ聞き込み調査をして、
あそこにいた、という情報を辿っていったらようやく会えました。最近はフィー
ルドが広がって、バングラデシュ以外でもモノ作りができることが最高にハッピ
ーです」

山口が「いつもドラクエみたい」と表現する出会いの成果として、インドネシア
で作っている銀線細工の技術を応用したジュエリーのほかに、ネパールではカシ
ミアなどの天然素材と草木染の技術を活かしたストールやマフラー、ラオスでは
伝統手織物「シン」を用いたバッグや小物を生産している。

今も旅は続いており、台湾の少数民族など目をつけている地域があるという。

次なる挑戦

2008年3月、山口は毎日放送のドキュメンタリー番組「情熱大陸」に登場した。2
6歳の若々しい起業家は、「ファッションには世界を動かす力がある。だから一流
のブランドになりたい」と熱く語っていた。

番組放送から8年、いまもその想いは変わりませんか?と尋ねると、山口は当時と
変わらぬまっすぐな視線で大きく頷いた。

「お店がいっぱいできて、ブランドの背景を知らないたくさんの人が商品を買っ
てくれている状況を見るほどに、ファッションの力を感じていますし、言葉はい
らないんだなと思います。これカワイイ!?と商品を買ってくれる彼女たちの世界
に職人さんがいなくても、実際にその背景に多くの職人さんがいて、彼らの誇り
につながっている。その道筋が引けているのは本当にすごいなと思います。ファ
ッションに関われて本当によかった」

「一流のブランド」を目指す山口が見据える次のステップは、欧米への進出だ。


「パリやアメリカで、ガチンコで勝負している日本ブランドってあまりないと思
うのです。だから、私たちの世代でそういうブランドがあってもいいし、そのブ
ランドが実はアジアのマイノリティの集団なんだと伝わったときに、世界がどう
なるのかワクワクします」

山口はすでにパリでの出店を目指して動き出しており、昨年、パリに1ヵ月ほど滞
在して現地を視察すると同時に、フランス語の勉強も始めているという。「面接
だけは自分でやりたいから」と話す山口の瞳から、メラメラと燃える炎が見える
ようだった。

山崎も、苦笑しながら背中を押す。

「パリで、短期間で成功しようと思ったら難しいでしょう。ある程度、赤字を出
してもやり続けるという覚悟がないとできません。そのためには、日本の基盤を
もう少し大きくしてからのほうがいいと思いますが、でもまあ、すぐにやります
よ。山口は欧米に店を出したくてうずうずしてるのだから(笑)」

会社の参謀が、計算や戦略を超えて山口の猪突猛進ぶりを受け入れ、むしろ楽し
んでいる姿を見ていたら、ひとつのイメージが頭に浮かんだ。マザーハウスのロ
ゴの「M」が染め抜かれた旗を掲げた山口が、馬を駆っている。そして、たくさん
の仲間が山口の後を追っている。肌の色も服装もバラバラだが、共通しているの
は、全員が笑顔だということ。

途上国のアウトサイダーズを率いるリーダーが目指すは、パリ。日本の次は、フ
ァッションの都で旋風を巻き起こす。




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