:グレン・グールド ゴルドべルグ変奏曲☆左1956版CDと右1981年版ジャケット
ポケおやじ:こだわりメガネ先週に引き続いて「羊たちの沈黙」の小説(1989)と映画(1991)を分析します。(今回は多少ネタバレします)
「羊たちの沈黙」の「羊」は物語上、連続殺人犯に殺される女性らとFBI訓練生クラリス(ジョディー・フォスター)が救えなかった牧場の子羊のこととして語られる。
映画では親戚の牧場に養子に出された10歳のクラリスは真夜中、食用にされる屠殺から助けるため、1匹の子羊を抱いて残された子羊の悲鳴を聞きながら牧場から逃げ出す。
キリスト教で子羊といえばキリストを意味する。ネットで調べると当時のエルサレムの神殿では朝な夕なに子羊を神へのいけにえに捧げていたそうだ。神の子キリストは民のためのいけにえとして使わされ、いけにえの時間に十字架で亡くなったことになるらしい。
一方、キリスト教で迷える子羊達ならキリストに導かれる者を指す。映画で細密な絵を描くレクター博士は子羊(キリスト)を抱くクラリス=マリア像に模して描いていた。
だがレクター博士(アンソニー・ポプキンス)のクラリス=マリア像は映画のオリジナルで小説には出てこない。小説ではクラリスが屠殺より助け連れ出すのは映画と違い子馬なので、クラリスは12匹の子羊を見捨て、馬をひきながら子羊の悲鳴が沈黙に変わる様を聞きながら牧場から逃げ出すことになる。
12という数字は12使徒を意図しているのだろう。聖書では12使徒はキリストの復活後ユーラシア大陸を中心に布教に努めることになるが、10人は宗教の対立等で惨殺されるそうだ。斬首や皮剥ぎの刑(ミケランジェロの「最後の審判」でも描かれている)に処された者もおり、ユダは首吊り自殺している。
「羊たちの沈黙」は、クラリスらFBIが残虐犯罪者レクター博士のヒントを基に女性の皮を剥ぐ連続殺人犯を追いかける話で、その残虐な犯罪のモデルもいるそうだが、12使徒の内11人がこの映画同様の多様で残虐な死を迎えていることは無関係とは思えない。子羊も皮を剥がれるのだし。
映画ではマリアに重ねられているのに小説ではマリアでないクラリス。彼女は何者なのだろう。
馬小屋で芽生えた正義の心ということはキリストなのだろう。考えてみるとクラリスの綴りはClarithでChristと使われているアルファベットが近い。アナグラムはレクター博士の十八番。
レクター博士は悪魔・ルシファーかな?エルサレムの宮のてっぺんで悪魔「神の子なら、ここから飛び降りてごらんなさい」 キリスト「神をためしてはならない」等聖書では悪魔はキリストに神を試すこと裏切ることをささやき続ける。
クラリスの父は誇り高き保安官で、悪と戦って殉職したことが現在の彼女の心の正義の拠所になっている。しかしレクター博士の囁きにより、小説のクラリスは自分の父が雇われ夜警で本職の保安官でなかったことを再認識させられ、更に父代わりのFBIの上司への不信をかき立てられる。キリスト教において父性を補うものが神だとも言われる。クラリスの父性(心の神)はレクターという悪魔に心底より揺るがされるのだ。
さて、他にもヒントがないか改めて小説「羊たちの沈黙」を開いてみると、第一ページ一行目に巻頭書きがある。
「私が人間的な動機からエペソで獣と戦っても、死者の復活がないのなら何の益があるでしょう? コリント人への手紙 第一」
ネットで調べるとこの言葉は紀元56年頃パウロの言葉とのこと。死者の復活は最後の審判を指すのかもしれないが、この時点で最後の審判を描いたヨハネの黙示録が未だ成立していない。キリストの言葉により改宗させられたパウロだから当然キリストの復活を意識した言葉になるのだろうと思う。獣とは悪魔や邪心のことを指す。
なーんだキリスト復活が主題の話ですよと作者は親切にも一行目でうたっているのだ。
そして小説にしか登場しない、狂人と目されているサミイというレクター博士の隣に入る囚人のエピソードが強烈だ。サミイは教会の「募金皿に自分の母の首をのせ」た。「信者たちが、〈自分の最良のものを主に捧げよう〉を歌っていて、その首が彼が持っている最良のものだった」からだ。
レクター博士は彼に対しては敬意を持って接する。そして「サミイは極度に信心深いのだ。彼はイエスが来るのがあまりにおそいので失望している」と言う。
最初読んだときは分からなかったが、今考えてみればこれもキリストの復活の話だ。サミイが自分の最良のものを主に捧げる時思い浮かべたのは、アブラハムが自分の最愛の一人息子イサクを神に所望され、羊(羊は切り裂かれ供物にされる)の代わりに自分の息子を捧げることを決意し生贄の祭壇でナイフを振り上げたときに神に「よくぞそこまでわたしを信じてくれた」と止められた超有名な話ではないだろうか。
「サミイは極度に信心深いの」で、「自分の最良のものを主に捧げよう」という言葉をアブラハムのごとく実行したのではないか。そして神はアブラハムの時のように止めてくれもせず、また復活の奇跡を起こしてくれる筈の「イエスが来るのがあまりにおそいので失望している」のだ。レクター博士はサミイの行動が理にかなったものであるため敬意を払うのだろう。
映画版が単なるサスペンスに感じられるのは、この本のメーンテーマであるキリストの復活が抜け落ちているからだ。先週のグールド演奏バッハのゴルドベルグ変奏曲の話といい、本と比べると映画は強い制約を受けるものだとつくづく思う。
私は子供用の聖書※しか読んでないので、その範囲で書いたが本当はこの小説はキリスト教を知っていればもっといろいろな仕掛けが味わえるのだろうと思う。
しかし古いという事もあるのだろうが、ネットで調べても「羊たちの沈黙」の映画や小説の重要なキーワードとして聖書やゴルドベルグ変奏曲を取り上げる批評は見かけないのが不思議だ。
さて、取り返しが付かない位に広がってしまった小説と映画の解釈の隙間。「羊たちの沈黙」の続編「ハンニバル」はそれをどう処理したのか?ストーリーより小説と映画のそこが気になって続編が見たくなった。
ブックオフで100円の小説と、ゲオで1週間80円のDVD。古い作品のメディア・ミックス、結構楽しめますお薦めです。
※山室静著「児童世界文学全集24聖書物語」(昭和42年)と教会で配布された新約聖書を子供の頃読んだきり