湯沢市公式HP写真

2006年06月16日 | ゆざわネタ
投稿日 : 2006/06/14(Wed) 17:51

 小町まつりが加わり、ダブルこまち、ですね。
 各紙やこれから各TV曲への露出も増えるので、YahooやGoogleでたどってくる方も増えるんじゃないかな、と思います。
 (そのためにも、フラッシュが・・・、アンチフラッシュ厨といわれそうだな)

 なんにしても、第一印象が重要でしょうから、表紙の写真、これからも定期更新期待しています。
 (クリックすると大画面になって、壁紙になる、とかだといいですね。あと、過去の表紙なんかもアーカイブしてあるといいと思います。次のおまつりの去年の写真のリンクなんかにも使えますしね)

 いっそ表紙写真も常時公募にして、該当作なしのときは市役所のものにして、優秀なものがあればそれを採用するのもいいかもしれません(Quoカード1000円ぐらいの副賞つきで)。

 毎日新聞に掲載している鳥系の上遠野さんや、カエルから白鳥までいろいろの最上設計の父さんとか市内にも名写真家は少なくないでしょうから。
 デジカメのおかげで、子供や学生からの投稿も増えると思います。
 これからも、季節季節で切り取られた風景、楽しみにしてます。

新・市民歌募集中とのことで

2006年06月16日 | ゆざわネタ
新・市民歌募集中とのことで
投稿日 : 2006/06/14(Wed) 04:59


 公式HPは下記のとおり
http://aios.city-yuzawa.jp/contents/webyuzawa.nsf/b2221151c6a1fb1f49256b0e00421644/c3d68fe6473ff713492571690019b09f?OpenDocument

 キャッチフレーズも初耳だったんですが、「人と自然が輝き、ふるさとの技がさえる あたたかなまち」・・・とまあ、結構欲張りなフレーズですね。

 秋田県民の歌みたいに「資源は豊か、湧き出る油田!!」というところまでは景気よくは行かないでしょうけど、女性的な、こまち・温泉・お酒・匠(たくみ)あたりはキーワードになるでしょうか。

 6月30日締め切りということで、審査は、神部龍平先生が会長の審査委員会で決めるそうです。
 優勝?賞金は10万円、準優勝2点は1万円、とまあまあ手ごろな価格です。
 作曲までは公募してないようなので、おそらく4/4の、ドミソ・ドファラ・シレソの循環和音で最後にffして、「おお~、ゆざわ。(ウンヌンカンヌン)」ちゃんちゃん、という感じの曲が付くと思われます。

 ゆざわらしい、ゆったりした曲想の歌になればいいですね。
 それから、旧湯沢市民歌や、各町村歌も残るようにして欲しいですね。CDの値段なんか、本当に安くなりましたから、1曲3分間+カラオケ3分間でも、フルに74分間でも値段は変わらないでしょうし。

 ぜひとも新市民歌が出来上がった際には、記念CDに旧市町村歌や犬っこまつりの歌とか絵どうろうの歌とか郷土の歌も入れて欲しいですね。 「秀麗無比なる・・・」の秋田県民歌もよろしくです。

早朝に湯沢震度2だったそうで

2006年06月16日 | ゆざわネタ
タイトル : 早朝に湯沢震度2だったそうで
投稿日 : 2006/06/11(Sun) 17:01

 深さ10kmは浅いですね。M3.2なのでかわいい地震です。
 それにしても、仙北平野、結構、地震増えてるようなイメージないすか。

 真冬みたいに、反射式ストーブが倒れたり、避難しようとしても左右前後、雪の壁、という状況からすれば、今はいいかもしれませんが、いずれにしても避難経路や火の元注意ですね。

 「雪国」には、菅江真澄の記述として、湯沢で地震が起きたときに、地元のみなさんが(西の方に向かって?)地面に伏して「万歳楽、万歳楽」と言いながら拝んでいた、と書いてました。
 地場のコトバだと、「まじゃらく、まじゃらく」だったそうですけど、恐れというより、結構、滑稽な風景だったようです。

 悪いことが起こったら、なんかマジナイする、というのは、縄文人もやったようだし、北欧なんかでも未だにあるようですが、森の文化の特徴かもしれません。

 しかし、湯沢の場合、岩崎などに「鹿島様」づくりが残ってたり、鹿島神社や古子王神社、山伏の道などがあるなど、色濃く古代の信仰の跡が残っていますね。


タイトル : みなさんのお宅は地震大丈夫ですか
投稿日 : 2006/06/11(Sun) 17:04

 ちなみに菅江真澄くん、今から220年前の今日あたりは、胆沢にいて、6/15の未明に地震にあったそうです。「夜明けなんほりならん、なへ、いと長やかに揺りもて亘れば、霜枯れの外山に、きぎすのほろほろと鳴たるは珍し。」(「なへ」「ない」は地震の古語)
 次の月にも地震にあってますから、天明年間(1700年代後半)は東北に地震が多かったようです。

 1740年には鳥海山が噴火したそうで、なので、京都奥様も鳥海山の噴煙を目撃したのだと思います。鳥海山はその後も、1764,1801,1821と大噴火しているようです。 で、それ以降、150年以上静かだったのですが、1977年に小噴火が起きたそうです(知らねがった)。

 また、花山村の記録だと、1758年に鬼首(おにこうべ)で地震があり、1761年に須川岳で噴煙が上がったらしいです。ということで、栗駒山もあくまで休火山で、鳥海山だけでなく近くの栗駒山にも要注意。。

 ・・・・なんてことが分かったりしますので、やっぱ歴史資料は大事ですよね。

 東成瀬村には、1970年の東成瀬地震で落ちてきた大岩を記念碑として保存し、地震の怖さをPRしているそうです。
 郷土の歴史を勉強することは、次の悲劇を防ぐことでもありますね


タイトル : Re^3: 早朝に湯沢震度2だったそうで

> 震源はこの前の地震のときとおなじ泥湯付近でした。

 栗駒のマグマが元気になってきてるんでしょうか。
 温泉の温度とか変わらないといいんですけど。

> うちのほうは、横揺れではなく下から突き上げるような
> 縦揺れでしたよ。

 ってことは震源は近いんですね。
 マグニチュード3.2ってことは、阪神大震災の地震(M7.3)と4つ違い=百万分の一、ということですか。
 深さも10kmなので、かなり浅い感じです。(掘れば掘れるかも)
 メートルで言えば、1万メートルですもんね。

 最初に来るP波(pushだか、primaryだかガッコで習いましたな)が秒速6km(時速2万km!!、マッハ20くらい?)なので、震源地では地震が発生してから2秒未満で揺れが伝わるんですね。
 ジューヌ・ベルヌの本とか、昔の木造の図書館で熱心に読みましたねー。「コンチキ号の冒険」とかも。

 しかし、「マッハ」って単語、日常で聞くことも無くなりましたねー。マッハGoGoは海外でも人気なのですが。。

 今の湯沢の子供たちは、星空とか、雲の種類とか、百葉箱で温度計測とか、そーゆーのって興味あるんでしょうかね。(こちらでは街にいる間はあまり縁がないようです)

 湯沢には近くに鉱山も多いし、東成瀬は星空日本一になったこともあるし、地学を学ぶにはいいとこですよね。


タイトル : 秋田県って歴代、地学は好成績だったですね

> 高校時代、一番好きな科目は地学でした。

 自然が豊かで、鉱山や農業が盛んだった影響もあって大人も地学の知識が豊富ですもんね。
 今の年配さんが少年の頃には一時期、鉱石・化石ブームがあったようです。菓子箱にいろんな石を集めたり、国道108号線とか農道・林道の工事とかで化石が出てきたときに持ち帰ったなど、古い家にいけばジサマがためた鉱石・化石コレクションがあるはずです。

 湯沢雄勝周辺の遺跡などでも、湯沢高校の現役の学生さんが見つけたものがあるそうです。(昭和30年代とのことですが)

 温泉や間欠泉などをみると、地球のいぶきを感じさせます。毒水や毒ガスは怖いもの・迷惑なものですが、効能成分あふれる温泉や地熱エネルギーなどプラスの恩恵も大きいですね。

 湯沢はもともと、湯の原の槻の木さんのあたりの温泉から発祥したとのことですので、「地学」は湯沢のことを詳しく知るための必須科目かもしれません。

 周辺の鉱山の鉱石や化石を集める資料館みたいなのがあればいいなあ、と思います。じっちゃん亡くなっちゃうと石とか標本とか捨てられちゃいますもんね。
 夏休みに、ハンマーとニギリママ持って、子供たちに石の種類とか地層の読み方とか教える教室とかあるといいですね。予習に、宮沢賢治を読むのもいいかもです。



今日明日は「小町まつり」ですねえ

2006年06月16日 | ゆざわネタ
今日明日は「小町まつり」ですねえ
投稿日 : 2006/06/10(Sat) 19:55


 ちょうど今頃、小町太鼓とか小町おどり、とかですね。
 明日は、朝9:30から、神事が行われるとのことです。

 新しい湯沢のイメージは、やはり「こまち姿」なのだと思います。どことなく女性的な雰囲気の町並みや自然、それに農産品やお酒、お菓子、など、この「こまち」のコンセプトを補強するような、繊細で・こまやかで、どことなく優美さがあるようにも思います。

 14:45~「餅まき」というのも魅力的ですね。
 旧雄勝町の地域からも、いっぱい参加者が来られるといいな、と思います。ご盛会を期待してます。

Re: イオンについて

2006年06月16日 | ゆざわネタ
 とりあえず、大館の旧市街地のジャスコは閉店するようです。
 注目は、大曲の駅裏・バイパス沿いのジャスコでしょう。十分な床面積は大曲の商工会の態度変化によるものと聞いています。(中仙店の影響でしょうね)

 湯沢の場合も、計画の3倍くらいの面積で、文化会館裏あたりに出来ると良かったのですが。

タイトル : どうなる?サンエー

2006年06月16日 | ゆざわネタ
タイトル : どうなる?サンエー
投稿日 : 2006/06/10(Sat) 19:35

 大丈は、たしか、湯沢市の補助金をもらった「TMOゆざわ」が所有だと思いましたが、「サンエー」の今の持ち主は誰なんでしょうね?

 ちょっと前の地元某釣り新聞では「雄勝町の医院」さんが買って、高齢者福祉施設にする、という感じだったと思います。全国各地の傾向として、旧市街地に高齢者施設が立地しはじめているので注目していました。
 以前は高齢者施設(いわゆる老人ホーム)は山の中だったり市街地からの遠隔地だったり、と、まるで葬祭場かゴミ処理工場のような感じでしたが、五輪坂の山頂の施設や、横手の北上線踏切の隣など、「とじぇねぐね」場所への立地がすすめられてきているところです。

 できれば、要介護以前から、そのような場所で準備できるように、シルバー向け集合住宅とデイケアセンターと高齢者介護施設とグループホームが混住している団地が出来るといいな、と思っています。
 さらに、その隣に、ベビーホテルやビル内の子供預かり所、できれば幼稚園・保育園などが出来れば、幼老一体化した福祉拠点になると思われます。

 遊びをせんとや 生まれけん、戯れせんとや 生まれけん、
  遊ぶ和子らの声聞けば、わが身さえとて揺るがれん
・・・とかいう古歌がありましたが、子供らの嬌声に囲まれて、冬の雪や、孤独死の不安を感じずに過ごせる空間が、町の中にあれば、これも1つの中心市街地の再生といえると思います。
 高齢者による火災を防ぐためにも、予防的な観点で、公的な支援を行うに足るメニューと感じます。

 今年から3ヵ年で大量に引退を迎える団塊世代・集団就職世代を受け入れるために、「3丁目の夕日」世代にアピールする受け皿作りを湯沢市の各地(旧市街地、雄湯郷の病院周辺、小安の別荘群、秋の宮の温泉病院など)で整備を行えるよう、みなで戦略を考えて見てはいかがでしょうか。


>サンエーと中央通りの間に公園の計画があった。今もあるはずです。

 どこの土建屋の構想か、ヤッコの所業か分かりませんが、湯沢でも最も古い寺所=吹張、前森、そして表町の寺町は、湯沢のもっとも湯沢たる所以の場所を土木工事のネタに費やそうとするのはとんでもないことです。
 先にご紹介した(書き込み#5028)とおり、鷹司のお姫様=京都奥様の墓所・菩提寺である「智澄山日善寺」もこの並びにあります。旧湯沢市唯一の日蓮宗のお寺さんであり、同宗の寺は雄勝郡でも他には2つぐらいしかありません。

 日善寺のしだれ桜は、湯沢市公式HPのさくらのコーナーでも紹介されているように、この並びのお寺さんは旧市内に生まれ育ったものにとっては心のふるさとのような場所です。(「ステーキのさいとう」の裏あたりですね)
http://aios.city-yuzawa.jp/contents/webyuzawa.nsf/doc/C2539C237FD324E04925717F000C64E8?OpenDocument

 この「日善寺」の境内には、湯沢の歌人・後藤良介優氏の墓碑もあり、この裏には、
「雁の秋あきたなまりのなつかしき」(久保田万太郎)、「蜻蛉の草を離れて行くひとつ」(喜多村緑郎)などの句もあり、文化的な面でも貴重な場所と思います。


タイトル : あるものを活用するのが先なはず

 新幹線もそうですが、在来線さえまともに使わず、駅前も放置しっぱなしで、夜間無人化となって初めて騒いで、さらにJRに逆切れ・イヤガラセする、というのと同じ軸線上の発想と思います。

 中央公園でさえ、まともにろくな公園整備もできず、散歩道の整備も中途半端で、城跡への案内看板も少なく古いままです。熱心な地元の方が一生懸命、草刈などをしていただいているようですが、横手市が横手公園にかけているほどの1%の手間も掛けていない印象です。
 目の前の公園でさえ、荒れ放題に放置しているままなのに、またぞろ土建屋ネタに着手しようとする根性がまったく理解できません。

 サンエーから中央通り(ジークブルガー通り)にかけては、いにしえの湯沢を知っているお寺さんが3~4つ連なっており、また、表町界隈に縁の方などのお墓もあります。さらには、この湯沢に都の文化を伝えていただいた京都奥様が、波乱の人生を送り、やっと湯沢に安らぎを得て眠られている場所、また、1599年創建以来、幾度かの大火に見舞われながらも400年以上同じ場所で続いてきたお寺を軽視するに余りある所業です。いくら現市長が無宗教とはいえ、もし前の僧侶の市長であったなら考えられない罰当たりな構想だと思います(あくまで事実であれば、という前提ですが)。

 今は現存しているか分かりませんが、御尊像は京都奥様が京都・鷹司家より持参したものと聞いております。おそらく殿様の死や息子の死にあたっても、この像を朝な夕なに拝んでいたと思います。
 歴史を大事にしない者に未来はありません。われわれが、またうちのジサマがお寺さんの境内で遊んだように、子供らが湯沢の歴史に触れる機会としても、町の中にお寺さんや、神社、湯沢協会などがある湯沢の町を私は大好きです。

 いらねジェンあれば、新しい公園整備などではなく、まずは中央公園(ガッコ山)の整備、さらに多くの市民参加が得られるような行事を増やすべきです。

 湯沢大堰がいちばんそれらしく見える場所が、駅前通りから中央通り、そして旧中央病院あたりにかかる寺町通りだと思います。
 土建工事や用地保障費もらうのも大事でしょうが、それだけでなく湯沢らしい風景を大事にしていきたいものです。



秋ノ宮出身の菅 総務副大臣来県

2006年06月16日 | ゆざわネタ
投稿日 : 2006/06/11(Sun) 04:34


 横浜市議から衆議院議員になり、現在、総務省(放送とか、地方財政とか担当)の副大臣をやられている菅義偉さんが、秋田の地上波デジタル化と地方の視察とを兼ねて来県されたそうです。
http://www.hana.or.jp/hana/nitiniti/news06/Jun/n060609.html

 秋田市、大仙市、横手市、そして湯沢市では鈴木市長と市町村合併で意見交換したそうです。
 団塊世代で、集団就職で東京に出て、一念発起して、大学に入りなおし、ついに総務副大臣までなった、ということで、まさに故郷に錦の感がありますね。
 国交省政務官、経済産業省政務官のご経験もあるなど、活動の幅も広いです。

 総務省は、携帯電話の鉄塔を建てる事業もやってるので、電波の入りが今一歩の、小安や泥湯あたりに、もっと鉄塔(基地局)が増えることを期待してます。

 以前、ここの掲示板で、菅先生のお父さんは、秋ノ宮のいちごの導入者で、ショートケーキに最適なこのイチゴの栽培のおかげで、秋の宮地区では、出稼ぎから開放された、と伺いました。いまごろはちょうどイチゴの季節でしょうか。(「おおいし」のケーキ、食でっす)

 大都市が選挙区ですが日商岩井から衆議になった菅原一秀先生(44)も、お母さんの実家が湯沢市内で、練馬区秋田県人会会員だそうです。
 亡くなられた日本生命会長の伊藤助成さんといい、いろいろな人が湯沢と縁があるんですねー。

 ちょうど、この土日は「こまちまつり」ですね。ご実家に帰って、お祭りを見にいらっしゃってるのでしょうか。
 イチゴもいいですし、そろそろオット(さくらんぼ)の季節でもありますね。

タイトル : 湯沢で賑っているところ

2006年06月16日 | ゆざわネタ
タイトル : 湯沢で賑っているところ
記事No : 4998
投稿日 : 2006/06/03(Sat) 16:05
投稿者 : もともと住民

この間久しぶりに旧湯沢の商店街を通りました。
オビキュウの前と向かい側に車の車列、何かと思えば、フランチャイズチェーンの予備校と塾のお迎えの車の車列でした。都会と同じ料金ならかなりの高額のはず。不況というけれどやっぱり余裕のある家庭はそれなりにあるんだと感じた次第です。乗っている車もやっぱり高級車。
 学力格差も親の経済力に影響されていると言われますが田舎ほどそうした格差は大きいのかもしれませんね。
 


タイトル : 私の知ってる範囲ではみんな無理してますよね
記事No : 5001
投稿日 : 2006/06/03(Sat) 16:56
投稿者 : わっぱが

>  学力格差も親の経済力に影響・・

 わが親類縁者や知人はみんな貧乏ですが(悲しい・・・)、どごのエでも無理してますよね。そんで立派なガッコさへで、ふと振り返って見ると湯沢に大卒の就職はない・・・という悲しい状況のようです。
 本音では、実家に戻って欲しいけれど職がない。では、湯沢で人が足りているかというと、病院では医師不足、看護婦も不足、さらに介護福祉も人手不足、将来さらに大幅に足りなくなること、です。

 少子化はもはや小学校の複数学級できない状況までに進んでいますが、最大の原因である晩婚化を食い止めるために、高卒でも親しんだ地域で生計を立てていける長期的な就労プログラムを、行政・教育・商工会が一体となって考えていくべき時期だと思います。

 その点で、新しい高校(商工・北高)の大目標は、地域での就職・起業・伝統継承に役立つ人材の育成=湯沢で幸せに暮らしていけるスキルを身につける大学校=20代でちゃんと家庭が持てる男女の育成あたりを明確に掲げて、戦略的に町や各種産業との連携・カリキュラムへの組み込みを図っていくべきと思います。

 それにしても、パチんコ屋の駐車場みても、カローラやベルタみたいな車でなくて、古いけど税金や燃費・維持費の高い3ナンバーだかなあ。。見栄を優先するあまりに着実な生活を放棄するという性向が、家庭からも行政からも払拭されないと、自殺日本一・人口減少日本一という状況から脱却するのは難しいと思います。

 新高校のコンセプトにはとても注目しています。役に立たない進学志向でなく、福祉介護・観光・新しいビジネスの起業などの即戦力人材に特化していくべきじゃないかと思うのです。もちろん吹奏楽やバスケ、バレー、野球など生涯の生きがいにつながる部活の活性化も加えて重要ですよね。
 人づくり・次世代の育成こそ最重要課題でしょうし、その点で、今回の新しい高校づくりは、湯沢の盛衰を左右することになるようにも思います。
 新高校の生徒は湯沢市の準公務員みたいな感じで、いろんな活動のアシストやインターンみたいな活動をしてもらって、来るべき職業生活に備えてもらうのもいいし、特にお祭りや市の行事の際に、企画・運営スタッフとして加わってもらうのもいいと思います。


タイトル : カムバック、サーモン計画
記事No : 5073
投稿日 : 2006/06/10(Sat) 19:48
投稿者 : わっぱが

 やっぱ、今後の湯沢地区の高校のコンセプトは、「いったんは湯沢市外に出てみて、25-35歳のうちに、湯沢にUターンしてくれる・して欲しい人材づくり」というコンセプトで考えるべきと思います。

 すでに分野的には人材不足は顕在化しており、特に、産婦人科医・小児科医については地域間の綱引きになっている状況です。 
 さらには、次の国勢調査で、日本一の高齢県になる秋田県では、多様多彩な、介護福祉にかかわる人材の確保も急務です。

 Uターンは強制的にできるわけではなく、特に本格的子育て期にはいるだろう若いママさんのご意見が、湯沢移転の是非を左右することになると思われます。
 このことから、産婦人科・小児科・チャイルドセンター・保育園・幼稚園・小学校レベルのお稽古事教室の充実、豊かな自然・野外レジャー環境などなどを積極的に整備し、それをPRすべきと思います。

 また、若い人の、湯沢に対する「求心力」を高めるためには、逆に18~25歳ぐらいには大都市や国外に出して、新しい知見やスキル・ノウハウを獲得して欲しいようにも思います。そのための「奨学金」とか「留学経費」とかの貸し出しなんかも積極的にやって欲しいように思います。

 親が新しいクルマ買ってけるから、臨時とかパートとかで地元に残って、ゲームと朝鮮玉入れに興じる、という状況が地元に残る数少ないインセンティブとしたらちょっと悲しいように思います。

 カムバック・サーモン計画の中核としては、やはり楽しくかけがえのない=湯沢に生まれてよかった、と思える、少年・少女時代を作り上げていくことだと思います。
 湯沢の3大まつりや、今日から始まる小町まつりなど、各地のおまつりに、もっともっと市役所や教育委員会が助力してほしい、というゆえんが、このようなところ(湯沢への将来のUターンへのインセンティブ付与)にあると思います。



絵どうろうまつりが来るよ

2006年06月16日 | ゆざわネタ
タイトル : 絵どうろうまつりが来るよ
記事No : 4954
投稿日 : 2006/06/01(Thu) 02:48

 やっと6月、梅雨もまだ、というこの時期に、早くも絵どうろうの作成の記事、というのは毎日新聞です。
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/akita/news/20060530ddlk05040135000c.html

 製作場所は年によって、南中の教室だったり、旧雄勝議会堂だったりしてるようですが、今年のこの記事では「市民プラザの2階」とありますね。6/4まで公開中とあります。
 あまり場所は広くないと思うんですが、今年は34名が受講とのこと。自分の背丈よりも高い尺のカンバスに絵を描くのは大変だと思いますが、中に明かりを入れて飾ったときの感じはとても感動的ですよね。(って、私も子供公民館で、絵どうろう作ったことあるですよ。「まなぐ凧」とかもね)

 8月7日の七夕まで、まだ2ヶ月もあります。小さいサイズだと、80cm×60cmぐらいの手ごろな絵どうろうもありますから、ぜひとも新市の各地の小中高校の子供たち・若い衆にも、絵どうろうづくりで祭りに参加して欲しいと思います。

 ちなみに、小さいサイズだと、蛍光灯でなくても、裸電球でもそれなりに明るく観れます(むしろ昔の絵どうろう風に暖かな雰囲気になります)。
 小学生が書いたイビツな江戸風美人画とか、とても楽しく・嬉しく感じます。書いているときの様子が見えるようです。
 最近の注目ゾーンは、中央通りのピザ屋さんあたりや、おびきゅう前の栗駒アイス屋の前のノエビアのポスターのような画風ですね。

 「広く皆さんの参加を待ってます」みたいな募集ポスターが、1学期中に各学校の廊下に張り出されることを期待してます。「骨」はリサイクル可能なジョイント方式にして、市で貸し出すようにしてはいかがでしょうか? ローコストでかつ作画だけに没頭できますよ。(盆棚のように市内の高齢者の手遊びに作ってもらうのもいいかも)

 絵どうろう祭りは湯沢のDNAの1つです。なので、今からとっても期待してます。女の子にとっては浴衣で外出できる貴重な機会ですね。和服屋さん、着付けやさんにとっても絶好の商機だけに、まつりの盛り上げ・支援の一端を担っていただくのもいいかな、とか思います。


タイトル : 市公式HPにも絵どうろうのHPを

 絵どうろう館とかには過去の名作絵どうろう画を保存してると思いますが、取って置くだけではもったいない。
 キャプチャーして、市のHPにおいていて「壁紙にどうぞ」とか、販売ポスターにしてみる、とかいいかもですよ。

 お花見で角館に行ったら、観光協会のポスターが有料頒布されてて、結構、お土産に買っていく人いましたし、絵どうろうの写真って風情があって文字どおり絵になるものが多いと思います。横手が「かまくら」ならば、湯沢は「絵どうろう」と「犬っこまつり」という湯沢にしかないものが2つもあるのですから(「ぼんでん」や大名行列は各地にあるので)、湯沢のアイデンティティーをアピールするものとして、もっと積極的に打ち出していくべきと思います。


 今年は2006年、鷹司のお姫様が湯沢にお輿入れされたのが1802年の秋ですから、おそらく京を思ってホームシックになったのは1703年の夏ごろ、とすれば、今年は「304回目の絵どうろう祭り」になるんでしょうかね。
 京都から来たお姫様と町衆の交感という感じで、絵どうろうまつりのこの由来は、とても好きなお話です。今の湯沢の子供たちにも知ってて欲しいですよね。

 絵どうろう祭りのもとになった「七夕」は「棚機」「星祭」で、中国が起源でのちに京都でも流行ったそうです。もともと中国の本国では書道上達や恋愛成就などを祈る風習、とのことですので、中高の受験生や、思春期まっただなか、っていう少年少女のみなさんのためのお祭りなのかもしれません。
 いじけて中央公園で深夜に爆竹鳴らす青春よりも、浴衣の女の子と一緒に楽しく絵どうろうを散策する、そんな楽しい空間が演出できるといいですね。
 湯沢の少年少女の、楽しい夏の思い出作りのために、観光協会さん・教育委員会さん・各学校さん・親御さんみんなのご協力期待してます。



タイトル : 絵どうろうネタおまちしてます

> >1802年の秋ですから、・・・1703
> お姫様タイムトラベラーだったんだな。
> これは、このまま少年ドラマシリーズスレになる(w

 あ、すんません、ミスタイプしてました。
 お姫様はヨシヤマくんじゃないですね。(お殿様もケン・ソゴルでもない)
 お姫様御輿入れは、文化爛熟華やかな元禄時代ですので、「1702年」(現地時間で元禄15年、なはず)が正解です。

 このお姫様の名前がどんなだか、生い立ちがどんなか、調べていますが(まあネット上だけですが)まだ名前も分かりません。(昔なので有力者の正室でないと御輿入れの時の名前が出てこないですね)

 ただ、江戸時代の公家で経済的には困窮してるとはいえ、名のある摂関家で、かつ姫のお父様(鷹司かねひろ氏)は当時売り出し中の有力者でだったし、おばは将軍家に嫁いでいるし、、と見てみると、姫の御輿入れは他には聞いたことのない異例中の異例の事態のように思えます。
 かねひろ氏は他に養女にした(正室でない筋の娘?)がいて、そちらは西国の大名家に嫁がせてるし、鷹司家は現在に至るまでずっと名門のままですし、この御輿入れの理由はまだミステリーのままです。

 湯沢に残っている雑記を漁ると、昔の記事では、姫は醜女であったが、とあるので、ひょっとするとそこあたりが理由かも、とか思いつつも、自分の娘(しかもお父さんはまだ若いので絶対にかわいがってたはず)の行く末を案じて、本当に末永く大事にしてくれそうな家として見込んで佐竹のご本家とかに相談したのかな、とかも思います。

 今の記述だと、「幼い姫は」とありますが、御輿入れ時15歳(満年齢14歳)は当時としてはとりたてて早すぎるものではないと思います。早めに大事にしてくれる家に嫁がせた、という暖かい父心ではないか、というのが現時点での推測です。
 なお、非常に聡明な姫で、ご家中に助言したり、お姑さんと温泉に行ったりと佐竹南家のプレゼンスを上げる役割を大いに果たしたように思います。また姫のおかげか南家が宗家の代理で京にあがる機会も増えたようです。

 新市のみんなに愛されるまつりにするため、「絵どうろうまつり活性化委員会」みたいなのできるといいですね。


タイトル : 京都の姫様と若殿様

 んと、「若殿様」は20~21歳なのです。でも日本の場合、ほんのちょっと前までは「15でねえやは嫁に行き(by三木露風%あかとんぼ)」だったわけですし、うちのばさまも16で嫁にきたそうで(だから平気で10人兄弟とかなるわけですな)、ごくごく標準的な感じだったと思います。(詳細はブログ参照。http://blog.goo.ne.jp/__x/d/20060603)

 この京都奥様(京都御輿様)は、御日記にも記述が詳しく出ているので、やっぱ佐竹南家の御家中でも大事に扱われたようです。
 この若殿さま・義安(ヨシヤス)さん、子供の頃の記述も御日記にいっぱい出てて、結構楽しそうです。南家7代・湯沢城代5代目なので安定期ですね。

 町衆がお屋敷に行って踊りを見せたら、次の週に町に出て踊りが見たい、といったおかげで、町にお屋敷こしらえて(たぶん即席の座くらいだと思いますが)、町に出て町衆の踊りを見た(9歳くらい?)とか、相撲を見せたり、と、たぶんお父さんも息子かわいかったんでしょうね。

 このころは、久保田藩全域で、公務員の給料25%カットとかあってかなり財政が厳しかった時期なんですが、クリ集めろ、と言われて、大慌てで1斗集めたり、久保田のご本家の方から雉を出せ、とリクエストが来たので、出さないと湯沢の面目がたたないと思ったところ、わさわさ集まってついに48匹も集まってしまった、とか出てるので、このころは佐竹南家はとても町衆や村衆との関係が良かったのだと思います。
 そのような中で、摂関家のお姫様が御輿入れ、というわけですから、御家中も町衆もえらい張り切ったと想像されます。


タイトル : 湯沢がやっと「町」になったころ

 旦那様ヨシヤスさん、久保田の大殿代理で帝の即位式に出たり(1710年)、お舅さんの鷹司左大臣様に謁見し詠歌を賜ったり(1711年)、また本家名代で時の将軍・徳川家継公に謁見するなど、歴代の湯沢城代で最も中央政界(?)で活躍し、久保田の御宗家の信頼も篤かったと思われます。
 残念ながら49歳でお亡くなりになりました。まだ人生50年の時代ですから特に早かったわけでもないとは思いますが、しかし姫様、悲しかったでしょうね。息子さんの義伯さんも30歳で早世されて、継嗣がなかったせいか、湯沢城代はヨシヤスさんの弟さんが継ぎました。

 姫様の人生をトレースして見ると、旦那さんも息子さんも先に亡くされて後世は大変だったんだろうな、とか思います。(ダンナさんが亡くなってからは、鳳寿院さまと申されて57歳まで生きられたそうです。(法号は保寿院殿祝鳳瑞光大姉、なので、本名はミズホさん、とかだったかもしれませんね)
 鷹司家は日蓮宗のようで、お墓は佐竹南家の曹洞宗の清涼寺でなく、サンエーの裏の2番目のお寺さん「日善寺」にあるそうです。

 長い江戸期には、全国各地の田舎に、京都からのお姫様がお輿入れしたところも多いですが(ご近所だと角館の佐竹北家でもそうですね=角館の奥様は桜の苗木を京都から持ってきたそうです)、googleで「京都奥様」を検索すると、湯沢のこのお姫様しかhitしないあたり、やはり絵どうろうまつりの存在が大きいな、と思います。

 この京都奥様が来てから、湯沢が町に昇格して(1714年)、そのお祝いとして愛宕神社の祭礼が町内各所を練り歩いたのが、今の湯沢大名行列の元になった、と市史にあります。ここで使われたご神体が農夫が畑から偶然掘り出したものだったり、大名行列の格式が実石の10倍以上の十万石格式だったり、御道具類は京都に注文したものだったりとなかなかに不思議なエピソードにあふれていますが、随所に格式に詳しい京都奥様の御知見が生きているのかな、と感じます。
 大名行列のお囃子も祇園囃子のバリエーションのようですね。

 このお姫様がいらしたころの湯沢のあたりがとても興味深いです。院内の銀山でいい鉱脈が出たおかげで経済的にもだいぶん回復した時期でもあったようです。(なもんで、花火を打ち上げたりしてたみたい)


タイトル : 湯沢の歴史は面白いです

>こういうのをよみましても湯沢という土地が持っている貴重な歴史を大事に思わなければと思います。
>知的で 美しく 優雅 そしてやさしさがありますね。

 そうですね。とにかく、物持ちが良かった佐竹南家の存在と旧市内の名家の皆さんのおかげで、大量の佐竹南家御日記が現代に残っている「奇跡」を喜びたいと思います。

 それに、古い歴史と面白い由来を持つ3大まつり=「犬っこまつり」「絵どうろうまつり」「大名行列」を大事にしていきたいですね。
 これらはいずれも一般の市民の皆さんの参加・援助・参加がなければ、今の世には残らなかったでしょう。
 特に、昭和39年前後に「犬っこまつり」のてこ入れをした当時の湯沢市観光協会、「絵どうろう館」活動で絵師を増やしていること、格番町の皆さんが道具を長い間維持してきた大名行列、など、いずれも偶然ではなく、多数の方の長年の努力・ご尽力の賜物です。

 近世にいたっても、さらに南家佐竹太鼓の盛況や、犬っこまつりの「ハモいぬ」、また各まつりのときの「FMゆーとぴあ」の中継など、伝統にさらに積み重ねが加わっていると思います。
 中心デパートが無くなって、大型の絵どうろうやボンボリも寂しくなりましたが、今でも新人の絵師さんや現代風の美人画が生まれてたり、少子化のなか、女の子も加わって大名行列を維持したり、犬っこまつりには雪の花火大会を、と懸命のリカバリーの努力にも頭が下がる思いです。

 絵どうろうには賞賛を、大名行列(特に奴振り)には拍手を、犬っこまつりの期間は、玄関の横にマイお堂っこを作って犬っこを飾ろう。
 図書館とか市民プラザとかに、湯沢の歴史や湯沢のまつりが良く分かるコーナーとかあるといいですね。

 江戸時代だけでなく、昭和40年代=湯沢の黄金時代=の記録もあるといいと思います。
 中央デパート開店、協働社、なかよし、大丈など商業床の黄金期だし、分校が出来たのも調べて見ると東京オリンピック直前あたりですね(新田分校、川原毛分校、泥湯分校あたり)このころ、岩崎中、弁天中、幡野中が湯沢北中に統合されたりしてますね。湯沢商業高が出来たのもこのころです。



湯沢のシルバー層は元気だ

2006年06月16日 | ゆざわネタ
 中央グランドで、湯沢地域老人クラブ連合会主催の、60歳以上の1000人が参加したシルバー大運動会が開かれたそうです。
 この運動会、35年前から実施してるそうです。

 若者が少なくなった分、シルバー層がどんどん活発になれば別の賑やかさも戻ってくるかな・・・
 巣鴨みたいな感じかな。

絵どうろうまつりに思う

2006年06月03日 | ゆざわネタ
 佐竹南家は、苗字拝領でなく正しく佐竹家宗家の主筋ですが、一方で秋田移封後は佐竹家宗家(義宣公)は血縁や重臣諸家よりも能力主義・近習による官僚主導体制に移行したので(ここのあたり岩明均さんの「雪の峠」に出てますね)、南家も家臣としての扱いだったようです。佐竹南家御日記でも頻繁に藩中央の重臣である梅津家などに付け届けした記録が出てたと思います。
 さはさりながら、湯沢という町自体が、佐竹南家着任後に、佐竹南家主導でインフラ整備され、それに伴い発展した点もあり、初期にはトラブルや結構乱暴な事件を起こしつつも、この元禄期には財政建て直しのために院内銀山の大切疎水道を整備したりテコ入れして、姫様御輿入れから1800年代にいたる期間は銀山も右肩上がりの成長を遂げ、湯沢第2の成長期にあたる時期でもあったわけです。
 姫様は1687年生まれ、ダンナさんたる佐竹ヨシヤスくんは1681年生まれですから、ご結婚の際は21歳と15歳の初々しいカップルだったわけです。ちょうど南家御日記の最新刊である第5巻がこの時期の日記でいろいろ準備が大変だった様子が伺えます。(南家御日記は湯沢図書館で見れます。どうせ儲けれるわけでもないので、オンラインで見れるようにして欲しいですね>教育委員会さん)

 姫様入湯に伴い始まったのは、竹飾りをする当時の京風の七夕かざりのようで、その時には絵どうろうまでは出来てなかったようです。
 実際に絵どうろうが今のような形で盛んになったのはごく近世のようで、明治時代の灯り付き灯篭のような行事がある、という記録あたりが参考かなと思います。明治期には、各地で、今で言えば青森のねぶたのようなアトラクション用張りぼてに明かりを入れたのが全国各地で流行ったようで、湯沢でも初期の頃の絵どうろうには将棋のコマや武将の絵など、ねぶたと区別がつかないようなものがあったような記述がありました。

 竹ひごで立体を形作って色を塗るというのは大変な費用を要するので持続的に行うには相当の資本蓄積がある町でないと持たないですし、人口も急増期にあたり農産・工業では資本の余剰蓄積は出ない、ということで、花輪や湯沢のように鉱山の門前町のような場所でないと持続しえなかったのだと思います。
 幸いにも、湯沢は江戸期~明治にいたるまで、時代により上下はあれど院内銀山の豊富な資源があったので、その筋の親方衆もおり、祭りのスポンサーに恵まれた状態にあったようです。このため、大名行列や七夕を大々的に行えるようになったわけですね。

 現在の湯沢を特徴付ける文化や行事の発端には(後付の理由ものが多いとは思いますが、まあ名目上)佐竹南家の発祥が多く、江戸期には現地の統制のためのものであったのが、現代には商業都市・湯沢の権威付けに使われるようになった、というのが基本的構図だと思います。
 今では結構有名になった南家佐竹太鼓も、その解説によれば、鷹司の姫様により移入された京都文化、その1つに京都祇園囃子があって、これを元に湯沢祇園囃子が出来て、これが佐竹太鼓につながっている、ということです。

 大名行列は、当初は愛宕神社の御進退練り歩きのという行事だったのが、佐竹南家の誰かがアイディアマンで財政厳しい家中(=公務員)ではなく、豊かな町衆にアウトソーシングしちゃえ、ということで「官設民営」の形にしたのが功を奏して、結局、佐竹南家がなくなっても現在に至るまで継続しているわけです。
 犬っこまつりは、北国のどこでもあった「鳥追い」「かまくら」の行事を、犬っこのシンコ細工飾りと佐竹南家正統説である「白討」のエピソードを交えて、昭和39年に市役所が観光行事として大々的にバックアップしたのが始まりということです。それでも昭和40年代は各町内会、特に子ども会が機能していたので、まさに冬の子供遊びのために町内行事として町内の一角で分散開催していたものが、昭和50年代から中央公園で集中開催されるようになってきた、ということでしょう。(要は少子化で子供会が事実上消滅してしまい、町内単位でお堂っこを作るインセンティブが無くなってしまった=オヤジどもが集まって飲み騒ぐためだけにお堂っこを作るというのは理由不足=ことが大きかったと思います)

 で、肝心の湯沢七夕絵どうろう祭りですが、昔の白黒写真などをみると、吹流しがあったり、絵どうろうもさほど巨大でもなく、仙台の七夕のミニ版みたいなイメージのものでした。おそらく絵どうろう祭りのピークというか、今のような形になったのは、高度成長期でモータリゼーション直前の昭和40年代で、中央デパート大丈、柳町、大町、田町に資本集中してたころに、各商店が権を競う形でどんどん巨大化・豪華化していった一環として、絵どうろうに特化したお祭りになったものと思います。
 このようにどの祭りでも、発端と爛熟期、安定期で、担い手の変遷はつき物なわけですので、今の絵どうろうまつりの担い手(+スポンサー)も、時代に相応して弾力的に変えていくべきなのだと思います。例えば、絵どうろうまつりであれば、市役所と商工会+イオンがスポンサーで、教育委員会と観光協会が全体のコンセプトメイキング、そして実働の担い手を小中高生+若者+シルバーボランティアとして、住民による手作り感満載の「絵どうろう」を数多く飾り付けることで再生を図ることは十分に可能だと思います。
 伝統は一度失われるとその復旧は容易ではありません。一方で、ちょっとした工夫で継続させることはさほど困難なことではありません。なにせみんなノスタルジアの核として祭りの重要性は認識していますから。なので、手遅れにならないうちに湯沢のまつり(雄勝の小町まつりのようなものも含め)の現在的なてこ入れを意識的に図っていくべきと思います。

 これからはいよいよ地域間のアイデンティティの競い合いになってくると思います。川とお城がある横手市、武家屋敷と夜通しの祭りがある角館などには不安を感じませんが、湯沢の場合であれば、3大まつりと酒の町というイメージは戦略的に維持発展させていかないと湯沢としての求心力は保持できなくなっていくと思われます。
 例え、商業床は十文字、病院は横手駅西、となったとしても、祭りとお酒さえあれば、湯沢に住み続ける・湯沢に戻って来たいという人は無くならないと思うのです。


あいさつ(挨拶)とは、何か

2006年06月03日 | ゆざわネタ
「思い切ってご挨拶なさってごらんなさいな。
 挨とはこう ぐぐっと相手に
 まっさらの気持ちで向かうことです。

 拶とは引き出すということでございます。
 人間性を引き出すのです。

 挨拶こそが仏教の心髄。
 とても簡単で、とてもとても深いことです。

 人の世の諍い事のほとんどは、
 挨拶の欠落によるものです。」

 『挨拶』は仏教語です。
 「挨」は近づくこと、「拶」は引き出すことです。できるだけ近づいて、相手の中からいのちを、教えを、純粋な人間性を引き出すのが『挨拶』です。

 さぁ谷川の音を聞いたら中興の祖白隠禅師(十七世紀の禅の高僧)はさらに「隻手の声を聞け」と言います。
 隻手とは片手です。『ポン!』と手を打ちます。音のなった片手の音を聞け!と言っているのです。さぁ打ってみましょう。聞こえるはずはないなど思わず、何千回何万回と、打ってみましょう。打ってみないとわかりません。まず打ってみることが『禅の入り口』です。きっと「隻手の声」が聞こえてきます。さぁ・眼を閉じてこころの耳を開いて聞いてみましょう。

湯沢地震だそうで

2006年06月01日 | ゆざわネタ
タイトル : 湯沢地震だそうで
記事No : 4741
投稿日 : 2006/05/16(Tue) 01:41
投稿者 : わっぱが

 むかし、小安でも地震があって、おっきた岩が落ちてきた、という話をトショリから聞いたことがあります。

 おとといの19:46というから、ままざめも終わった後でよかったですね。(震度2だから大丈夫か)
http://www.sakigake.jp/servlet/SKNEWS.News.kiji?InputKIJICODE=20060514j

 しかし、震源の深さ10kmって、ずいぶん浅いですね。
 湯沢の温泉のもと=マグマが活発になってきてるんでしょうか。
 それとも、活断層がたくさんあるのでしょうか。ちょっと心配ですね。


タイトル : 地震
記事No : 4744
投稿日 : 2006/05/16(Tue) 07:34
投稿者 : s.a

> むかし小安でも地震があって
>「おっきた岩が落ちてきた」という話を・・

今回の程度なら“地震は慣れっこ”ですネ。

都心部に近いところから来たような方は、
ちっちゃな地震がおきても、
随分と大きくあわてるようでしたが。

鉄筋コンクリートの学校に大きなひびが入ったり
木造校舎だったら、傾いたり・・・
日常茶飯事っぽくなっていますもんね。

山谷トンネルは(危険なのでか)変わっています。
岩崎橋は、以前の他に立派なのが出来ています。


タイトル : Re: 地震
記事No : 4748
投稿日 : 2006/05/16(Tue) 11:30
投稿者 : 旧湯沢市内

私の家は旧湯沢市内ですが、地震には全然気づきませんでした。
テレビの地震情報で知りました。


タイトル : 地震に敏感な人もいるもので
記事No : 4770
投稿日 : 2006/05/18(Thu) 07:38
投稿者 : わっぱが

 うちの職場の同僚などは震度1でも感知します。
しかし、一方で震度2ぐらいでも「めまいかな」(湯沢だと「当たったかな」「かすったかな」という人も多そうだ)という感じで、いずれにしても部屋のきしみ音でもない限り、あまり気が付かない感じですね。

 秋田県南の地震としては、日本海中部における地震と、奥羽山脈端の地震がメジャーなようです。
 国の地震調査委員会の調べでは、秋田沖で、30年以内にM7.5程度の地震が起きる確率は最高3%、50年以内は5%だそうです。
 さらに、沖合いにある 断層(佐渡島北方沖)では、30年以内に同6%、50年以内に同10%の確率でM7.8程度の地震が起きるそうです。

 地震の評価としては高い数字ですから(阪神淡路大震災の地震よりも高い)、準備しておいて損はないと思います。

 あと、千屋断層をはじめとする奥羽山脈はしっこの断層群がありますので、湯沢市直下の断層は動かないにしても、ご近所の断層が動けば揺れは小さくないと思いますので要注意ですね。

 さて、今年の夏は映画「日本沈没」のリメイク版が上映されますね。
 むかし、光座にかかったときに、見に行きました。
 「でんろくまめ」とかサキイカとか食べながら、映画を見るのは楽しかったです。


タイトル : Re: 地震に敏感な人もいるもので
記事No : 4773
投稿日 : 2006/05/18(Thu) 08:57
投稿者 : どうか穏便に


>
>  さて、今年の夏は映画「日本沈没」のリメイク版が上映されますね。
>  むかし、光座にかかったときに、見に行きました。
>  「でんろくまめ」とかサキイカとか食べながら、映画を見るのは楽しかったです。

日本沈没 復活の日などみながら じんわりと不安感がありましたがそれがやはり今や現実味を増してきたというか現実になってきたというか・・・・。

地球があぶないとかもっと何千年も何万年も先のはずだったんですよ。どーするんですか、どーすりゃいいんですか。

人間も元はといえばただのひとつの生命体であって自然の中においては特に・・・なんていってる人も居ますがなるほどとは思いますが しかし・・・そこをなんとか・・。


タイトル : 思い出しました
記事No : 4854
投稿日 : 2006/05/24(Wed) 14:08
投稿者 : 元住民

日本沈没は、私も光座に見に行きました。
リメイク版も、たぶん見に行くと思います。
昔は特撮だったのですが、新しい物はやはりCGになるんでしょうね。
その辺も楽しみなのですけど、日本映画のCGはしょぼいものになりがちなんですよね。
亡国のイージスのCGもかなりがっかりする物でしたし。


タイトル : Re: 思い出しました
記事No : 4858
投稿日 : 2006/05/24(Wed) 15:39
投稿者 : わっぱが

 昔の「日本沈没」のころは、かなりの社会現象で、のちにテレビシリーズも放映されましたし、小松左京のほかの作品も莫迦売れして、あわせて筒井康孝や星新一の本とか、SF系の隆盛を作った点と紙・本編・TVのメディアミックスが完成した点でエポックメイキングなものでした。

 素地としては、NHKの少年ドラマシリーズがありましたし(クラスの殆どが見ていた)(18時のこどもニュースの直後にやっていた「なぞの転校生」とか「タイムトラベラー(時を駆ける少女)」とか「赤い月」とか)
 それに学研の「科学」「学習」の「夏・冬休み読み物特集号」で質のいいSF作品が必ず入っていたことも大きかったと思います。

 西側東側の冷戦時代で、今と比べたら遥かに悲観的な国際情勢でしたけど(核戦争の時計とかありましたし)(とにかく題材が世界破滅モノ・終末モノが多かった)、高度成長がその憂さを忘れさせてくれていたようにも思います。

 次の宮城県沖地震は、30年確率で99%ということですし、日本海沖は重要な監視区域、わが湯沢の旧市街地+関口からのフルーツラインは東鳥海山断層の真上、ということで、地震については常に気をつけておかないといけない場所ですので、どうぞタンスの固定とか、大雪の時の脱出路とか、疎開先になる親しい親戚友人の確保など、考えておいていいことはたくさんあると思います。
 「備えあれば、憂いなし」ですね。


タイトル : 観てました!
記事No : 4859
投稿日 : 2006/05/24(Wed) 15:52
投稿者 : 映画好き


>
>  素地としては、NHKの少年ドラマシリーズがありましたし(クラスの殆どが見ていた)(18時のこどもニュースの直後にやっていた「なぞの転校生」とか「タイムトラベラー(時を駆ける少女)」とか「赤い月」とか)


観てました観てました!なぞの転校生とか大好きでした。
眉村 卓の作品などはほとんど読みました。
ざわざわドキドキの作品の数々、今だったらどんなSF作家さんがいますか?  

>  西側東側の冷戦時代で、今と比べたら遥かに悲観的な国際情勢でしたけど(核戦争の時計とかありましたし)(とにかく題材が世界破滅モノ・終末モノが多かった)、高度成長がその憂さを忘れさせてくれていたようにも思います。
>
>  次の宮城県沖地震は、30年確率で99%ということですし、日本海沖は重要な監視区域、わが湯沢の旧市街地+関口からのフルーツラインは東鳥海山断層の真上、ということで、地震については常に気をつけておかないといけない場所ですので、どうぞタンスの固定とか、大雪の時の脱出路とか、疎開先になる親しい親戚友人の確保など、考えておいていいことはたくさんあると思います。
>  「備えあれば、憂いなし」ですね。


タイトル : Re: 観てました!
記事No : 4866
投稿日 : 2006/05/24(Wed) 18:04
投稿者 : わっぱが

> 観てました観てました!なぞの転校生とか大好きでした。
> 眉村 卓の作品などはほとんど読みました。

 私は、学研の読み物集の編集と実際に書き下ろしもしていた福島正実さんが好きでした。ちょうどおととい映画「日本沈没」でちょこっと企画スタッフ(はじっこに出演も)した方と飲んでたんですが、そのときも「少年ドラマシリーズあったよね」「あったあった」と意気投合してたところです。

 少年ドラマシリーズの第1回があの「タイムトラベラー」なんですね。「ふかまちクン」「よしやまサン」とちょっとほろ苦いボーイミーツガールなストーリーなのも少年少女に大うけした要素だったと思います。「ラベンダーの香り」「ケン・ソゴル」というのもわれわれの世代の共通単語ですよね。
 実は完全に見た作品は少なくて、「タイム」以外には「夕ばえ作戦」「長くつ下のピッピ」「なぞの転校生」「未来からの挑戦」「赤い月」「七瀬ふたたび」・・・要は早川ジュヴナイルシリーズで本が出たものだけですかね。(ピッピ以外は純SF)

 クラスに必ず本棚があって、そこには必ず早川SFとかポプラ社のホームズ・ルパン・乱歩の本が並んでました。いい時代だったなあ・・・

(参考)
少年ドラマ伝説HP
http://members.jcom.home.ne.jp/nino-p/
タイムトラベラー最終回復活の経緯http://www.h2.dion.ne.jp/~tinei/tt/tt1.html

 今は忙しくて本が読めないですが、代わりにマンガの世界がかつてのSFマガジンの熱気を維持しています。星野之宣さんの「宗像教授」シリーズ、竹宮恵子さんの「ブライトの憂鬱(私を月まで連れてって)」シリーズ、タイムトラベラものでは来週から連載化される村上もとかさんの「仁-jin」が大注目です。
 いずれも、現在連載(といっても超不定期)中なので、十文字「ラッキー」の書店で手に入ると思います。

 特に、星野さんの「宗像教授」シリーズの後半は鉄器とともに渡り歩いた民族がテーマで、湯沢の近所が出ることも多いです。先日は岩崎の鹿島さまが出ていました。SFではありませんが、「寄生獣」や佐竹家の作品もある岩明均さんの連載「ヒストリエ」もかなり少年ドラマシリーズ的な雰囲気を感じます。


タイトル : Re^2: 観てました!
記事No : 4871
投稿日 : 2006/05/25(Thu) 11:08
投稿者 : 元住民

タイムトラベラーの前は、「五人と一匹」とかいう少年探偵団っぽいドラマをやっていたんですけどご存じですか。
それが終わって、タイムトラベラーが始まりオープニングの語りが衝撃的でした。


タイトル : Re^3: 観てました!
記事No : 4874
投稿日 : 2006/05/25(Thu) 19:25
投稿者 : s.a

> タイムトラベラーの前は、「五人と一匹」とかいう少年探偵団っぽいドラマをやっていたんですけどご存じですか。

ごにんといっぴき、ごにんといっぴき・・
わきめもふらずに、ごーごーごー・・・
というテーマソングみたいなものが、
どっかに入っていませんでしたでしょうか?


タイトル : Re^4: 観てました!
記事No : 4880
投稿日 : 2006/05/26(Fri) 01:16
投稿者 : わっぱが

>「五人と一匹」

 ううっ、見てませんでした。
 6時からの「こどもニュース」の記憶はあるんですが。(親父のナイターに打ち消されたか)

 人形劇は、八犬伝とか紅孔雀とかプリンプリン物語とか記憶にあります。「ひょっこりひょうたん島」の第1期放送はうろ覚えぐらいですが。人形劇では、三国志が一番、印象的でした。あの人形は素晴らしかった・・・


タイトル : Re^5: 観てました!
記事No : 4884
投稿日 : 2006/05/26(Fri) 11:21
投稿者 : 元住民

確かその頃やっていた人形劇は、空中都市008だったと思います。
その後は、ねこじゃら市の11人だったような記憶があります。
すっかり懐かしい番組スレットになってしまいましたね(笑)


タイトル : 当時の湯沢
記事No : 4888
投稿日 : 2006/05/27(Sat) 16:01
投稿者 : わっぱが

> すっかり懐かしい番組スレットになってしまいましたね(笑)

 いや、ほんと、TVが最大の娯楽に浮上したころのお話なので。
 ちょうど、昨日・今日とナベプロの渡辺晋さんのヒットパレードの番組やってますね。

 湯沢の場合、白黒放送+VHF時代は、最初はNHKとABS(日本テレビNTV系)しかネットしていなくて、とりあえず巨人戦のナイターやマチャアキのNTV紅白歌のベストテン、土居勝のテレビジョッキーが見れていいなあ、というくらいでした。
 このころは、まだ湯沢劇場とか光座とかには週末や夏休みなどには、子供らが門前市をなす感じで並んでたし、なにせウルトラマン・ゴジラ・ガメラなどのキラーコンテンツがありましたので、まだ映画とTVが両立していました。(TVのない家の方が多かったですし、山際の方ではそもそも中継波が届かなかったです)

 やはりTVが大きくブレークしたのは、カラー化+UHF免許が出て、AKT(秋田テレビ、フジ系)が湯沢にもネットし始めてからだと思います。AKT開局の時は、湯沢市内全部の小学校や幼稚園・保育園にカラーボールとかおもちゃとかが入った宣伝商材も配られたような気がします。(昭和43年あたり?)
 昔、フジテレビが映らなかった岩手や、いまだに「いいとも」が夕方にやっている青森などと比べて恵まれてるなあ、とか思った記憶もあります。(その代わり秋田ではTBSがドラマしか見れないのですな)

 さらにFM放送がステレオになったりして、市内のオーディオ店(ソニックとか)では、コンポブームになりましたよね。「エア・チェック」という言葉が出来て、ラジカセやカセットテープがわんさか売れ始めたのは昭和50年代ですね。
 親方衆の家なら、洋酒棚の隣に、4chの家具調ステレオとか必ずあったのもこのころです。

 TVも家具調で、ご丁寧に、木の扉とか、あづき色のビロードの上かけなんかもついてました。

 図書館も、今の議会堂の建物で、縦長の窓と床の油の香りのなかで、ポプラ社のルパンや江戸川乱歩シリーズなんか読むのが楽しみでした。
 NHKの少年ドラマシリーズのおかげで、膨大なハヤカワSF文庫の海に船出した人も多いんじゃないかな、と思います。


タイトル : ∩( ・ω・) ナベプロテマエミソ
記事No : 4892
投稿日 : 2006/05/28(Sun) 00:03
投稿者 : Horus

俺のところは在だったのでか、
変な機械を付けないとUHFが写らなかったよー。
あれってテレビにチャンネルが無かったからかな?
それとも、ブースターだったんかなー?


タイトル : Re: ∩( ・ω・) ナベプロテマエミソ
記事No : 4895
投稿日 : 2006/05/28(Sun) 03:56
投稿者 : わっぱが

> 変な機械を付けないとUHFが写らなかったよー。
> あれってテレビにチャンネルが無かったからかな?
> それとも、ブースターだったんかなー?

 おそらくそれはコンバーターです。
 UHFの電波を2chあたりに変換する箱です。

 当初のTVはVHFだけだったのですが、難視聴地域解消のために多くのチャンネルを確保するためにより周波数の高いUHFが選ばれました。
 さらに田中角栄大先生が、新規免許を大量発行したおかげで、特に新興テレビ局たるフジテレビ、教育ネット(テレビ朝日)が恩恵をえました。

 カラーTVになってからも、VHFチャンネルに「U」というポジションがあって、チャンネルの下のダイヤルで、13~62chを選ぶという時代が数年続きました。

 そのうちに、中継局の増設で、UHFにも複数局が出来て、ダイヤルはめんどい、ということで、バリコンやバリキャップによる「プッシュ式」チャンネルのテレビにつながっていくわけです。

 なお、カラーテレビ登場の時は、白黒テレビにカラーフィルターをつけて偽カラーテレビにする、という技もありました。(そもそもインベーダーゲームのディスプレイって、白黒にカラーフィルター貼っただけのものでしたしね)

 トランジスタのソニーが真空管なしのTVを作って、スイッチをいれればすぐに画面がでるTVが出来ました。それ以前も、日立がプレヒート方式(真空管のヒーターだけつけっぱなし)というので「ポンパ」という愛称のTVを出していました。(オウムのマークの木戸カラーでした)

 今は湯沢旧市内も、40ch台で全てのチャンネルが見れるので、VHFアンテナは不要になりました(小さいアンテナで済むようになった)。50ch台も使えるので、ゴーストが少ないほうが選べます。

 さて、後編は、NTV紅白ベストのプロデューサーとナベプロの大戦争は出てくるかなあ・・・・


タイトル : わっぱが人工無能疑惑
記事No : 4911
投稿日 : 2006/05/29(Mon) 09:53
投稿者 : 一級市民

>
>  さて、後編は、NTV紅白ベストのプロデューサーとナベプロの大戦争は出てくるかなあ・・・・

かなあ  って書き込んだ時間がすでに放送後じゃないのか?


タイトル : ひるママかねね
記事No : 4912
投稿日 : 2006/05/29(Mon) 12:19
投稿者 : わっぱが

> >  さて、後編は、NTV紅白ベストのプロデューサーとナベプロの大戦争は出てくるかなあ・・・・
> かなあ  って書き込んだ時間がすでに放送後じゃないのか?

 いや、CMがウザいので、TV番組ってHDDレコーダの中なので、まだ見てないのでした。
 便利だけど、見ないまま消してしまう番組もあって、とりあえず撮っておく感も強いです。

 VHSビデオと違って、HDレコーダーってCMカット機能が付いていないのでやや不便なのですが。

 テレビこまちとか、あきたローカル放送の番組もオンライン視聴できればいいんですがねー。デジタル化してCHが増えれるとか、放送のインターネット放映が規制緩和されれば、各地のローカル番組が見れて嬉しいです。
 FMゆーとぴあも、町の話題を届けるインタネットテレビ局機能も増えればいいのにな、と思います。あと紙メディア(冊子)とか、FMとのメディアミックスが出てくると電波がとどかないところの私にも嬉しいです。

 まあ、「無能」なとこは正解ということで。



泥湯温泉、道路閉鎖解除

2006年06月01日 | ゆざわネタ
泥湯温泉、道路閉鎖解除
投稿日 : 2006/05/27(Sat) 16:24


 今度こそ安全で楽しい温泉地として、再生して欲しいです。
 後ろ向きな話はいくらでもできるでしょうけど、前向きで、今後につながる話こそ、重要になってくると思います。再生=汚名返上のための具体的なリカバリー・プロジェクトなんかあればいいですね。

http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/akita/news/20060527ddlk05040129000c.html

 特に泥湯温泉だけでなく、川原毛地獄は、温泉ライダー連中の聖地の1つですので、どうか永く安全で楽しくて、思い出に残る・また人々のホスピタリティにも感激してお帰りいただく体制作りが大事だと思います。
 また、世間的にも、感染症への抵抗力も下がってきている中では、清潔衛生面で、さらに一層の注意と努力が必要になってこようかと思います。その分野の専門家やアドバイザー、それにお客様の目安箱みたいなものを設けて、改善に磨きをかけるのも大事だと思います。

 とかく秋田は無愛想・ぶっきらぼう、というイメージがありますから(事実かも)、「まごころ秋田」のキャッチフレーズを目指して、地域そうぐるみの展開も大事だと思います。下世話に言えば今後の地域の存続は、外貨の獲得とどれだけ交流があって「とじぇねぐねか」、また自己満足だけでなく外からの評価も大事だと思うので、公共セクターが旗振り役をやる必然性も高いと思います。

 湯沢を残すために・湯沢が残るためには、他の地域から「いいところだった」と言われるような地域になることだと思います。

 しかし、「立ち入り禁止」の立て札が残っていたあたり、県の出先と市役所との普段の連携のなさが感じられます。県庁の手落ちを攻めるのではなく、県の出先との密な連携がない現状を憂いて、具体的な改善策・再発防止を今週中にとって欲しいと思います。きっとそれは危機管理や前向きな県市連携プロジェクトなどにもつながってくると思います。

湯沢も国体臨戦態勢=地方点描の記事

2006年06月01日 | ゆざわネタ
湯沢も国体臨戦態勢=地方点描の記事
投稿日 : 2006/05/26(Fri) 05:01


 湯沢市役所の「国体推進課」が総合体育館にお引越しで、いよいよ国体モードに入ったとの記事でした。
http://www.sakigake.jp/servlet/SKNEWS.Column.chihou?newsid=20060525ay

 選手団を迎えるため、民泊協力会の組織化が課題とのこと。昭和30年代と異なり大きな座敷を有するお宅も少なくなったでしょうけど、新市では小安温泉や秋ノ宮温泉などもありますから、これを気に湯沢の自然も楽しんでいって欲しいところですね。

 「湯沢ならではのもてなしで、他県から訪れた「息子たち」を歓迎しようではないか」と、ここでも湯沢市にエールが送られています。

 湯沢ネタが多い毎日新聞では、湯沢雄勝の滞在型観光を考える「こまちの郷・観光創造隊」の発足の記事がありました。
 従来、まったく弱かった「観光宣伝・情報発信」、「旅行商品企画」、「交通アクセス検討」、「食と土産の企画提案」などにつき部会を設けて検討するそうで期待してます。HPで情報発信してくださいませ。
http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/akita/news/20060525ddlk05040213000c.html

JRさんもアドバイザーで入っていただけるようで、湯沢駅まで延伸された「土日きっぷ」の活用・PRや、3連休きっぷ、トレンたくんなどの上手な活用法、駅からの無料レンタサイクルなど、2次・3次アクセス&周遊メニューの開発に特に期待してます。

 国体関係の担当者さん、ボランティアさん、市民のみなさんのご活躍を祈っています。

 あと、「奥羽南線沿線フォトコンテスト事務局」が11/1-30の期間で実施されるそうです。応募先は湯沢市役所総合政策課とのこと。(http://www.hana.or.jp/hana/nitiniti/news06/May/n060525a.html)

 新幹線よりも、鈍行停車駅にこそ、見所があるんじゃないかな、、という発掘になればいいですね。無人駅のホームを掃除しながら談笑している地域の方々の写真などもいいですね。
 作品は今年の1/1以降撮影のもの、とありますから、雪景色や桜の風景などすでに撮影済みのものも、また、これからの新緑・盛夏の風景も応募対象です。
 というわけで、奥羽線のPRのために、デジカメをもって、奥羽線をあちこち放浪してみるのもいいかもしれませんね。