こんにちは、のほせんです。
すこしばかり間が空きましたが、みなさんは、いかがお過ごしでしょうか?
日々の暮らしに追われていると、すぐに月日が経ってゆくおもいとは裏腹に、
この国の「人で無し」の情況が放置されたままなのを、いささか歯がゆくおもうのはわたしばかりではないようです。
あの山本太郎氏もまた人でな無し原発体制に業を煮やし、
天皇にその心情を託そうとしたということです。
天皇への「直訴」といえば、明治34年の田中正造氏のことが真っ先におもいうかびます。
“ 真の文明は 山を荒さず 川を荒さず 村を破らず 人を殺さざるべし ”
足尾銅山鉱毒を告発しつづけた田中正造氏は、
それにたいして問答無用と、なりふり構わず富国強兵・近代化に突っ走る時の政権と社会ににむかってこう訴えたが。・・・
それにしても、皇室ジャーナリストなる者をはじめ、御用メディアに巣食う者らは、
まるで「不敬罪」という言葉が喉からでてきそうな風で異常なやからです。
「畏れ多くも陛下にたいして不敬である」という、かび臭いナルシズムをともなった心情が
まだこの時代にも存在することが学習できました。
明治維新の薩長の権威付けのためにする、錦の御旗と王政復古のPR戦略が奏功し
やがては日露戦争の凱旋によって、「天皇」は日本の国民の共同意識の核のように深く埋め込まれてひさしい。
他国を負かし収奪するという帝国主義思考が根付いたのと機を一にして、いよいよ
国民が共有する「父性としての天皇」がうみだされたとはいえ、
天皇個人や天皇家に表立った権力が付与されていたわけではない。
薩長倒幕派と組んだ謀略家・岩倉具視以来、いわゆる君を戴いた「君側の奸」がつねに取り仕切ってきた。
いまでも同様に事に乗じて、「天皇」を山車に乗せて恣意的な権力情況を謀る時代錯誤の者たちがいないではない。
だが時を経た現代において、はたしてそれがまだ、
ひとびとの心情のなかに遺されているのだろうかと、おもっていたのだが、
今回の山本太郎氏の、いわば「直訴」の行動に
いささか虚を衝かれたおもいがある。
おもうに、山本氏は天皇に接する機会に高揚して、どうせなら
園遊会なる茶番に意味あるものを持ち込もうとしたにちがいない。
そうでなければ、山本氏自身が何のためにそこに立っているのかわからなくなるからだ。
とにもかくにも山本太郎氏は、ひとつの直訴状を天皇に手渡した。
一旦、みずから受け取った以上はほんとうなら天皇はなんらかの返答をする必要ができたのだ。
したがってある意味では天皇にとっても、深刻な局面に立たされたのだが。・・・(このことに誰も注視できていない。)
それにしても、すくなくとも山本氏は天皇につよい「父性」を抱き持っているのだろうか、祖父らの時代のように?
「やむにやまれぬ」心情とはいえ、よりによって天皇とは、ここのところがたいへん興味深いところである。
それははたして何処から由来しているものなのか?
時代は、もうすでに明治、大正、昭和ではなく、はるかに平成も二十五年を過ぎようとしているのだが?
どのような立場・事情であれ、この時代の現実から疎外され、いくばくか解離している人が、
自己意識をある種のナルシスティックな摺り寄り、ないしは依存といえる拠りどころへと向かわせるのは避けられないようにおもえる。・・・
-- さて、「直訴」といえば、
高橋和巳の渾身の名著「 邪宗門 」には、
-- 伊勢神宮において、五十鈴川を渡って、その方(天皇)にむかって「諌暁(かんぎょう)!」とさけび、直訴状を手に走る少年の光景が描かれている。・・・
“私の描かんとしたものは、歴史事実ではなくて、
総体としての現実と一定の対応関係をもつ精神史であり・・・” と注釈しているこの著作は、
昭和五年における、ときの権力・官憲による「大本教」への不敬罪、治安維持法、自殺幇助違反容疑等による弾圧を境に、
信仰する者の内なるたたかいと苦悩と、そして敗北と逃亡の果ての即身仏のような死を、徹底して描いたものである。
( 次回につづく )
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