昨日の続きになるが、視力障害者の母と暮らしたことを書きます。
視力障害者の介助は言葉で言えない程、大変でした。
一番辛かったのが、国鉄や近鉄の鉄道に乗車・下車
することで、跨線橋の階段を母をおんぶして上下することです。
上りはそんなに辛くなかったのですが、
下りはよく階段を踏み外して、母ともに下に落ちて
大怪我したこともありました。救急車で運ばれたこともありました。
生活も、炊事は出来ないので殆ど私がしました。
包丁は使えても、ガスレンジが使えない
のです。風呂も、母と一緒に入浴しました。目が見えない
ので、体を洗う・入浴後の体を拭くことができないのです。
今の住宅の浴槽は寝て入りますが、以前の府営住宅の
風呂はしゃがんで入っていました。頭を洗うのもしていました。
これが、小学5年生から亡くなった55歳まで続きました。
殆ど仕事をしながら介助しましたので、会社には行かず
自宅で仕事をしていました。殆どの会社は介護勤務は
許されていませんので、内職(非常勤)扱いでした。
母には兄妹が6人いましたが、何も援助がありませんでした。
母が亡くなり、葬式も参列してくれませんでした。
寂しい葬式でしたが、私にとって一番大切だった
私を生んで苦労して育ててくれた母ですので、
大きな花束を棺にいれて火葬場で見送りしました。
今は、別に悔いはありません。
50年間の介助は山あり谷ありの日々でした。 終わり
視力障害者の介助は言葉で言えない程、大変でした。
一番辛かったのが、国鉄や近鉄の鉄道に乗車・下車
することで、跨線橋の階段を母をおんぶして上下することです。
上りはそんなに辛くなかったのですが、
下りはよく階段を踏み外して、母ともに下に落ちて
大怪我したこともありました。救急車で運ばれたこともありました。
生活も、炊事は出来ないので殆ど私がしました。
包丁は使えても、ガスレンジが使えない
のです。風呂も、母と一緒に入浴しました。目が見えない
ので、体を洗う・入浴後の体を拭くことができないのです。
今の住宅の浴槽は寝て入りますが、以前の府営住宅の
風呂はしゃがんで入っていました。頭を洗うのもしていました。
これが、小学5年生から亡くなった55歳まで続きました。
殆ど仕事をしながら介助しましたので、会社には行かず
自宅で仕事をしていました。殆どの会社は介護勤務は
許されていませんので、内職(非常勤)扱いでした。
母には兄妹が6人いましたが、何も援助がありませんでした。
母が亡くなり、葬式も参列してくれませんでした。
寂しい葬式でしたが、私にとって一番大切だった
私を生んで苦労して育ててくれた母ですので、
大きな花束を棺にいれて火葬場で見送りしました。
今は、別に悔いはありません。
50年間の介助は山あり谷ありの日々でした。 終わり