4-T ~レントの日々~

レントの期間、イースターまで聖句を読んで備える日々の記録

ヨハネによる福音書第20章および第21章

2012年04月08日 08時04分30秒 | デボーション
主イエス・キリストの復活を信じる皆さん、イースターおめでとうございます。
年度初めの仕事で大変な思いをされている方も多いかと思いますが、
今日は主イエスの復活されたことの喜びを思い起こして、心の平安がありますようにお祈りいたします。

さて、このブログもイースターを迎えた本日で最後になります。
今日はヨハネによる福音書第20章および第21章になりますが、主イエスが葬られて次の週の初めの日の朝早く、マグダラのマリアが墓を見行くところから始まります。
このマグダラのマリアが墓石が取りのけているのを見て弟子たちの所に行き、続いてシモン・ペトロともう一人の弟子も墓へ見に行きます。遺体に巻きつけてあった亜麻布だけがあり、もぬけの殻。その亜麻布は安置場所ではなく、
少し離れた所に丸めてあったとあります。この時点で「主イエスは必ず死者の中から復活されることになっている」という聖書の言葉をまだ理解していなかったので、特にマグダラのマリアは墓の外に立って泣いていました。

この他にも多くの弟子たちの前に主イエスは現れたのですが、第20章の最後に本書の目的が記されています。
その目的は読者向けに書かれているかのようです。
「イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」という2つの目的が記されています。
その後で主イエスとシモン・ペトロの対話の様子が記されていますが、アガペーということが言えなかったシモン・ペトロはアガペーを知らなくて主イエスのことを「愛する」と言えなかったのではなく、これまでの裏切りのことなどを考えた時、言えなかったのだと思います。そして、主イエスはシモン・ペトロに「わたしの羊を飼いなさい」ということと「わたしに従いなさい
」という言葉を残されています。
主イエスは復活されて、そして「わたしに従いなさい」という言葉を残されました。

この世で主イエスに従うということは具体的にはどのようなことなのでしょうか。
私たちの人生は、どんな人であれ順風満帆というわけにはいきません。
為政者の不当な弾圧に抗して、切ない思いをしながら過ごすときもあります。
非正規労働・有期雇用契約労働の中で本当に苦しんでいる人たちも沢山います。
そのような世の中にある矛盾を自分の問題としてしっかり受け止めながら、
隣人を愛するということの実践をたゆまず行いたいものです。
しかし、権力者は様々な分断策を講じて、その力を奪って消耗させてきます。
孤独に感じる時にも、「神様はわたしの力です」そう告白できる勇気を与えてください。

ヨハネによる福音書第19章

2012年04月07日 08時24分52秒 | デボーション
ヨハネによる福音書第19章では、ピラトによる尋問と祭司長たちとのやりとりの後、十字架につけられて、そして息を引き取られ、アリマタヤ出身のヨセフにより遺体を取り下ろし、ニコデモと共に亜麻布に包んでだれも葬られたことのない新しい墓に葬られたところまでの話が記されています。

「ローマ使徒信条」を受けた「使徒信条」では「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」とありますが、これは当時のローマ圧政に対する様々な感情もあったにせよ、もう少し丁寧にポンテオ・ピラトの行った行為を事実判断に基づいて評価すべきだと感じます。

ピラトはまず過越し祭の慣例としてだれか一人を釈放することになっている恩赦をもって主イエスを釈放したらどうか、ユダヤ人たちに問いかけます。しかし、ユダヤ人たちは強盗であった罪のあるバラバを釈放せよと訴えます。ここに当時のユダヤ人たちの罪があります。

ピラトの罪は、主イエスに罪を認めていないのに、ユダヤ人たちの圧力に押されたのか、鞭打ちをしたうえで、兵士たちが「ユダヤの王、万歳」といって平手打ちをしたことを咎めなかったことが彼の罪の一つに数えられます。

そしてまたピラトは総督官邸に戻り、主イエスの「神から与えらていなければわたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い」と答えられた言葉により、釈放しようと努めます。
しかし、ユダヤ人たちは、主イエスを釈放するならピラトは皇帝の友ではない、と強迫を行います。
正しい裁きによらず、ローマーという権力をかさにきたうユダヤ人たちのこの言動に罪があります。

そして次にピラトはヘブライ語でガバタ、「敷石」と呼ばれるところで裁判を行います。それが過越し祭の準備の日の正午ごろであったとあります。ペテロが三度目に主イエスのことを知らないと言って鶏が鳴いた朝からここまで半日ということになります。マルコによる福音書では十字架につけられたのが午前9時とありますから記述が異なりますが、鶏が鳴いてから午前9時までにピラトの尋問と死刑の判決の受け、兵士たちに侮辱されるまで5時間から6時間で行われかどうかは疑義が残ります。ここで犯したピラトの過ちは「見よ、あなたたちの王だ」とユダヤ人たちに言います。ユダヤ人たちが殺せ。殺せ。十字架につけろ。」というと、ピラトはまた「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言います。ここで悪意(法律用語としての)と思うのは、第18章37節で主イエスご自身が「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」と自分がユダヤの王であると自称した事を否定しています。そのことを知っていて、あえて「王」という言葉を用いています。これは冤罪が起こる現場でよく行われる「言葉の言い換え」というものです。そしてなおも祭司長たちは「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えたとあります。これ自体、権力におもねる神様を軽視する言葉であるのですが、ルカによる福音書第23章では敵対していたヘロデがピラトの傀儡となり主イエスをあざけったことも記されています。
こうして、ピラトは自分の権力の座の名誉を惜しんで、罪を認められなかった主イエスを祭司長たちに引き渡したのです。そこには一切の罪状認否はされていません。もし、神の子と自称した事が律法によれば死罪に当たることを主張するのであればこのガバタの裁判の席で、冷静に罪状認否が為されたはずなのです。

その後主イエスはゴルゴタで十字架につけられましたが、ここでも「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いた罪状書きを十字架の上につけたとあります。これはヘブライ語だけでなく、ギリシア語やラテン語でも書いてあったとあります。ここでまた祭司長たちは言葉の言い換えをピラトに教唆します。それは「『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」といったことです。「神の子である」と「ユダヤ人の王である」とは全く別のものです。これはとんでもない偽りの言葉です。
しかし、ピラトはなにゆえか、そのままにさせました。ピラトにとってはユダヤ人の王という先入観を捨てきれなかったというよりも、ローマの支配下にあってユダヤ人の王はいなくなったという自分の功績を誇示したかったのかもしれません。

この後、主イエスは息を引き取られるのですが、医学的見地による直接の死因はわかりません。少なくとも兵士が主イエスのわき腹を槍で突いたのはその後です。するとすぐに血と水とが流れ出たと書いてあります。翌日が過越祭であったために、ユダヤ人たちは翌日まで十字架上に残してはおけなかったので足を折って降ろすことをピラトに願い出ていたのですが、主イエスは既に息を引き取っていたために、足を折られることはなかったとあります。それでもわき腹を槍で突く必要があったどうかは不明ですが、他の福音書の記述でもローマの兵士は主イエスに対しかなり多くの侮辱を行っていますので、事実だったのだと信じます。

そうじて、死刑判決とか裁判とか書かれていますが、その判決が導き出される過程が裁判と呼ぶには実にお粗末なもので、当時には三権分立という言葉がなかったにせよ、裁判としての体を為しているとはとても言えません。大きな声を出した者が勝ちというような不当な判決です。ピラトが罪状書きに書いた「ユダヤ人の王」という言葉はローマの権力に服さなかったユダヤの権力者というでっちあげです。それをまた自称したと書かせようとした祭司長たちの罪はもっと重いものです。

受難週を考える当たって、人々の罪を贖った主イエスの十字架の意義が強調されますが、そもそもこの裁判では何が不当だったのかという視点も併せて考えなければ、その意義が私たちの中にある罪への意識が希薄になる可能性があります。
主イエスが受けるべきだった判決はノン・リケットかどうかというレベルのものではなく、罪が認められなかったのにもかかわらず刑が執行されてしまったという問題があります。そしてその対象が神様の遣わされた罪のない神の子であったというギャップが二重に、この十字架の意味を私たちに問いかけています。誰が主イエスを十字架につけたのかを。

ヨハネによる福音書第18章

2012年04月06日 07時25分07秒 | デボーション
ヨハネによる福音書第18章では、主イエスが不当に逮捕され尋問され不当な判決を受ける話が記されていますが、他の3福音書とは異なる部分もあります。

逮捕されるシーンでは、イスカリオテのユダの接吻による合図はありません。祭司長たちの下役の質問に答えて、主イエス自らが「わたしである」と表明しています。

ペトロによる抵抗があった後、主イエスは大祭司カイアファの舅であるアンナスの所に連れて行かれますが、下役から「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」と言われて平手打ちを受け、次は大祭司カイアファのもとに連行されます。

そして、カイアファのところから明け方に総督官邸に連行され、ピラトによる尋問が始まりますが、祭司長たちは汚れないで過越しの食事をするため、という理由で官邸には入らず、ピラトに丸投げしたような感じを受けます。
そのピラトは罪状を見つけだすことができず困惑しますが、ピラトの尋問の最後は、主イエスの言われた「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」との答えに対し、「真理とは何か」と尋ねたところで中途半端で終わっています。
結局ピラト地震では罪状認否ができなかったので、過越祭に釈放することになっている者に主イエスを選んでよいかどうか、ユダヤ人たちに問いかけます。

聖書のメッセージとして事は起こらなければならなかったということはわかるのですが、事実判断としてこれはノンリケットであり、群衆に裁きを任せるととんでもない冤罪が起きかねないことを示唆しているとも言えます。そういう意味でも、裁判員制度というのが、可視化されていない取り調べ同様に非常に危険な要素を含んでいるものだと言えるでしょう。
結局アンナスもカイアファもピラトも、自分自身で主イエスの罪状認否はできず、皆、この裁きを無責任に丸投げした、この事実判断はしっかり持つべきだと思います。

ヨハネによる福音書第16章及び第17章

2012年04月05日 05時49分01秒 | デボーション
ヨハネによる福音書第16章では、主イエスが弟子たちのもとを去らなければならないことと、弁護者である聖霊が遣わされること、主イエスが去ることによって悲しみことになるが、その悲しみが再会により喜びに変わることが主イエスの言葉として記されています。

現代に生きる私たちは、主イエスが生きていた時代を直接体験していませんし、その喪失感というものを具体的な感覚としてしりません。聖書を読んで感情移入する部分はあるかもしれませんが、弟子たちの味わった喪失感というものは私たちには理解できないものなのかもしれません。しかしながら、主イエスの示された愛の業を行うとき、世は私たちを憎むとあります。
第16章の最後に主イエスは「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と弟子たちを励まされています。
弟子たちと同じ喪失感はないけれども、この世において苦難があることは現代でも同じことです。
しかし、その苦難は、その後に訪れる平和を得るために必要なものなのです。

第17章の「イエスの祈り」は、他の3つの福音書とは異なり、ゲッセマネという地名は書かれていません。
この祈りの中で9節以降において、弟子たちが守られ、また主なる神と主イエスのように一つとなるように、父なる神に祈っています。

私たちキリスト者がこの世にあって、支配者のために単なる安全弁として働くか、それとも真に愛の業に生きて世の支配者から憎まれようとも、父なる神から遣わされた主イエスを信じてその信仰を貫けるか、それが試されています。
そのためには、はっきりと信仰を言い表すことが必要ですが、信教の自由についての認識はまだまだ甘いのかもしれません。
身近な細かいことまで言うと、例えば町内会費の中に神社へ納められるお金、とくに靖国神社や護国神社への参拝に関わるお金が含まれていた場合、それに対して会計を分けるよう訴えかけていくことが必要だと思います。空知太神社裁判での最高裁や高裁の判事の判断は、宗教と権力は癒着してはならないことの認識が不足していると感じると思うのですが、それは私たちキリスト者の認識の甘さでもあります。
今一度、私たちが世に属しているのか、それとも主イエスの名に生きる者なのか、示し、そして迎え来る苦難の中で私たちを守り導いてください。


ヨハネによる福音書第14章および第15章

2012年04月04日 20時11分54秒 | デボーション
ヨハネによる福音書第14章及び第15章では、主イエスと父なる神との関係、主イエスと聖霊との関係が、フィリポとの対話をはさみながら主イエスの語った言葉として展開されています。

フィリポの語った「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」との言葉は見えないものをなかなか信じられない私にも共通する疑問であり、自分が満足するか否かという視点の質問は、まさしく我が身かわいさで生きている私のエゴそのものです。

主イエスはまことのぶどうの木であり、父に至る道であることは理解できますし、そのために主イエスの名において聖霊をお遣わしになることは信じられます。しかしながら、一方で主イエスを信じ、その掟を守り、主イエスの愛のとどまることが、この世から憎まれ迫害されるであろうということとセットであることは、我が身かわいさで生きている私にとってはつらいものがあります。

第15章22節から25節では、主イエスを憎む者についての罪について、それが悪意であること、すなわち主イエスの業を見た上で、知っていて、主イエスと父なる神を憎んでいることを指摘しています。
ここで言うところの、「善意」あるいは「悪意」というのは日常用語のそれではなく、法律用語のものとしてとらえてみれば、主イエスを信じる私たちが何を証し、世に伝えていかなければならないかということも見えて来ると思います。
世に罪があるならば、それが誰に証明責任があって、どういった場合にノンリケットとされるのか、厳密な証明とはならないまでも、論理的な証明をしていく責任が私たちにあるのだと解することができます。

消費税論議にしても、社会保障と税の一体改革の中で、何が本当の課題であり、消費税が本当にそれを解決するのか、充分な稟議がなされないまま、為政者の意のままに進んでいっています。消費税を増税するのが本当に誰のためになっているのか、正確に把握し、問題を解決する者にならないのであれば、それを追求し証明していく責任が私たちにはあると思うのです。
この世に生かされて、主イエスを信じる者としてその意義を知らしめてください。

ヨハネによる福音書第13章

2012年04月03日 20時42分59秒 | デボーション
ヨハネによる福音書第13章では、「弟子の足を洗う」「裏切りの予告」「新しい掟」「ペトロの離反を予告する」の4つの記事が記されています。

「弟子の足を洗う」では、主イエスが弟子の足を洗われた後、その意味について弟子に尋ねられます。
それは弟子たちが互いに足を洗うようにと模範を示されたということです。
そしてまた、「事が起こった時」に『わたしはある』ということを弟子たちが信じるためでもあるのです。
『わたしはある』ということは、旧約聖書に戻って、その名の由来に気付かないとならない訳です。
これは逆説的ですが、「裏切りの予告」「ペテロの離反を予告する」で記されていることは、
18節の「『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない」ということを象徴的に語っているのだと思います。
よく考えてみれば、主の晩餐をいただいている私たちもまた裏切る存在なのかもしれません。

ところで、『わたしはある』という言葉は旧約聖書にも、
そしてヨハネによる福音書第8章58節にも「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」と書かれています。
これと対極にあるのは「わたしは成る」ということができるでしょうが、それは誰かにつくられてきた存在であることを意味します。
観念としては分かっていても、心の底から実感として『わたしはある』という方を信じるのは実際には難しいものです。

そして「新しい掟」は「互いに愛し合いなさい」という言葉に尽きます。
残念なことに、キリストの名のもとに多くの争いが生まれ、殺し合い、そして憎しみの憎悪の連鎖がいまだに止まっていないことの人間の愚かさを覚えます。
父なる神が主イエスを通して命じられたこの新しい掟を守るならば、わたしたちキリスト者が弟子に連なるものであることを、皆が知るようになるというようにも読めます。
この世を作られた主なる神を信じ、また隣人を愛せるように、矛盾だらけのこの世に中に私を遣わしてください。

ヨハネによる福音書第12章

2012年04月02日 07時22分31秒 | デボーション
ヨハネによる福音書第12章では主イエスがエルサレムに入る物語が記されています。
その前にベタニヤで香油を塗られる話とラザロに対する祭司長たちの暗殺の陰謀の話があります。
それから、過越祭の前にエルサレムに主イエスはなつめやしの枝を持って大勢の群衆に迎えられるわけです。
この事をヨハネによる福音書では「栄光」を受けたとしていますが、さらにその事を補強するように、ギリシア人が主イエスに藍に訪ねてくる話があります。
そののち、主イエスは自分の担った役割について教え始められるのです。
第12章の中で、この福音書記者は自らの言葉でイザヤ書の言葉を引用しているところがあります。
それが36節後段以降の「イエスを信じない者たち」の話です。
ここでは2つの言葉が引用されています。
「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。主の御腕は、だれに示されましたか。」
また群衆が主イエスを信じる事が出来なかった理由として、
「神は彼らの目を見えなくし、
 その心をかたくなにされた。
 こうして、彼らは目で見ることなく、
 心で悟らず、立ち帰らない。
 わたしは彼らをいやさない。」
非常に厳しい言葉ですね。
そして、この福音書記者の注釈として「議員の中にもイエスを信じるものは多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイはの人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは神からの誉れよりも、人間からのの誉れの方を好んだのである。」
この記述は、ヨハネによる福音書の第1章5節の「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」という考え方を一貫させています。
しかしその後で、主イエスの言葉が記されています。
<47節から48節>「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。」

つまり、主イエスは世を裁かないが、別に裁くものがあるということ。主イエスの救いの言葉を信じる者には救いの道があるということを、この福音書記者は力説したいのだと思います。

この世、というものは最近の出来事から、私は原子力発電にシンボリックな物を感じます。
原子力ムラというものが、なぜこれほどまでに、人の管理できないものなのに人を縛るのか、その闇の力の恐ろしさを感じます。
電気料金3パーセントというシステム上の問題もありますが、ここまでくると民間企業とは到底言えません。なぜ独占禁止法に違反しないのか不思議です。民間であれば、今頃破産か会社更生法の適用を受けているはずです。
コストについてもいろいろ論議がありますが、解体費用、その後の維持管理費用を別にしたとしても原子力マネーが反対意見を無視してまで根強いのには、実にコストがかかるということに尽きると思います。突き詰めて言えば、労働安全衛生に沿って行うとすれば、多くのものを雇用しなければならなくなります。こうして作られた雇用者は街の経済を潤すことにもなります。
このようにして大きく複雑な利権と化した構造から、人々はなかなか抜け出せないのです。

このことはキリスト教会も同様です。もっと明確に、原子力産業という奴隷状態から解放されることを願わなければならないはずなのに、利権構造に組み込まれている限り、明確な声明一つ出せていません。
何しろ、私自身、その原子力マネーに育まれて大学まで出させてもらった身分なので立場は微妙ですが、この奴隷状態から離れて、持続可能な産業に切り替えていく過渡的目標を持つべきだと思います。
人間からの誉れ、人間の戒めではなく、神様からの誉れ、神様の戒めを教えてください。


出エジプト記第40章

2012年04月01日 09時28分03秒 | デボーション
いよいよ出エジプト記の最後の章です。
出エジプト記第40章では「幕屋建設の命令」と「主の栄光」の2つの記事からなっています。

この出エジプト記のテーマは「エジプトからの脱出」と「幕屋建設」であって、約束の地カナンに入る過程での諸民族との争いのことは一切記事として出てきません。
この章も幕屋建設を主がモーセに仰せになった通り行ったところで記事らしい記事は終わっています。

幕屋建設に関わる記事が後半のほとんどを占めているため、約束の地に向かって移動することと、幕屋建設のどちらが大切なのか、という愚問を持ってしまいます。そのどちらも大切であったことは最後に書かれている記述からわかりますが。
その、なかなか進めない事情を書いているのが34節以降です。雲が臨在の幕屋を覆うと主の栄光が幕屋に満ちるので、モーセは臨在の幕屋に入ることができないことと、そうして雲が離れて昇らないときは、離れて昇る日まで出発しなかったとあるので、本当に遅々とした歩みになったであろうことが予想されます。
この雲は、旅路にあって昼は幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れた、とあるので、主の栄光ということが雲というしるしを使って表現されているのです。

私の興味関心は、出エジプト記に書かれている物や数量に関することが史実かどうかということではなく、出エジプトの意義というものにあります。
このことは以前に書いたと思いますが、奴隷にある状態、あるいはしがみついてくる罪ある状態からの解放ということが一つにはあると思います。エジプトを脱出したから罪ある状態から解放されたというのではなく、ここでは臨在の幕屋というのが象徴として書かれてありますが、主がいつも共にいるということが重要なことなのです。

ところで今日は、プロテスタント教会では「棕櫚の主日」といわれています。主イエスがエルサレムに入場するところから始まります。出エジプト記はこれで通読を終えたので、明日以降はヨハネによる福音書第12章から1章あるいは2章ずつ読み進みつつ、また感じたことをイースターの日まで書いていきたいと思います。