空と風と、月と、星。

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辺見庸著・「たんば色の覚書 私たちの日常」より。

2015-10-21 14:50:00 | 日記
こんにちは。あっという間に、一週間です・・

このブログは、リアルアクセス解析しか分からないのですが(プラス前日のアクセス数のみ)、
辺見庸さんのブログ記事の「デモ批判」について
がよく読まれています。

辺見庸は「デモなんかしても無駄」と言った、という風に受け取る人がいたのかな・・
ツイッターなどを見ていて、そんな風にも思いました。
けっして、そうではないと思うのですが。学生有志(シールズ)を持ち上げたい(意のままに操りたいのか、デモを自分の手柄にしたいのか、そういう)勢力を批判していると思いました。
1,2年くらい前か、辺見庸は「今ではデモをパレードというらしい」と苦々しく書いていた記憶がありますが、その「平和的」な部分に、震えを覚えているのかもしれない。戦争したくなくてふるえる、という誰かのフレーズ(それは意思表示だが)・・・それに「乗っかった」とも取れる、大人たちの、善人面した、デモを仕切ろうとする、違う意見の者を排除したり、デモでの逮捕者を助けず、権力に丸め込まれたような・・・そんなのはデモとは言わんぞ…辺見庸はそう言いたかったのでしょうか。
(再び付け加えると、私自身は、政府に抵抗してデモに参加する個人個人の思いは尊いと思い、自分自身がデモに参加できなくても、応援しています)

(辺見庸さんについて。
私が辺見さんの著書を読んだのは、「もの食う人びと」が最初です。圧倒される内容だった(軽い感想で申し訳ない・実際に本を読むと面白いです)。
どこかの国での刑務所の食事で、"ぼそぼそとしたじゃがいも"の給食が出てきたのは記憶している。)


この前の続きです。まず、辺見さんと著書の一冊について。

紹介するのは、「たんば色の覚書」(2007年10月・毎日新聞社)の一節です。
辺見さんは2004年に脳梗塞で倒れ、2005年には大腸がんが発見され、以来、闘病生活を続けながら、というのだろうか、
詩を発表したり言論を書いたりしています。

辺見さんは死刑制度に反対の立場ですが、表面的なものではないと私は感じます。
国家によって殺される側の死刑囚のところまで降りていって、そこから言葉を発している。

「たんば色の覚書 私たちの日常」の、〔自問備忘録〕では、辺見さんは自分自身に問いかけています。
これを読んでいると、グサグサと胸に刺さるものがあります。
その中から、抜粋して転載、紹介。

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1 日常とはなにか、私たちの日常とは。それは立ちどまり青ざめて見返ることのない畏(おそ)れなきいまである。立ちどまり青ざめて見返ることを余儀なくされた者は多くそこに在りつづけるのは難しい。それが私たちの、息を呑むような日常の構造である。
2 日常とはなにか、私たちの日常とは。それは世界が滅ぶ日に健康サプリメントを飲み、レンタルDVDを返しにいき、予定どおり絞首刑を行なうような狂(たぶ)れた実直と想像の完璧な排除のうえになりたつ。
・・・
8 憎悪も肉欲もない、たんなる衝動ですらない、金品めあてでもない、精神の痙攣(けいれん)でも狂乱のすえでも倦怠か虚無のはてでもない、すべての情動を無化した、凍ったピアノ線のような国家の殺意こそ激しく憎むべきではないか。だがしかし、凍ったピアノ線の透きとおった先端は、私の胸底のどこかと知らずつながっていはしないか。
・・・
18 世界には絞首刑用の鉄かん(カンは漢字)をそれと知ってこしらえている工房がまだ存在するのであろうか。
19 世界には絞首刑用鉄かんをそれと知ってこしらえている職人が存在するのであろうか。
・・・
22 幸福な詩人には、彼や彼女の年収の多寡にかかわりなく、国家(あるいは内心の国家)とのも黙契が無意識に成立している、と私が決めつけてしまうのはなぜであろうか。私はだれにたいしても究極の殺意をもちあわせない。いうまでもなく死刑執行官にも死刑執行指示者にも、殺人事件犯人にも。だが、私自身と幸せな詩人たちには殺意にも似た底意地の悪い感情をいだいている。幸せな詩人たちが猫なで声で語る善にしばし総毛立つ。
・・・
24 現在使用されている鉄かんは一般に、縊(くび)られた人びとが恐怖のあまり頸(くび)から分泌した脂汗にまみれているのだろうか。
25 縊られた人びとが恐怖のあまり分泌した脂汗にまみれている鉄かん、つまり新品ではなく、お古の鉄かんを、新たに縊られる者のうなじに押し当てるのは、甚(はなは)だしく人倫にもとる行為であろうか。

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ひとりを死刑にして、死刑に使った絞首刑用具は、その後、「再利用」されるのか、それともその都度「新品」を使うのか・・・
死刑の刑場がマスコミに公開されたことはありましたが、そういうことまでは分からないです。
もしかしたら、死刑を題材にした漫画を描いている作者が、取り上げているのかもしれないのですが、
辺見さんは、そういうことを、まるで、ノロウィルスに感染して吐いたり下したり熱にうなされたりしている人のように、想像しています(と感じた)。
死刑の刑場そのものは、洗って掃除して、次の人の番に備えておく・・ということになりますね・・
粛々と、とか、厳粛に、などと言われますが、たとえばスーパーのお惣菜売り場の厨房で、店が閉まったから掃除をして片付けて、厨房を一通り見回して、「これでまた明日も大丈夫」と変わらないような。不謹慎な言い方をすると、そうなってしまいます。
日常とはそういうものか・・。


そして、車椅子の老人死刑囚のことです。

転載ここから。=====================

(125ページ)クリスマスの情景(2007年7月、京都で行われた辺見庸講演会--「言葉と死---あらがうために」より)

二〇〇六年の十二月二十五日、クリスマスの日の午前中に、日本各地の拘置所にいる確定死刑囚四人に対して、一斉に絞首刑が執行されました。これもまた私たちの日常です。死刑の執行はたいてい平日の午前中に行われます。私はお昼にそれを知りました。私はもともと半身が麻痺していますが、ショックのあまり麻痺が進んで躰(からだ)が硬直してしまいました。私はもともといかなる死刑にもまっこうから反対しています。が、大きなショックを受けたのは、自分の友人のなかに確定死刑囚がいるということもあります。だから常に、今度は彼らに執行されるのではないかと恐れているのです。また、よりによってクリスマスの日にやるか、という思いもある。この会場にもおそらくクリスチャンの方がおられるでしょう。クリスマスに死刑が執行されたということは、フランスの『ル・モンド』あたりからもつよく非難されました。そして、これはあとでわかったことですが、絞首刑を執行されたなかに、死刑確定前に洗礼を受けた男性がいて、その人の年齢は七十五歳だったのです。躰がとても弱くて自力では歩けない人です。その人にまで刑を執行した。このことを私は理屈や倫理だけで怒っているわけではない。「ひどいことをしやがる」という感情だけで頭にきたわけでもない。情景を想像したのです。おそらく、その七十五歳のクリスチャンは車椅子で刑場まで運ばれたと思います。刑場の踏板に立たせるのも大変だったと思います。たぶん両脇から刑務官が強引に立たせたのでしょう。そして首に、絞縄といいますけれども、あのロープをはめたのだと思うのです。私は下手な詩を書いたり理屈っぽい文章を書いたりする人間ですが、私たちの詩や思想は、根源的にはこの日常の情景を想像できるかどうかにかかっているといってもいい。
「クリスマス・キャロル」があの日の夜には流れていました。でも、その朝、現実化したのはそういう情景です。刑務官たちが悪いのでしょうか。両脇にいて「立ちなさい。おい、立て!」と命じたかもしれない刑務官たちが悪いのでしょうか。私はそうは思わない。自分の罪を悔いている。足も立たなくなった老人を強いて立たせて、首に絞縄をつけるという行為。これを強いられ、せざるをえない刑務官ら。彼らの存在と悲劇も私たちの平穏な日常の壁のなかに埋まっているのです。

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最初読んだ時に、車椅子の老人を両脇で抱えて立たせて、首に縄をかけ・・光景を想像するに、すさまじいな・・と思いました。言葉では言い表せない。
また今読み返してみて。
ドストエフスキーの「死の家の記録」の、死にそうな受刑者の足かせを外さないのも、"日常"のうちに入っているから、なのだろうか・・。
そんなことも思いました・・。
この、車椅子の老人への死刑執行のことは、ここを読んでくださる方に知ってもらえれば、と思い、転載・紹介させてもらいました。

辺見庸さんのブログ記事の「デモ批判」について
訪問者数のかなり少ない私のブログ、それでもこの記事にはアクセスが多かったです。
なのでもう一度書きますね・・デモについて。
例えばシリアのような極端に政情不安定な国では、日本とは逆に、政治について話さざるを得ないだろうと想像します。情報を知らないと、それこそ、命に直結してしまう。
対して日本では。
本当は命に直結しているのですが、多くの人は「平和」だと思っている。でも、「」つきの平和・・
そして多くの人は、その「平和」の中で、政府批判のデモをする人を、いぶかしい怪しい人たちだと感じてしまっているのでは?と想像します。
なぜ、この「平和」の中で急進的なことをするんだ?と。
その多くの人たちは、警察が暴力装置だということや(警察は必要不可欠ですが)、国家は国民を思い通りに動かしたいものだ、ということを忘れてしまい、日本は特に政府とマスコミの癒着がひどいと思いますが、マスコミが提案する「良い国民」「良い人」に無意識になろうとしていると私は思う(その中に入るのは私も免れない。私は、「アベ政治を許さない」のようなステッカーを家にも車にも貼れないし、スーパーに行く時にバッグに「NO WAR」ストラップをつける勇気がない。でも、だからといってはなんだけれど、ここで、こうやってブツブツ言っていますが)。
そういうことから遠い存在であるはずのデモの、一部の主催者が、警察と仲良く・・マスコミと仲良く・・じゃ、おかしいんじゃない?
と辺見さんはそういう意味で批判したのではないか、と・・・そう思います。


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