私が子どもの頃、1980年くらいまでであろうか、山手通の一角に小さな食堂があった。
一箭飯屋のような定食屋の屋号は「ブラジル食堂」といった。 ブラジル食堂という名前のブラジル料理店は結構有名らしいが、この話はそのブラジル食堂ではない、古い小さな今はもうない店の話しだ。
私は、どうかんがえても、普通の定食屋というか、純日本風のその店にはラテンの香りはおろか、横文字のひとつも見当たらない薄暗い店内を見て、幼心に「ブラジル」ではなく、正しくは「ブタ汁」食堂なのかなと思っていた。
というわけで、延々と勘違いをしたままの私であったが、ある日父親に、なんであの店は「ブラジル」なのかと聞いたところ、戦争前の移民政策でブラジルに日本からたくさんの移民が行った頃、「ブラジル」はある種の憧れだったのだと聞かされた。
つまり、ブラジル食堂というのは今で言えば、「レストラン・カリフォルニア」とかいったニュアンスだったのだろうとのこと。 そんなおしゃれな響きだったのかと感心したものの、あくまでも仮説。真相は結局分からないまま、ブラジル食堂は山手通の拡幅で取り壊され、今は歩道になっている。
道路の拡幅や、再開発で中目黒や都心部の古い家々や店舗は軒並み立ち退いてしまっており、ほとんどの場合そこで立ち消えてしまう。
都市に残る過去の記憶は、いろいろなものに塗りこめられ、消えてゆくしかないのだなぁ。
いろいろな文化の名残というか、人々の生活の化石というか、そういうものに一瞬の切なさを感じる、年の変わり目。
今年は何が消えて、何が生まれるのだろうか? 願わくば、子どもたちにとってよきものでありますように。
僕は1990年でしたか、訪日時に気になるブラジル食堂の扉を開けてみました。
帰り際に聞いてみると、ブラジルの、確かパラナ州に移住していた、とおっしゃっていたかと。
山手通りの拡張でなくなったのですね。
ブラジル食堂で時々一緒になる、定年間際のように見受けられる女性が、ブラジル食堂の小さな男の子に、しきりに、「握手しよう」と言っていたことを思い出しました。この人は独身で家族がいなくて寂しいんだろうなと思って見ていました。
ブラジル食堂と少し離れて、蕎麦屋、寿司屋、小料理屋「川」が並んでいましたね。
この蕎麦屋で食事をしている時、老人が引き戸を開けたまま、中に入らず入り口に留まったままで、「天丼はありますか」と聞きました。店員が「カツ丼はありますが、天丼はないです。」と言った後も、何度も「天丼はありますか」と聞くのです。私は、老人が、とても天丼が食べたそうだったので、「天丼を作ってやればいいのに」と思いながら見ていました。
小料理屋「川」によく顔を出しましたが、裕福な常連さんが、おいしいそうな「マツタケの土瓶蒸し」等を注文しているのを横目で見ながら、二十歳代の私は、安くてボリュームのある「沢蟹のから揚げ」等をよく注文しました。
当時の男の子とお母さんが一緒に、山手通り沿いの店と同一の一膳飯屋スタイルで続けています。
ブラジル食堂の名前の由来も確認できました。
何処と無く、懐かしいさがある食堂です‼ショウケースに、おかずが‼陳列品されていて 好きなもの選び‼ 会計して~テイブルで~頂きます🍴🙏🎵その素朴さがたまらなく‼すきで‼ドママのワン~シインな感じです‼60